『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(5-5)

第五章 ―「疑惑」 5

―ラジオ五〇年史にうごめく電波独占支配の影武者たち―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.30

「民間」の元警察高級官僚

 「わたしども民間の手でラジオをやらせようとしていた政策が一変しまして、かかる事業は民営よりむしろ公の機関でやるべきだという当時のいわゆる官僚万能の波に乗って、今日のNHKが成立したわけであります。かくて新聞社、取引所、ラジォ製作所から、それぞれ理事が選ばれ、わたしにも交渉がありましたが、わたしはあくまで民間事業としてやるべきものと考え、理事をことわりました」(『悪戦苦闘』一六二頁)

 民間、民営、そして「反官僚」、「反軍閥」が、正力のポーズであった。だが、いまの民間放送の状況を考えれば分るように、民間必ずしも反官僚ではない。まして、民間=民主的などではない。むしろ、民間=財界=独占=極反動ですらある。

 大正末期、すでに権力は財界の手にうつりつつあった。目先のきく内務官僚たちは、天皇制警察から、財界の反共防衛隊へと、転身しつつあった。また、もっとも官僚的な立場にあった内務警察官僚だからこそ、民衆がいかに官僚統制を嫌うかを、最もよく知っていたといえよう。

 民間にあって、世論を指導する機関、御用新聞として焼き打ちをくったりしないマスコミ、その価値を見ぬいていたものこそ、後藤、正力らの内務・警察高級官僚であった。

 しかも、官営ラジオ=逓信省管轄ということを考えれば、内務官僚の縄張り根性は、いやましに、かきたてられざるをえない。そして、逓信省内部にも、内務省から派遣された高級官僚群はいたし、ほかに後藤新平が逓信大臣時代に扶植した勢力もあったにちがいない。逓信省通信局立案になる「民営」の方針には、当時、副首相格の内務大臣だった後藤新平も、一枚かんでいた可能性すらある。

 ラジオを民間にさせ、新聞と同様に、内務省の監督下に置くという、将来の情報局設置をにらんだ構想があったとしても、不思議はない。事実、日本の内務省が範を取ったフランスの場合、すでにラジオが内務・情報機関の監督下に置かれていたのである。

 正力がさかんにいう「貴族院内閣の内諾」さえ、最初から、その裏にかくされていたのかもしれない。内閣の決定さえ、枢密院の上奏などによって、簡単にくつがえる時代だったのである。国会審議ぬきの、ラジオ免許下付へむけて、内務官僚対逓信官僚、そして逓信官僚内部の暗闘があり、政争の一要素となっていたのかもしれないのである。

 内務=警察官僚ゆえの「先読み」、この事情を、正力は晩年の自慢話として、正直に告白しているようである。

 「正力は、与論とは庶民の中にあるべきだという観念を棄てなかった。

 当時、役所の中で最も官僚的といわれる警察畑を歩き、その畑から庶民の中に生きる正力を生んだというのも妙である」(『創意の人』一五四頁)

 正力のねらいは、このように、下からの世論形成であった。それを、決して「庶民の立場」ではありえなかったが、「庶民の中」から打ち出すもののように擬装すること、これこそが、むしろ、ロシア革命以後という状況下、正力らの警察官僚的任務だったのである。

 それまでの警察の方針は、「不逞の輩」、つまりは支配階級に害をなす雑草の成育をさまたげ、抜きとることに主眼がおかれていた。それがむしろ、曲った成長、支配階級の必要に応じる作物の育成にも向けられはじめたのである。こういう正力らの発想は、第一段階の弾圧の先頭に立ってきた経験があればこそ、はじめて生れるような性質のものであった。

 また、たえず大衆を相手に、修羅場を生きぬいてきた彼らには、状況次第で、すぐに作戦をかえ、本来の目的にせまることが、当然の基本動作であった。しかも、時も時、ラジオ開局と同時に、一九二五(大正一四)年四月二二日には、悪名高い治安維持法が公布されるという時代だったのである。まさに、ことは急を要していた。


(第5章6)後藤総裁かつぎ出しの「画策」