わたしの雑記帳

2006/8/14 障がいのある児童に教職員が一口の水を飲ませることを拒否する成田市教委の姿勢


千葉県成田市の小学校では、障がいをもつ子どもの「介助」はしないという方針が徹底されているという。成田市の教育委員会は、小学校は養護学校とは違うので、障がいのある児童・生徒の生活介助は一切しないという。授業には配慮するが、水を飲むことや、ご飯を食べさせることは、教職員の仕事でも、学校の仕事でもない、親の仕事であるとして、担任や養護教諭にも一切の介助行為を禁止しているという。
そのため、親が毎日、給食の時間に学校に通って、子どもに食事を食べさせているという。親が付き添っていない休み時間には、一切の水分補給をしてもらえない。そのために、児童・生徒が体調を崩しても責任は持たないという。
また、補助員が付き添って給食を食べさせている児童・生徒に関しては、わざわざひとりだけ職員室に連れて行かれて、そこで食事をさせられるという。

障がい児・者のノーマライゼーション(当たり前の生活)とは、ほど遠い方向へ国全体が向かいつつあるように思う。
「特別支援教育」と名づけて、さも手厚い教育を受けられるかのような名前をつけて、手のかかる生徒を分けようとする。けっして「選択肢」を増やしたわけではなく、囲いをつくって、そこに障がいのある児童・生徒、手のかかる児童・生徒を追い込もうとしている。
そして、「自立支援法」と名づけて、福祉にかかる金額を削っていく。地域や社会に受け皿をつくることをしないで、「自分の力で生きていきなさい」と「施設」から追い出す。
言葉だけは、さも人権に配慮しているかのように見せかけて、内実は「切捨て」でしかない。
その方針のために、ひとが苦しい思いをしたり、もっと不便な生活を強いられたり、時には命さえ危険にさらされたとしても「かまわない」という行政の意思が見える。

そのような環境のなかで、どんな子どもが育つだろう。
野宿者や障がい者を傷つけたといって、子どもたちに厳しい罰を科す。しかし、大人のやっていることを子どもたちが見習っているだけではないか。大人はもっと賢いから、自らが責任を負わなければならないような方法ではあからさまにはやらないだけだ。

学校で、どんなに道徳の時間を増やそうと、ボランティアを子どもたちに義務化したところで、他人への思いやりの心は育たないだろう。
障がい者のいる施設にはボランティアに入りたがるのに、障がい児・者が自分たちの生活空間に入り込むことを嫌う。生活とは切り離した場所で、「よい行い」をして、「感謝」されて、「点数」をもらって、「満足」する。いったい誰のための、何のためのボランティアだろう。
新任教師に福祉施設での研修を義務付けたりする一方で、学校に障がい児が入ってきたときには、一切、手を出してはいけないという。何のために福祉施設で研修をさせるのか。
それくらいならば、学校のなかで障がいのある児童・生徒の介助を研修として義務付けたほうがよほど、その後の教師生活に役立つことになると思うが。

犯罪にしても、自殺にしても、いざというときのセーフティーネットが充実していることが、抑止力になり得るだろう。わざわざ自殺対策に大金をつぎ込むよりも、今あるセーフティネットを取り外さず、もっと利用するひとの身になったものにしていってほしい。
ますます加速する少子高齢化社会のなかでは、専門家に任せるのではなく、身近な人々が互いに補いあえる、助け合える社会をつくるべきではないかと思う。

少子化を問題にし、生めよ増やせよと言ったところで、役立たつ子どもでなければ受け入れられない社会で、安心して子どもを生み育てることができるだろうか。誰でも、望んで障がいを負うわけではない。それでも、生まれてきた子どもには幸せになる権利があるし、親は幸せにしたいと願い、障がいのない子どもの親以上に努力している。それをさらに親の責任として追い詰める。
また、生まれたときには健康であっても、ひとはいつ病気になったり、障がいを負ったりするかわからない。順調なときにはどんなにもてはやされても、本当に誰かの助けを必要とするときに切り捨てられる社会のなかで、未来への希望をもって幸せに生きられるだろうか。
年をとれば誰だって、今まで当たり前にできていたことができなくなる。社会の役に立っていたひとたちが役に立たなくなる。今、障がい児・者を切り捨てることは、将来の自分たちを切り捨てることになる。

子どもたちは教えられないことは知らない。障がいというのは、本人や家族のせいではないこと。そして努力の問題ではないことを大人がきちんと教えていくべきだろう。本人には、努力してもどうしようもないことを責め立てたり、切り捨てたり、差別したり、そのことによって不利益を被るようにすべきではないことを大人が教えなければいけないのではないか。
今、学校は言葉にはしなくとも、「障がいのある人間は自分たちにとって迷惑だ」と児童・生徒たちの前で公言しているのと同じだ。

今、成田市の学校が子どもたちを教えようとしていることはなんだろう。
このような学校で育った子どもたちは、自分のことだけ考えていればいいと、他人には一切関わらない生き方を学んでしまうのではないか。
たとえ目の前に困っているひとがいても、自己責任と思う。あるいは、家族や専門家の仕事であって、自分が手を出すべきではないと考える。簡単に見捨ててしまう。見殺しにしてしまう。

「心の教育」とはなんだろう。国を愛する心だけでよいのか。人を愛する心は育てなくてもよいのか。
相手を思いやる心というのは、教科書から学ぶものではなく、生活のなかから、大人たちの行動から学ぶものではないのか。
「障がいのあるひとを差別してはいけません」「困っているひとを見かけたら、声をかけましょう」「自分にできることがあれば大人であっても子どもであっても手伝いましょう」「人と人とは互いに助け合いましょう」とは、もう子どもたちに言えなくなってしまう。

どうして、学校という場で、子どもたちの最善の利益を第一に考えようとはしないのか。大人たちの都合ばかりが優先されるのか。それは、ほんとうは誰が望んだことなのか。
そして、一部に切り捨てられる子どもがいるなかで、他の子どもたちはほんとうにみんな幸せになれるのだろうか。

子どもたちをどう育てたいのか。私たちはどんな社会に生きたいのか。どんな未来をつくりたいのか。足元からもう一度よく考えたい。



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