チェチェン総合情報

チェチェンニュース Vol.04 No.25 2004.07.30 発行部数:1082部

■バサーエフに聞きたいこと <第二回>
 (大富亮/チェチェンニュース)

第一回はこちら: http://www.jca.apc.org/tlessoor/chechennews/chn/0424.htm

●「和平交渉」は禁句

 政治家、軍人、ゲリラ、情報機関、オリガルヒ。いくつもの勢力が群雄割拠 するチェチェン戦争で、ほとんどの勢力にとっての禁句は「和平交渉」だ。軍 部だけではなく、ロシア政府も、時に懐柔策を使ってまで遠ざけている。イン グーシ蜂起事件の後でジアジコフが「対話」を言い出したことも、プーチン政 権への一種の脅しになった。というのは、もしもロシア世論がその一言に注目 して、「大統領、チェチェンと交渉を」などと言い出したら、プーチンは窮地 に立たされる。チェチェンでは軍とバサーエフたちが地獄絵図を繰り広げてい て、それをやめさせることは、ここ5年間かけてもできなかったのだから。

 そこで大統領側はひとまず問題を先送りにすることにして、ジアジコフに早 めに考えを変えてもらうことにする。6月22日の蜂起の責任追及はいったんや め。安心してイングーシ大統領として働いてください。対話うんぬんという失 言にも目くじらは立てません。予定通り連邦評議会の椅子も提供します、とい うところか。

 一方、バサーエフにとっては、「蜂起事件はマスハードフが事前に承認してい た」という情報を流せば、ジアジコフの「対話」の意思を削ぐことができる。 もともとジアジコフは、この4月にもバサーエフから「処刑」を予告されてい る。マスハードフとは何とか話ができても、バサーエフは論外。だから、マスハ ドフとバサーエフが再び結託し、イングーシを混乱に陥れた張本人だと言い出 すなら、心理的にも体面上も、「対話」はできない。

 そんないきさつで、7月7日に生まれそうだった「対話」は、二重に握りつ ぶされた。それにしてもどうやってバサーエフは、マスハードフにジアジコフと の対話も捨てさせ、7月27日の「共同声明」に引きずり込むことができたのだ ろうか。

●交渉と自爆の意味

 穏健派が強硬派に打ち克つことは難しい。穏健派は、ある程度の武力を使う ことはあっても、最終的には交渉に持ち込むつもりなので、闘争の相手を本質 的には否定しない。けれど強硬派は暴力で相手の存在自体を脅かすことで、同 じように暴力で存在を脅かされている人々の支持を得る。自爆攻撃のような自 棄的な行動の時代には、強硬派は自分自身の未来さえも投げ捨て、相手方の存 在を否定しようとする。

 極限の状況での交渉は、自分と相手の生存を目的にする。自爆は、相手だけ でなく、自分の生存さえ否定しようとする。この、戦争のための戦争に取り込 まれてしまった人びとにとって、戦争とは、自爆の順番が廻ってくるか、偶然 のきっかけで戦争が終わるかの、賭博になっていくしかない。

 ある一線を越えて賭博でもよいと決めたなら、和平交渉の目的の一つである、 「闘争の相手の生存」には意味がなくなり、逆にそれに執着する者(穏健派) は、敵を利する存在にも見えてくる。この閉じた思考には、「未来」という言 葉はない。

 遠い場所からこの構図を見ていると、バサーエフが、ある取引のカードを持っ ているのに気がつく。たとえば、『マスハードフを、われわれの大統領として、 認めない』と世界に向かって宣言すること。バサーエフの反マスハードフは、今 に始まったことではない。97年の選挙でマスハードフが当選し、二位になったバ サーエフは副首相になった。ところがすぐに離反し、おそらくベレゾフスキー からの資金を得て、反マスハードフの武装勢力を作り上げた。「売国的なマスハ ドフ体制の打倒」、そのいきつくところが、99年のダゲスタン侵攻だった。事 実、ダゲスタン侵攻を止められなかったことで、マスハードフの政治生命は虫の 息になった。

(第二次チェチェン戦争は、モスクワでの連続アパート爆破事件と、バサーエ フたちの隣国ダゲスタンへの侵攻をきっかけに始まった)

 もしバサーエフが近い将来にマスハードフから完全に離反すると、マスハードフ 政府との交渉を排除したがっているロシア政府にとっても、ありがたい。プー チンはあらためてこう言うだろう。「権威のないマスハードフには、もともと交 渉相手としての価値はない。武装勢力の頭目であるバサーエフも離反した以上、 二人とも力で叩き潰すしかない」と。

●バサーエフに聞きたいこと

 しかし、マスハードフの追い落としが、さらなるロシア側の弾圧につながれば、 それはバサーエフ自身にとっても自殺行為ではないか。シャミーリ・バサーエ フが戦争の終結を必ずしも望まない、その理由はまだよくわからない。

 バサーエフはあるインタビューでこう答えている。

 「問題は私の生命とか、他のわがイスラム戦士の生命にあるのではありませ ん。・・・ロシアの戦争気違いどもが、今日のチェチェンで、戦争、ジハード 以外のいかなる生活も知らない世代を作り出してしまったということです。こ の若い連中は、自分の生命も重く見ないし、全ロシアを破壊しても何とも思わ ないという世代です。・・・われわれは、今回の抵抗戦争で成長しました。遅 かれ早かれ勝利に到達します。なんとか、われわれの子どもたちには、戦いの 明日がないようにしたいと願っています」

http://www.jca.apc.org/tlessoor/chechennews/archives/20020524basyev.htm

 去年のちょうど今ごろ、真夏のロックコンサート会場で「シャヒードのベル ト」で自爆したのが、どんな少女だったかを想像してみる。あるいは下院選の 翌日、モスクワ川のホワイト・ハウスの近くで自爆したチェチェン人の女性の ことを思う。それらの犯行に「自分が責任を負う」と発表したバサーエフ。ノ ルドオスト事件のときにも、若い女性たちが大勢参加し、すべて殺された。そ れにも「責任を負う」と発表したのが、バサーエフだった。

 私には、バサーエフが本当にロシア各地での破壊工作を組織しているとは、 思えない。犯行声明ばかりで、その裏付けに乏しいからだ。これらの犯行の背 後には、また別の存在があるのだろう。逆に、数々の犯行声明が正しければ、 バサーエフは女性たちに、爆薬を仕込んだベルトと、ノルドオストへのチケッ トを手渡したことになる。バサーエフ自身はまだ「殉教」しないようだが、チェ チェンを支える、未来の子どもを産むのは一体誰なのかと、聞いてみたい。

 91年のソ連邦崩壊の時、改革派の政治家たちとともにバリケードの中にいた バサーエフは、たった26歳の若者だった。それから、アブハジアではグルジア 軍と戦い、第一次チェチェン戦争ではロシア軍と戦い、停戦期にはマスハードフ と鋭く対立して内戦寸前にもなった。そしてダゲスタン侵攻、第二次チェチェ ン戦争。モスクワの彼の部屋には、ゲバラのポスターが残されていたという。 彼が銃を見ずに済んだ日はなかったろう。

 話を少し元にもどそう。前回書いたように、チェチェン戦争を二項対立で読 み解こうとすると、誰にとってもよくわからない。また、バサーエフを「チェ チェン独立派野戦司令官」と定義してしまうと、今の情勢も、たぶん理解でき ない。もうひとつ、バサーエフ自身は自爆をしない以上、それを単に戦術の一 つと考えている。けれども、その目的は、防衛やチェチェン独立とは限らない。 自爆攻撃をアピールすることで強硬派の立場を維持し、権力の奪取を考えてい るか、あるいは、周囲が考えもしないような、別の利害を抱えている可能性も ある。この問題に注意して、チェチェン情勢を見ていきたいと、私は考えてい る。

<了>

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