『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(4-2)

第四章 ―「暗雲」 2

―内務省高級官僚たちの新聞界乗りこみ大作戦―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.27

“討入り”講談の真相

 さて、正力が読売新聞に乗りこむ際の、抵抗闘争やいかに、正力の戦法やいかに、というところだが、この真相ほどよく分らないものもない。とくに、正力の死後に出た『百年史』は、省略しすぎて、意味が変っている部分が多い。

 筆者は、関係書の記述のくいちがいをくらべ、いちいち矛盾点を検討してみたのだが、肝心のところが不明なのである。あまりに細部をうがちすぎて、“木をみて森をみざる”誤りを犯す心配もある。そしてむしろ、討入りの様相、とくに読売新聞幹部の抵抗を誇大化することによって、正力が自分を被害者に仕立て上げ、その後のたたかいを有利にはこぶための宣伝に活用したという点が、もっとも重要なのではないかと考えている。

 というのは、たとえば、つい最近、本書の仕上げの段階で出た『宝石』一九七九年七月号でも、正力が一九二七(昭和二)年一月の『文芸春秋』によせた短文を引用しながら、こういう要約をしているのである。

 「松山が突然に正力松太郎を訪ねてきて、無法なことをいいだす。

 ……読売の幹部は全部辞職した、いずれも貴君に対し余り好感を抱かざる様子だ、新聞は明日は発行されるが、明後日からは発行不能に陥るだろう、と話した。自分はこれを聞いていささか驚いた……

 それはそうだろう。正力松太郎は読売の社員の誰にも会っていないのに、正力が気にいらないからストライキをやる、とだし抜けにいわれたのだ。驚かなければ、そのほうがおかしい」(同誌一六八頁)

 この『宝石』の記事の執筆者は、広瀬仁紀(作家)とある。おおむね、正力のいい分を、そのまま要約し、強調している感があるが、そのうち、三点だけをとりあげてみる。

 おわりの方からになるが、正力が驚いたというけれども、すでにのべたように、新聞界として「大いに驚倒」しているので、話はサカサマになっている。つぎは、「正力松太郎は読売の社員の誰にも会っていない」という点だが、そんなことはない。警視庁づめの記者もいるし、正力松太郎はすでに有名人であった。『百年史』にも、「大正一三年の初頭、正力の読売いりまでのわずかの期間に、読売の紙面に正力の名が三回出てくる」(同書二八八頁)と記されている。二度は虎の門事件の関係で、三度目は「私設総監正力さん」の見出しで、くわしい消息記事である。

 さて、大問題は、「幹部は全部辞職」のところである。ストライキということになると、ストライキの是非についての考え方、つまりは、資本家側に立つか、労働者側に立つかで、両極端の差があらわれる。そのことが、双方にとって、真相をみえにくくしているようである。

 まず、辞職なり辞表の提出という点についてだが、これは、正力なり匿名組合の側が求めた部分の方が大きいのである。

 正力と松山は、工業倶楽部において、匿名組合代表、郷誠之助、藤原銀次郎、中島久万吉らの立合いの下で、読売新聞の経営権についての「譲渡契約」を結んでいる。そして正力は、「調印の際、松山社長に五万円、松山についで、去る一三人に合計一万六〇〇〇円の退職手当を支給することを承諾した」(『八十年史』二六一頁)というのである。つまり、すでに「一三名」の退職は、正力も認めている。いやむしろ、松山に引導渡しをたのんだらしいのである。

 というのは、その前に、藤原銀次郎が正力に対して、こういったことになっているのである。

 「松山に五万円やってくれ、そのかわり君が入社して、もし使いにくい人間がいれば、松山に処置させるから」(同前二六一頁)

 ところが、……

 「二月二七日夜、松山社長は同社幹部一同を日本倶楽部に招致し、席上、社長の椅子を正力君にゆずること、自分は顧問となるに決した旨を発表し、幹部は即時帰社して、これを編集、営業両局の全社員に報告するや、全社あげて、たちまち非常の昂奮擾乱におちいった」(『日本新聞年鑑』’24年版、二頁)

 松山は、この夜一〇時半に、正力を訪れる。

 「松山は正力の宅を訪ねて『正力君気の毒だが、明日から新聞は出せないよ。社員は全員君に反対し、すでに部長は一人残らず辞表を出してきた。君はこれからどうするつもりか』といった。そして編集局長宮部敬治・政治部長丸山幹治・社会部長千葉亀雄・論説部員小林俊一郎・花田大五郎をはじめ五味営業局長・西沢販売部長ら一三名の辞表を提出した」(『伝記』一四〇頁)。

 御手洗辰雄の筆によると、松山は、こうやって正力にあきらめさせ、自分が経営をつづけようとしたというのである。しかし、「一三名の辞表提出」については、すでにのべた通りの経過で、すくなくとも人数は、約束通りなのである。とくに、宮部敬治、丸山幹治、花田大五郎の三名などは、「白虹事件」の朝日退社組、大正日日新聞の流れをくむ、いわば普選運動の闘士格だから、正力の方で辞職を願っていた部分であろう。

 そのあたりの事情、はっきりいえば、正力の方で希望した退社メンバーと、松山が持ってきたメンバーとの、くいちがいがはっきりしないと、判断は下しにくい。とくに、松山の深夜の訪問について、「正力の信用を敝履のごとく捨てさり、裏切ったのである」(『八十年史』二六一頁)とまで断ずると、これは明らかに書きすぎである。

 すくなくとも、松山が、だれかを無理にやめさせようとしたという話は、まったくない。正力は、社会部長の千葉亀雄の留任を希望していたようで、事実、早朝の四時までかかって口説き落している。しかし、なりたてとはいえ、社長が一部長の自宅に深夜訪れて、朝の四時まで留任を要請するというのも、異常事態である。そして、そのこと自体が、千葉の辞意の固さを示してもいる。また、当時は読売新聞の一記者だった子母沢寛(本名は梅谷松太郎)は、千葉が、「正力松太郎などという元警察官吏の下で働く気はありません」(『二丁目角の物語』二一九頁)といいつつ、ヒゲをひっぱっていたと記している。

 子母沢寛は、千葉に説得されて残留することになるが、これももちろん、正力に好意を抱いてのことではない。経営者の交代で、「三下」まで辞職することはない、と現代風に割り切ったまでのことである。そして、社長交代については、「日本工業倶楽部の、日本を代表する富豪達からの出資の蔓も切られて終りという悲惨にせまられていた松山社長には、泣いても泣けない土壇場の毎日であったらしい」(同前二一九頁)という受け取り方をしている。

 さて、部長クラスに加えて、次長クラスも辞表を出してきた。乗りこみの当日、「正力が社長室に帰ると、すぐ、社会部次長柴田勝衛がはいって、全次長の辞表を提出した」(『伝記』一四三頁)

 編集局長には、国民新聞の編集局次長の石川六郎を予定していたが、この石川も、「資本家の走く(狗)になるのはいやだ」(『八十年史』二六三頁)というので、正力の方が断念したとある。

 正力は、ストライキ状態の読売新聞を出て、またも千葉の自宅へ走る。そして、千葉に編集局長就任を依頼した。千葉は、「残ると決心した以上、何をやっても同じですから、お引受けしましょう」(同前二六四頁)といった。これが決め手となって、次長クラスには部長へ昇格という条件で留任を要請、やっと新聞発行の体制を守れた。

 つぎに、“首切り浅右衛門”役が登場する。数ヵ月後に、千葉を顧問とし、半沢玉城が編集局長に就任。半沢は、「社会部員をわずか一〇人以下にするほどの大ナタをふるった。そのかわり、整理が一段落すると、自ら責任をとるかのように、あっさり退社した。半沢のあとは、千葉がふたたび編集局長をつとめた」(『百年史』二七二頁)。この半沢は、まるで一件落着ののち、風の中を去っていく“用心棒”そのままの謎の人物である。当時の新聞社では、主筆や編集局長の地位が高く、人事権もまかせられていたから、千葉編集局長を温存しつつ、別人の“首切り浅右衛門”のリリーフ登板となったものであろうか。

 『八十年史』は、この半沢の手口を、簡略に記している。

 「半沢はたいして役に立ちそうもない比較的高給で老朽の記者を、編集局付として仕事を与えなかったから、いたたまれなくなって、自然に退社を申出ることとなり、人員整理は予想以上に順調に進んだ」(『八十年史』二九頁)

 さらには、「不正摘発」に名をかりる恐怖政治である。

 営業局長兼広告部長の桜井貢は、正力がつれてきた幹部だったが、つかいこみをしていたらしく、「正力は、直ちに桜井を解雇するとともにこれを告発してしまった」(同前二九二頁)

 「今度は中村販売部長の不正が発覚した。正力社長は、もちろん間髪をいれずこれも告発した。これで不正は絶えるかと思われたが、またしても販売部員某が不正をやり、これも告発された」(同前二九三頁)

 「また突如として広告部次長の中村が社金五〇〇〇万円を横領した事件が発覚した。……(略)……告発されたと知った中村は、自らの悪事を恥じ、青酸カリ自殺をとげた」(同前二九三頁)

 このように、不正発見、解雇、告発のパターンは、四件もある。正力時代に書かれた『八十年史』では、この告発の正しさが、ルルとして語られているが、務台時代の『百年史』では、「社長が社員を告訴するというこのやり方に、社の内外ともびっくりした」(同書二九三頁)と記している。この方が常識というものであろう。


(第4章3)四大財閥のバックアップ