『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(4-6)

第四章 ―「暗雲」 6

―内務省高級官僚たちの新聞界乗りこみ大作戦―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.27

“大風呂敷”の新聞政策

 後藤の一〇万円とは、正力の話によると、後藤がかつて一万円で入手した麻布の五○○○坪の土地を担保に、当時の東京商工会議所会頭「藤田君の名前で、後藤さんが一〇万円借りられたのだ」(『悪戦苦闘二二三頁)。そして、正力自身も、「腹の中では、金を出したのは藤田君だと思っていた」(同前二二二頁)というのである。

 なんのことはない。担保云々はたしかめようもないが、結局は財界資金だったのである。

 だが、なぜに「千古の美談」の一端たりとも当時の『日本新聞年鑑』に、記されていなかったのであろうか。しかも、さきにふれたように『やまと新聞』に関しては、「後藤子爵」の名が現われているのにもかかわらずに、である。

 これも、正力の説明では、本人が口止めしたというのであり、「一言一句、普通の人と逆だよ」(同前二二一頁)とある。やたら売名的な普通の人とちがうのであり、そこが「美談」だという理屈である。しかし、タネを明かせば、これも単純な話で、言論取締りの中心にいた人物が、新聞買収の資金を出したとあっては、大騒ぎになるにきまっている。ほかにも政治家による新聞への資金投下の例は多いが、たとえば、『伊藤博文秘録』であるとか、『原敬日記』であるとか、本人の死後に残された記録で、はじめて表面化している。

 後藤新平の死は、一九二九(昭和四)年であるが、正力がその衣鉢をつぐ意味も含めて、それ以後に「千古の美談」を発表したようである。

 というのは、正力によると、「僕が後藤さんの写真を読売の社長室に掲げたのは後藤さんが亡くなられてからだ」(同前二二三頁)とあり、その後に、後藤新平の長男一蔵に、「一〇万円は、藤田君の金だそうですネ」(同前二二三頁)と聞いている。その時まで、正力には、後藤の金ぐりの経路が分らなかった、という話なのである。

 さて、これもまた、“木を見て森を見ざる”の誤りを犯さぬよう、状況判断にもどりたい。問題はやはり、財界人の場合と同様、人脈と人物にある。

 後藤新平とは、とくにマスコミとのかかわりでみる時、どういう人物だったのであろうか。

 後藤新平(一八五七-一九二九)は、高野長英の親族にあたり、医師として人生のスタートをきった。

 しかし、医学の上でも、公衆衛生、社会厚生政策にむかっていたし、内務省衛生局にはいった。三〇代前半には、ドイツで学ぶことになるが、伝記によると、その時のエピソードからして、政治家としての後半生を定めるものであった。

 『後藤新平伝』全四巻の大著は、その死後に、後藤新平伯伝記編纂会が各界有志によってつくられ、女婿の鶴見祐輔が編著者となったものである。

 ドイツ留学のエピソードは、医学上の研究よりも、むしろ、ビスマルクの国家建設に影響を受けるところが大きかったようである。そして、ビスマルクから、「君は医者というよりも、どうも政治に携わるべき人物に見える」(同書一巻、四二六頁)といわれたというのである。

 後藤は、明治型の閥族政治を改革する近代政治家となった。しかし、それは同時に、大日本帝国の海外侵略を推進する役割でもあった。政治的経歴も、台湾民政長官、満鉄総裁にはじまっている。

 数多い評伝のなかには、『新領土開拓と後藤新平』というのもあり、後藤は、海外侵略のイデオローグの役割をも果してきた。本人の講演による『日本植民政策一斑』とか『日本膨脹論』なる著作も、いくつかの版で出まわっており、大日本雄弁会講談社版の『日本膨脹論』については、別の著作『政治の倫理化』のうしろの広告欄に、「たちまち九版、徳富蘇峰激賞」などと書き立てられている。内容は、なんと、ヒットラーばりの、日本民族優秀論の先駆である。

 さて、このような近代的帝国主義者の一人として、後藤新平は、マスコミ操縦をどう考え、実行していたか。

 早くも、政治家の経歴のはじめである台湾民政長官時代について、鶴見は、「新聞政策」という項目をかかげる。

 後藤は、新聞記者をシラミよばわりするなど、喧嘩をふっかけながら、「多分の調和性を持ち、かつ人を操縦するコツを心得ていた」(同前二巻、八二頁)のであって、台湾にあった長州系と薩摩系の二紙を合併し、『台湾日日新報』という総督府の機関紙にしたりした。

 「伯のこの新聞利用は、ひとり台湾の新聞のみに止まらなかった。伯はひそかに人を内地に派して、常に内地の新聞を操縦せしめ、一方、中央政局の機密を内報せしむるとともに、他方、台湾統治に関する世論の喚起に努めた。その如何なる機略によれるものかは、今にいたって分明でない(同前八三頁、太字は筆者の傍点)

 後藤は、たしかに台湾にいながら、日本本土の新聞まで操縦したのである。しかも、秘密裡にである。のちの逓信大臣、内務大臣となる力量が、すでに発揮されていたといえよう。

 ついで後藤は、初代満鉄総裁となる。満洲鉄道会社は、実質的に、植民地経営の指導部をなしていたが、ここでも後藤は、機関紙として「『満洲日日新聞』を発刊し、ついで英文欄を設けた」(同前八八四頁)。

 このように、後藤は、台湾、満洲という、日本の二大植民地において、マスコミ操縦の経験をつんでいたわけである。

 逓信大臣になると、東京で桂内閣擁護の記者団づくりに動き、関西にも工作している。

 「伯は大新聞の連盟によって、健全なる与論の作興に貢献せんとし、しばしば秘書の菊池忠三郎を下阪せしめて、大阪朝日新聞と大阪毎日新聞とを説かしめた。

 菊池の直接交渉したのは、大阪毎日新聞社長本山彦一で、本山から菊池に送った書翰七通がある」(同前三巻、五二三頁)

 本山書翰の中には、朝日と毎日が中心となって近畿地方の各紙をまとめた事実や、その二大紙の連合が各紙に与える影響が語られている。ここから、後藤新平の新聞支配の発想を、読み取ることができるのではないだろうか。つまり、いくつかの有力紙をまとめて押えることにより、新聞界全体を自主規制に追いこむという、マスコミ操縦の基本構想なのである。

 「機遂に熟せずして、新聞連盟の事は中絶するに至ったのである」(同前五二五頁)が、後藤の基本構想自体は、この経験に学び、のちにふたたびよみがえる。

 内務大臣時代についても、鶴見は、「言論取締」の項を設けて、その冒頭にいう。

 「当時内相として伯の苦心したことの一つは、言論取締の問題であった。

 けだし寺内内閣の成立した大正五年から翌六年にかけては、日本における社会思想の転換期であった。一方には戦時の好況により来る社会運動の拾頭あり、他方には欧米各国における民衆解放運動の影響あり。自然我国における思想の急激に変化し、従ってこれが取締の責任者たる内相として、伯は容易ならざる困難を経験しなければならなかった。殊に社会一般の民衆的大潮と、首相寺内並びに元老山県の保守思想の中間に介在して、伯の立場は、相当に苦しいものであった」(同前六八七頁)

 一九一六(大正五)年に内務大臣となった後藤新平は、その翌年に賞シア革命の余波を浴び、外相時代には、鶴見が「言論機関との小波瀾」と題する事件も起きた。

 一九一八(大正七)年五月一四日夜、後藤外相は、地方長官会議に出席した長官一同を外相官邸に招き、晩餐の席上、国際情勢と国内における任務について、一席ぶったのである。その演説の中に、言論界批判と取締強化の発言があった。これに対して外務省記者団の「霞倶楽部」が、後藤に抗議を申しいれた。ところが、後藤は、「大臣の訓話に関し新聞記者より指図を受くべき筋合いなしと称して、頑として譲らなかった」(同前八二四頁)。さらに記者団が抗議すると、後藤は、「外務省内霞倶楽部用の部屋の使用を禁止し、かつ外務省の情報を一切、この霞倶楽部所属記者に与えずと告げた」(同前八二四頁)。

 この抗争は、ますますエスカレートの一途をたどったが、各社幹部で構成する春秋会と後藤との対決となった。そして、仲裁者もあらわれ、言論圧迫の意図なしという後藤の弁明により、事態収拾となっている。しかし、その釈明の草稿をみると、新聞記者といえども国家の指導監督の外に立つものではないとか、訓示の相手は指導的立場の官吏であるとかの趣旨がもられており、後藤の側では決して、筋を曲げてはいないのである。

 シベリア出兵とともに、米騒動が発生したが、後藤の緊急に進言した対策のなかには、「言論機関の取締を厳重にし思想の険悪に向うを防禦すべきこと」とあり、つぎのようになっている。

 「言論機関すなわち新聞紙雑誌の取締は、当局の至難とするところ、しかも憲政治下にありて、最も尊重すべき機関なるは、もちろんといえども、現に、今次の騒擾に関する誇張なる記事報道が、如何に国民思想に悪影響をおよぼしたるかを見るときは、真に寒心にたえざるものあり。当局の取締にして、今少し早く、かつ厳なりしならんにはの遺憾は、誰人も直覚せざるものなかるべし(同前九六一頁)

 寺内内閣は、総辞職となった。後藤は、この機会に、欧米視察の旅に出た。一九一九(大正八)年のことであった。訪問先は、アメリカ、イギリス、フランス、スイス、オランダであった。翌々年の一九二一年には、工業倶楽部を中心とする「英米視察実業団」二四名が組織されており、その中には、藤原銀次郎の名もみえる(『財界奥の院』二九頁)。後藤の欧米視察行は、この実業団に先駆けるものであった。

 帰国するや、後藤は、「大調査機関設立の議」を、一気に書きあげた。

 「調査の範囲」の第6項に「労働問題」、第7項に「危険思想、各種の社会思想、国家観念ならびにこれに対する国家の対策」(『後藤新平伝』四巻、一八七頁)が挙げられている。

 後藤の大風呂敷は、すぐには実現しなかった。しかし、この調査機関の構想は、やがて、一九三一(昭和六)年の、外務省、陸軍省、海軍省の三省連絡情報委員会、ついで内閣情報委員会、情報部、情報局へと発展していくのである。

 さらに、ラジオ放送についても、後藤は逓信大臣・内務大臣・東京市長と、いろいろの場でかかわりを持ち、東京放送初代総裁となっている。この件では、後藤と正力の協力関係もあり、もしかすると、正力の読売新聞乗りこみの強引さ、そして本人の“武者振い”のかげには、新聞=ラジオの両面作戦さえ考えられるのである。

 ラジオの問題は、次章「疑惑」でふれるが、読売新聞とのかかわりだけを考えても、最早、後藤新平の、「如何なる機略によれるものかは、今にいたって分明でない」(同前二巻、八三頁)というたぐいの動きは、確実にあったといってよい。

 しかも、もうひとり、時の首相さえ、内務大臣経験者であり、意外にも、奥深い権謀術策をよくする人物であった。


(第4章7)維新の元勲たちの伝統