『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(4-3)

第四章 ―「暗雲」 3

―内務省高級官僚たちの新聞界乗りこみ大作戦―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.27

四大財閥のバックアップ

 話は戻るが、正力松太郎の乗りこみ「資金」となると、これまた、どうにもこうにも整理がつかない。数字のことだから、ニュアンスのちがいではすまされない。それが、まったくマチマチなのである。

 正力らは、のちに、当座の資金一〇万円のみを、後藤新平に借りたといっている。そして、これを「千古の美談」(『悪戦苦闘』二二一頁)と宣伝している。

 ところが、正力乗りこみの直後に出た『日本新聞年鑑』一九二四年版では、こうなっている。

 「正力は東株の理事河合良成氏と親友であり、河合氏の口添によって、東株理事長郷誠之助氏を通じ、郷氏の義兄川崎八郎右衛門君より一七万円、岳父安楽兼道氏を通じて不動貯金の牧野元次郎氏から数万円、旧出資者たる中島久万吉氏等より数万円、あわせて最低三〇万円をつくり、これをたずさえて入社したと、新聞研究所報は伝えている」(同年鑑二一頁)

 文中、「岳父安楽兼道」とあるのは、元警視総監である。

 つづいて翌年、同年鑑一九二五年版も、「読売の資本系統」という見出しで、こう記している。

 「従来一〇〇万円の資本金であった読売も、正力社長の就任後、実業家方面から約七〇万円の出費あり、同社の事業に好意と同情をよする人びとのなかには、安楽兼道氏をはじめ、牧野元一郎、神戸蜂一、小池国三、藤原銀次郎、伊東米次郎、郷誠之助の諸氏に、三井三菱の諸系統が数えられるから、資力に心配はないらしい」(同年鑑二八頁)

 こうして、一年余の間に、都合一〇〇万円の財界資金が、正力経営の読売新聞に投ぜられたことになる。しかも、「経営ぶりは、正力新社長の入社以来、一変して派手」(同前二九頁)になったとある。だが、以上の出資者のなかに、後藤新平の名は、まったくでてこないのだ。

 このような、『日本新聞年鑑』による当時の記録と、三〇年後に書かれた御手洗辰雄の『伝記』をくらべると、おどろくばかりの変化である。ゴシック小見出しは「経営資金三万四〇〇〇円也」とあり、こういう説明になる。

 「正力は組合の指図通り、一〇万円のなかから松山に退職金五万円、退職社員の慰労金として一万六〇〇〇円を渡し、二人は引継の契約書に調印した。正力の手に残った金は、三万四〇〇〇円也である。これで半潰れの読売新聞経営に乗込もうというのだから、大胆であった。大胆というより、正力の心中はむしろ悲愴であった」(同書一三八頁)

 それでは、御手洗辰雄が、『日本新聞年鑑』などの、当時の記録を知らないかといえば、まったく反対である。御手洗自身、当時の新聞人としては中堅どころ、報知新聞の社会部長という立場にあった。その上、なんと、同じ『日本新聞年鑑』一九二四(大正一三)年版には、「震災後の記録的奮闘」の記事の、執筆者として現われていたのである。

 これをもってしても、御手洗が、「大記者」とはいえ、時として、むしろ御用創作家の部類に早変りすることが、はっきりしてくる。

 さて、『八十年史』は、御手洗の『伝記』の直後に出され、『伝記』を大いに活用している。しかし、一応「社史」ともなれば、記録・資料とあまりにくいちがってはまずい。そこで、こういう説明となった。

 「正力社長は本社譲り受けの際、後藤新平から融通を受けた一〇万円のうち五万円を松山前社長個人に、一万六〇〇〇円を松山とともに退社する一三人に退職手当として支給し、残金わずかに三万四〇〇〇円をもって本社の経営に乗出した。もちろんこれだけの金で足りるわけはなく、財界有力者が改めて匿名組合をつくり、約六〇万円の資金を供出した。

 出資者は、正力自身の四口をはじめとして、三井七万五〇〇〇円、三菱五万円、安田四万円、小倉正恒(住友)、藤原銀次郎、川崎八郎右衛門、根津嘉一郎、浅野総一郎、山口喜一郎、松永安左衛門、益田次郎、原邦造、大谷光明などで、一口二万五〇〇〇円であった」(同書二六七頁)

 このように、この説明によっても、戦前四大財閥といわれたところが、ちゃんと金を出しているのである。

 では、彼ら財界人たちが、正力の新聞経営能力を信じていたかといえば、まったくそうではない。匿名組合の監督責任者の一人となったのは、藤原銀次郎であるが、『八十年史』は、こうつづける。

 「藤原も正力の経営的手腕には相当不安を持っていたらしく、当時出資者の会合ではこのことがよく話題に上り、出資者の結論は、『警視庁の敏腕家が新聞界で切れるかどうか、新聞事業は一種特別だから期待するとえらい目に会うかも知れん』というのがおちであった」(同書二六八頁)

 それだけではない。「正力が社長になると、藤原銀次郎は、『君は新聞のことはわからないから大毎から支配人を入れよう』といい出した」(同前二六六頁)というのである。この話は正力が断るが、実際には、王子製紙で会計部員だった安達祐四郎が、読売新聞の会計主任にはいっている。要するに財界人は正力の経営能力を、ほとんど信用していなかったのである。彼らが正力に期待していたのは、その反動的・反共的な行動力であった。そして、経営的な側面については、財界の有力者が毎月金曜日に集まる「三金会」で論議している。『八十年史』は、この「三金会」を、単に匿名組合の出資者たちが集まるもの、という形で表現しているが、彼らこそは、当時の財界のトップであった。

 すでに名の出た藤原銀次郎は、当時王子製紙の社長、のちに会長をつとめて、製紙王とよばれた人物である。慶応大学を出て、最初の仕事は松江日報の記者でもあったし、製紙業界の新聞用紙生産量は高まる一方なので、大阪毎日新聞の取締役を兼任するなど、新聞業界との関係は深かった。

 藤原銀次郎の口述による『回顧八十年』には、第一次世界戦争(欧州大戦)後の新聞と製紙の関係について、つぎのようにふれられている。

 「欧州大戦は、新聞紙がいかに有利であるかを、実績で示した。米の飯と言われた新聞は、戦後といえども、世間の需要は大きかった。従って、新聞社に用紙を供給する製紙会社は、いずれも利益が多くなった。しかも新聞紙の販売は、一カ年契約で、一カ年に一度契約を新たにすればよく、朝日、毎日のような大新聞対手では、支払いに不安はなく、真に商売としてはこの上もない好条件の仕事であった。その頃の社会状勢からいえば、大体新聞は一年に二割ずつ読者が増加する傾向で、五カ年目には倍となる勘定であった。王子製紙はこの大勢に早くも着目して、生産額を五カ年計画で倍にする方針を以て進み、着々と利益を増大していったのである。……(略)……王子の金穴は苫小牧の新聞用紙である」(同書七八頁)

 王子製紙は、この方針の成功により、競争相手の富士製紙と樺太工業を合併し、業界を制覇するにいたる。そして、藤原は、その成功を背景にして、新聞界の黒幕ともなり、内閣と海軍省の顧問、貴族院議員に列せられ、産業整備営団総裁として日本の軍国主義的総動員体制を指導する。一九四○(昭和一五)年には、米内内閣の商工大臣、四三年には東条内閣の国務大臣、四四年には小磯内閣の軍需大臣、そして敗戦後、一九五三(昭和二八)年には日経連顧問、といった略歴である。

 さらに松山時代からの匿名組合の出資者であり、藤原とともに正力を読売新聞に送りこむ当初から関係し、『八十年史』によれば、正力社長を「新たに郷誠之助と藤原銀次郎が監督することになった」(同書二六六頁)という関係の人物は、何者であろうか。

 郷誠之助(ごうせいのすけ、一八六五-一九四二)、東京帝大法科卒、ドイツに留学、農商務省を経て、日本運輸社長、一九一一(明治四四)年に東京株式取引所理事長になり、以後一三年間、取引所の改革、大企業の整理、合併、合同の推進に当った。つまり、現在の東証理事長の地位で、日本の独占再編成を指導していた人物である。そして、明治を代表する渋沢栄一なきあと、商業会議所連合(いまの日本商工会議所)第六代会頭ともなり、財界の大御所とよばれていたのである。

 これだけの大ボスが匿名組合の出資者としていて、松山には出さない金を、正力には出したのである。そして、『百年史』のいうように、当時の財界に金がなかったとか、新聞のためには出せなかったとかいう説明は、まったくのこしらえ話である。

 たとえば『闘魂の人』でも、関東大震災のあとの、東京各紙の悲運を記しているが、その中で、国民新聞の例にふれている。

 「国民新聞も例外ではなかった。これは徳富蘇峰がつくり、いわば徳富信者によって支えられていた新聞だが、地震の被災から立ち上ることができず、主婦の友社長石川武美が経営を引き受けたが、数ヵ月で七〇万円の金をつぎこんで引き上げてしまった。そのあと根津嘉一郎がやったが数年で四〇〇万円の赤字を出し、さいごに新愛知の社長大島市吉が引き受けたが、昭和一七年の新聞統合で、都新聞と合併になった」(同書一四六頁)

 ここで出てくる根津嘉一郎は、正力への一口二万五〇〇〇円の出資者の一人でもある。根津は、東武鉄道の社長として成功し、関連事業を発展させ、根津合名会社により、根津財閥をきづいた人物で、武蔵野芸大の創設者でもある。そしてすでに、一九一三(大正二)年ごろ、「原日記中にある“或る実業家”根津嘉一郎」(『百年史』二五〇頁)として、政友会のために読売新聞買収に動いた実績さえあるらしい。

 また、当時の財界の状況も、労働運動対策や、マスコミ対策には必死であった。

 現代の日経連、経団連のルーツとなるのは、日本工業倶楽部であるが、その創立は、一九一七(大正六)年、まさにロシア革命と同年である。その任務は、労働争議対策であった。この工業倶楽部結成に努力したメンバーの中には、正力の後援者となる藤原銀次郎がいる。そして、専務理事四名のうちの一人が、郷誠之助であった。経団連のルーツのもうひとつは、一九二二(大正一一)年に結成された日本経済連盟会であるが、この創立の常務理事の中にも、やはり郷誠之助がいる。

 そして、東京株式取引所には、郷理事長の下に常務理事として、正力松太郎の同郷の友人、中学・高校・大学を通じての同窓生で、やはり農商務省高級官僚からの天下り財界人、河合良成がいた。河合の常務理事就任は、一九一九(大正八)年で、以来、郷理事長の秘書役となっていた。

 正力松太郎の側も、もちろん、読売新聞乗りこみに、河合良成の協力があったことを認めている。

 ところで、財界資金との関係で、いちばんわけのわからないのは、後藤新平の一○万円である。これは、すでにふれたように、『日本新聞年鑑』一九二四年版では、読売の資本家としてまったく登場しない名前なのである。ただ、後藤(当時子爵)は、のちにくわしくのべるが、正力警務部長の上司、内務大臣であった。そしてなんと、同じ年鑑の「やまとの新背景」なる項目中には、かげの人物として登場している。『やまと』新聞には、前東京日日新聞政治部副部長の田中朝吉が、副社長としてはいり、実権を握った。その背景には、「巨額」の再建資金があった。

 「この交渉は、きわめて迅速に行われたため、一時世間に種々の風評を生み、田中君背後の出資者を、あるいは後藤子爵なりと推し、あるいは田中陸軍大将なりとし、あるいはまた政友本党を代表する床次二郎氏なりといい、しかして多数者は薩派をその金穴なりと信じ、その額についても一〇万円と称し、あるいは二〇万円と噂した。しかし、それはのちに、三井系の山本条太郎氏なるべしとの想像、もっとも力をしむるにいたった」(同年鑑二頁)

 さてさて、大変な化け物屋敷となってしまった。ともかく、ここに名のでる人物なり集団は、当時、新聞支配に動いて不思議はないとされていたのである。このうち、床次二郎は、さきに護憲全国記者大会の読売新聞報道が、「床次氏一派の謬見を破れ」と大見出しをつけた内務大臣その人であった。

 このように、後藤新平「前」内務大臣と、床次二郎「現」内務大臣とが、ともに新聞支配のかげの人物として噂されているなかで、読売新聞への、正力松太郎乗りこみが行なわれたのであった。読売、やまと、万朝報、国民の四社で、主要な新聞記者の退社があり、資本系統の変化があった。

 「しかし、その最たるは読売である。……(略)……これらの悲しむべき実例を、ほとんど一時に見聞した斯界従業員は、これ実に、新聞の資本化であり堕落であり、黙過すべからざるの罪悪であると叫び、……(略)……諸家の批判は大体において、新聞の悪資本化を攻撃するに一致した」(同前三頁)

 おなじ論説は、雑誌『新聞及新聞記者』三月一日号の記事を、約一ページにわたり引用紹介している。

 いわく、……

 「それ(政党化)よりも怖ろしいのは、資本化の悪魔である」
 「『金さえあれば誰でも新聞を経営してよろしい」――この思想こそは大悪魔なのだ」
 「没理想の資本家は、実際新聞の大敵、新聞事業の悪魔である」
 「悪魔を引きいれて、新聞界を堕落せしめるよりは、切腹して果てるを士とする」(同前四頁)

 なかなか強烈なのである。それもそのはず、さきにあげた四紙は、東京新聞界の名門中の名門ぞろいであった。論調のちがいはあっても、“宵越しの銭”をもたぬ江戸伝来の、べらんめえ言論のにない手として、誇り高い存在であった。

 「黄金の魔槌は、東京新聞界の高貴なる伝統を、打ち壊しつつある。無垢の処女は、一片の人肉として、公売台上に血の涙を絞りつつある。憤りなくして、これを見聞するものは、純粋の新聞マンではない」(同前四頁)

 これだけの、業界あげての、絶叫に近い反対の声のなかで、「資本家御殿」から読売新聞めざして出陣した正力松太郎とは、どんな前歴の持主であったろうか。そして、かげの人物、後藤新平との関係は、どのようなものだったのであろうか。


(第4章4)“蛮勇を揮った”警部