『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(4-5)

第四章 ―「暗雲」 5

―内務省高級官僚たちの新聞界乗りこみ大作戦―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.27

機密費三〇〇〇円にハドソンつき

 「僕が警視庁の官房主事時代の……(略)……仕事はもっぱら政党と貴族院を操縦することだった。だから大いに待合政治をやったんだ。……(略)……あの時の機密費は三〇〇〇円だった。ハドソンの車を一台持っておるし、大したものだよ」(『悪戦苦闘』二二六頁)

 これも、正力自身の自慢話である。そのとおり、正力は、官房主事、警務部長の時代を通じて、内務大臣の右腕であった。

 御手洗辰雄は、正力と同時代の新聞人であるが、その役職の状況を、つぎのように要約している。

 「官房主事は総監の幕僚長として、あらゆる機密に参画するが、それよりもこの地位は政治警察の中心として、すこぶる重要な役割をもっていた。政治情報の収集はもとより、思想関係・労働関係・朝鮮関係・外事係などから直接政治家の操縦もやり、重要法案の難航する時など、反対派の説得までやるのである。高等警察というのがそれで、特高というのはその中の思想や文化関係を担当する、特別高等係のことである。総監のすることは何でも知っておらねばならず、また政府の政策遂行をよく心得て、内閣書記官長・内務大臣・警保局長と直接連絡し、与党の幹事長ともむろん密接につながっていなければならない。官等や地位は低いが、仕事そのものは内閣の政策や運命に関与する大事なことばかりである。当時官房主事の機密費は月三〇〇〇円、ハドソンの専用車一台をもち、その点では大臣待遇だった。議員の歳費が二〇〇〇円、内閣の機密費一〇万円の時代だから、どれ程重視されておったか分る」(『伝記』二五頁)

 つまり、正力の当時の地位は、等級でいうと下の方にみえても、日本の最高機密にふれる重要な部署にあったわけである。貴族院、枢密院、元老、そして天皇というカイライにつながるのが、戦前の天皇制支配であった。日本の政治警察について、大野達三は、いくつかの直接ルートを指摘し、さらに、「絶対主義的天皇制が確立して以後になると、政治警察活動はもう一段、総理大臣をとびこえて枢密院議長あるいは元老と直結し、天皇の組閣下命に重要な役割を果すようになった」(『日本の政治警察』六〇頁)とのべている。正力は、こういう仕事の事務局をやっていたわけである。そして、みずから政党や貴族院を「操縦」していたと称している。

 財界との交渉は、公正会という団体相手であったが、御手洗は、こう書いている。

 「公正会とも近づいたが、ここでは郷が一人ズバ抜けた存在で、正力は郷だけを相手にし、郷もまた正力が決して嘘をいわず、政府のため忠実に働いているのを見て、信頼して何事も打ち明けた」(『伝記』二一〇頁)

 形容詞は別として、正力はすでに、財界の実力者たる郷誠之助と、ここで親しくなっている。この時すでに、郷は、読売新聞匿名組合の出資者であった。

 正力は、こういう重要人物に対しても、体当り戦法で売りこみ、その積極性を買われたようである。そして、貴族たちの組織である「研究会」でも重宝がられ、「研究会幹部の相談相手のようになり、少数の幹部の時には会議の席に出て意見を述べるようなことさえあるようになった」(同前二二頁)というのである。

 そこへ、大震災後に内務大臣に再任したのが、“大風呂敷”のアダ名をもつ後藤新平であった。正力は、後藤の大風呂敷がきらいで、地方転出を願い出たというが、ともかく、警務部長に昇進して、「終生の恩人」後藤とも親しくなる。その状況は、正力自身の語るところによれば、つぎの通りである。

 「そこで、僕は警務部長になった。これがまた不思議なことに、後藤さんという人は官制なんてまったく眼中にないから、警務部長の俺を呼びつけて、政治関係のことをやらせる。『それは権限が違います。警務部長の仕事ではありません」といっても、受付けてくれん。そうこうしているうちに、後藤という人は、俺が考えておるのと違うなと判ってきた。判ってきたから、こっちは本気になっちゃったし、ますます後藤さんの信用を受けるようになった」(『悪戦苦闘』一三八頁)

 このように、官房主事から警務部長の時期に、正力は、郷、後藤という、読売新聞乗りこみの首謀者たちと知り合っている。それも、単なる仕事のつき合いではない。日本の政治を動かす、大きな陰謀の仲間としての関係であった。

 なお、当時の内務省の強大さは、現在の政府・行政官庁とくらべれば、まさに月とスッポンの差であった。大野達三の要約で、その概略をみてみよう。

 「……(略)……要するに内政にかかわるいっさいの行政権を一手ににぎっている中央官庁であった。……(略)……おしなべて現在の国家公安委員会と警察庁・公安調査庁・消防庁・自治省・厚生省・労働省・建設省・農林省の一部・法務省の一部がより集って内務省という一官庁になっていたといえる。全国の知事と高級官僚は内務官僚が任命されて派遣された。地方行政は市町村議会の監督権までふくめて内務省が一手ににぎっていた。土木、建築、治山、治水、消防交通、検閲出版、著作権、選挙、労働および小作争議の調停、営業許可、伝染病予防、神社管理、社会福祉、保険、出入国管理なども内務省の権限内のものであった。それに加えて、天皇制官僚である内務(警察)官僚閥は、議会にたいしても独自性をもち、法律にかわる緊急勅令権と警察命令権をもって自由にその権限と機構をひろげることができ、さらに警察組織を一手ににぎっていたのだから、その権力の大きさは想像に絶するものがあった」(『日本の政治警察』六〇頁)

 この強大な内務省の中核に、世界最強の警察があり、さらに、特高がつくられていた。特別高等課の設置は、大逆事件の年、一九一一(明治四四)年である。それが特別高等部に昇格し、「特高ルート」とよばれる指揮系統に編成された。

 言論弾圧については、特高の中に検閲課があり、さらに、内務省警保局に図書課が設けられていた。図書課の方が本省に当り、特高の検閲課は出先機関であった。さきにもふれたが、『内務省史』によると、「地方で発行される新聞等については、その地の都道府県庁の特別高等警察課(検閲課)で検閲して、問題になる点だけを電話で本省に照会して指示を仰ぎ、係が係長たる事務官または検閲官の意見を聞き即答することが例であった」(同書一巻、八〇五頁)。

 この「図書課」は、ロシア革命に対応して拡充されたが、その時の内務大臣こそは、後藤新平であった。後藤は、しかも、一九一七(大正六)年九月、警察部長会議の席上、思想取締りの要点をのべ、「臨時議会の議決を経て図書課の拡張を行なえり」(要旨のみ、『内務大臣訓話集』六四頁)という報告もしている。

 さて、その後藤が、正力の読売新聞乗りこみに際して、最初の一〇万円の資金を調達し、それが「千古の美談」(『悪戦苦闘』二二一頁)とされているのだが、……


(第4章6)“大風呂敷”の新聞政策