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守田敏也の取材日記

阿媽が6人で東京へ(4)

婦援会の発言に続いて、いつもアパイ阿媽に寄り添っている高秀珠(愛称:ちよこ)さんが話をしてくれました。彼女もタロコ族。亡くなったお母さんが被害女性でした。お母さんが初めて被害について打ち明けてくれた日のことです。

「ある日、私はお母さんに(何かあったのと)聞きました。何回も聞いたのです。
最後に聞いた時、お母さんは涙を流しながら、話してくれました。

「娘よ。私の秘密を話しましょう。」
私は今まで、お母さんが激しい涙を流すのを見た事がありませんでした。
でもその日はすごく興奮して涙を流すお母さんを見て、やはり何かおかしいなと思いました。」

「その日、十何年の秘密を、やっと私に言ってくれました。

最初の言葉は、私の秘密をあなたにいったら、あなたを私を馬鹿にするだろうかというものでした。私は、大丈夫お母さん、私はそうしませんと言いました。」

「それで私のお母さんは、震えながら、過去のことを私に、日本軍にどういうふうにされたのかを話してくれました。その晩、私はお母さんと抱き合って泣きました。

私はお母さんに、それはお母さんが好きで、やりたくてやったことではなくて、お母さんは被害者だ。だから私はお母さんの味方だよと言って上げました。」

ちよこさんのお母さんは、当時、夫が逮捕され、3人の子どもを抱えてとても苦労していました。夫は、鶏を一羽盗んだだけで、捕まり、そのまま日本統治下の監獄で亡くなってしまいました。

しかも次の夫も山に仕事に行って、足場を踏み外して亡くなってしまったのだそうです。
生活に苦しむお母さんに、軍の駐屯地で仕事をしないかという誘いがきます。子どもを食べさせるために、働きに出た彼女は、ある日、洞窟に連れ込まれて兵士にレイプされ、それから恒常的に性奴隷にされたのです。

ちよこさんは最後に語りました。「お母さんはこの話をした翌日に、中風で倒れてしまいました。3〜,4年、寝たきりだったお母さんの願いは、私が日本政府から謝罪を得るために頑張ることでした。私は約束をし、お母さんが亡くなってから阿媽たちと行動をともにしてきました」これまで集会では語ることのなかったというちよこさんの話からは7人目の阿媽の声が聞こえてくるようでした・・・。


さて集会は最後に、東京で頑張って活動しているみなさんからの発言でしめくられました。みな長く、この問題で行動してきた人々です。その中に混じってハイナンネットの若者も発言してくれました。

さていよいよ集会が終わり、近くの二次会の場に移動しました。Sさんが選んだとても素敵なお店でした。ところが人数の予定が大きく違ってしまいました。
20人の予定のところに、40人以上が向かってしまったのです。会場の半分ぐらいの人たちがひきつけられて、移動してきたのではないでしょうか。
しかしさすがに全部が入ることができず、やむをえずに何人かが他のお店に移ってくださいました。

テーブルにつくと、阿媽たちは楽しくお酒を飲み始めます。僕ははじめちょっと遠慮して、テーブルから離れたカウンター席にいたのですが、ホエリンから「モリタさん、阿媽が呼んでいる」と声をかけられました。
それで阿媽たちのところに行くと、ホエリンが楽しそうに阿媽たちに何かを説明している。台湾語ですが、どうも「この人は京都で、秀妹阿媽と乾杯を何度もして、最後にのびちゃったんだ」とか言っていることが分かる。

そうしたら阿媽たち、喜んで、僕に1人ずつ「乾杯!」と言ってくる。
台湾式乾杯は飲み干さなければならないのです!それで瞬く間に乗せられてしまう僕がゴクゴクのみ始めると、ホエリンが笑いながら「OK,OK」と途中で止める。終ったのかと思ったら、また違う阿媽がグラスを差し出して「乾杯!」・・・それで結局、大き目のグラスのビールを僕はグイっと飲み干してしまったのでした。


(5)へ続く


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娘は、母の苦しみを始めて語った


阿媽とともに・台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会

お母さんのショバイ・ウミン(中国名:雷春芳)さんひたいには、タロコ族の美しい刺青がありました。2004年2月1日に亡くなりました。