『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(5-4)

第五章 ―「疑惑」 4

―ラジオ五〇年史にうごめく電波独占支配の影武者たち―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.30

出願合戦、史上初のフィクサー

 「司会 東京放送局の生れるまでに、新聞社側と実業家側との競合があったということですが……

 煙山 当時の新聞人は金儲けをまるで敵のように思っていた。それで犬養内閣になって、従来の営利会社説がくつがえり、公益法人でやっていこうということになったので、喜んで力を入れることになったわけだ。新聞と実業家側の間をうまくまとめたのは河合良成君だな。『放送事業生みの親は、実のところ河合君だね』と放送協会の会長にいったことがある(座談会『JOAKの生れたころのこと』から、昭三四、一〇)」(’65『日本放送史』四三頁)

 文中、煙山とあるのは、当時の東京放送局理事で、報知新聞社の出身であった。また、放送協会の会長とあるのは、岩原謙三のことで、芝浦製作所の社長であり、さきに、後藤新平の推薦により、東京放送局設立時の理事長になっていた人物である。

 さて、ここに明らかにされた「フィクサー」河合良成の身分を、もう一度ふりかえってみよう。河合はまず、東京無線電話株式会社の代表として現われていた。ところが、この「座談会」ででてくる煙山や岩原らと一緒に、「公益社団法人設立の起草委員」として名をつらねる時には、「河合良成(東京株式取引所)」と記されるようになるのである。

 さらに、フィクサーとしての活躍が終ると、東京株式取引所を代表する理事には、別人の長満欽司が出てくる。まさに、河合良成の動きは、忍者風、影武者風なのである。

 ところで、電波免許が具体的に審議されはじめるのは、一九二三(大正一二)年一二月二〇日の「放送用私設無線電話規則」の公布以後であるが、決定までに、三つの政権にまたがっている。しかも、この三政権それぞれに、複雑な内情をかかえていた。

 簡単な表にしてみると、つぎのようになる。

任  期 性  格 首  相 逓信大臣
1923(大12).9.2
~24(大13).1.7
薩長閥・軍閥と
政友会の連合政権
山本権兵衛
(薩摩・海軍)
犬養  毅
(政友会)
~1924(大13).6.11 非立憲の貴族院
勅命政権
清浦奎吾
(内務官僚
・枢密院議長)
藤村 義朗
(貴族院)
~1926(大15).1.28 護憲三派連合の
政党内閣
(すでに保守化)
加藤高明
(憲政会・
三菱の女婿)
犬養  毅
(政友会)

 ラジオ電波の争奪戦は、以上の三つの政権にまたがり、二人の逓信大臣を間にはさみながら展開された。争奪戦のうち、二大主力は、この項の冒頭に紹介した「座談会」の表現によれば、「新聞社側」と「実業家側」とであった。まず、この分類にしたがって、最初の出願者と東京代表六団体の関係をみてみよう。

 「新聞社側」には、もともと実験放送などの実績もあり、組織的な動きでは一日の長があった。最初の四一件の出願の中に、すでに東京朝日、報知両紙と、日本電報通信社(いまの電通)、帝国通信社などの名があがっている。それに加えて、社団法人電話協会という、第二陣が用意された。

 「一二年五月、少壮実業家横山俊二郎君は、逓信当局に対して、無線電話放送局設置許可の運動を開始したのであるが、当時逓信省の意向としては、……(略)……新聞社の賛同加盟なき時は、これを許すわけにはいかぬ、という有様であったので、横山君は都下五社すなわち東朝、東日、報知、時事、国民にその加盟を求むるとともに、一面高田商会その他の有力なる実業家を網羅して電話協会なる団体を組織し、同協会の名において放送無線電話の許可運動を開始したのであった」(『日本新聞年鑑』’24年版、六八頁)

 このように、すでに一九二二三(大正一二)年の五月、つまり、放送用私設無線電話規則の発表より七ヵ月も前に、逓信省の意向をくんだ社団法人が発足し、新聞社側の堅陣をきづいていたのである。そして、翌一九二四(大正一三)年、逓信省は、……

 「多くの出願者中より選考の上、最も妥当なりと思惟される一個の出願者に許可せん意向あり、二月二〇日頃にいたり、その選考を終え、右電話協会に対して許可せんとする意向を洩らすにいたったので、ここに同協会は放送局の設置場所を申請しなければならないことになった」(同前六九頁)

 ところが、この時すでに、山本権兵衛内閣は、虎の門事件の責任をとって総辞職していた。

 たちまち、待ったがかかり、やがて、河合良成、郷誠之助らの動きがでてくる。「正力は後藤新平伯を動かし、財界を味方にして、後藤から当時の逓信大臣藤村義朗をくどいてもらった」(『百年史』八八六頁)ということになるのであろうか。それとも逆に、清浦内閣の方から、後藤新平らと相談の上、正力を動かせということになったのであろうか。ともかく、一連の動きがでてきたのはたしかである。

 そして、この年五月には、二八団体の代表六団体が逓信省にまねかれ、仕切り直しとなるのである。

 面白いのは、この時、東京株式取引所(郷誠之助)とともに、横浜取引所(井坂孝)という神奈川の同業者も駆けこみ出願をしており、東京放送局設立の監事には、永野護(横浜取引所)が出現することである。この永野護(故人)は、現在の日本テレビ取締役・新日本製鉄名誉会長の地位にある永野重雄の実兄である。また、東京帝大独法科卒で正力の後輩に当り、渋沢栄一の秘書として渡米したのが社会人の第一歩という人物である。そして、郷誠之助、河合良成、中島久万吉らとともに、戦前は“番町会”、戦後は“新番町会"という有名な利権政治集団の有力メンバーでもあった。

 清浦貴族院内閣は、この集団の、四方八方手をつくした努力と呼応して、免許をおろそうとする。フィクサーの努力はみのるかにみえた。

 「東京では、それ以来、代表団体関係者が協議を重ね、協同一致してことに当る決意を固め、他の出願団体の参加による株式会社東京放送局を創立するもくろみをもって、大正一三年六月六日、『六団体は合同を実行する』との決意と、他の出願団体にも参加を慫慂する意向を、文書および口頭で逓信当局に申しいれ、ついで、六月九日付をもって六団体連署の放送無線電話施設願書を提出したが、そのなかには、他の出願者のほとんど全部の承諾をえたことが付言してあった。こえて六月一一日、清浦内閣の総辞職にともない、加藤内閣が成立し、犬養毅氏がふたたび逓信大臣となった。出願者側では、数回にわたり、逓信当局に対し許可の促進方をせまったが、六、七の二ヵ月間は、なんら進展しなかった」(制『日本放送史』九一頁)

 このように、内閣のかわるたびに、免許方針はゆれ動く。方針というより、利権の行先とでもいうべきであろうか。犬養逓信大臣の復活に勇気をえた「新聞者側」は、まき返しをはかったようである。

 「現在の出願者は、一、二の例外をのぞけば、おおむね営利本位の、いわゆる『会社屋』であって、利権獲得の目的で動いているに過ぎない、という非難の声が逓信要路の耳にはいった」(同前九二頁)

 かくして、ふたたび仕切り直しとなり、すったもんだの末、一〇月には、社団法人東京放送局が誕生するのである。

 しかし、一歩ひるがえって考えると、これらの動きは、「実業家側」イコール「利権屋」という図式だけでは解けないところがある。そして、なぜ、最も明治的・閥族的・官僚的とみられる清浦貴族院内閣が、「民営」を推進しようとしたのか、という疑問も残る。

 そのへんの裏面史に挑むためには、もう一人の重要人物を想い出してみなければならないようである。それは、すでに紹介した清浦奎吾その人であり、まずその下役として、正力松太郎が一役買ったと考えるべきなのである。


(第5章5)「民間」の元警察高級官僚