わたしの雑記帳

2006/6/17 七生養護学校「こころとからだの学習」裁判(2006/6/14)傍聴報告と思うところ


この裁判を傍聴するのは、前回(2006/4/19)と今回で2回目になる。
服部太郎くんの裁判の傍聴を終えて、みんなでお茶を飲みに行こうと裁判所のドアをくぐりかけた瞬間、反対側のドアに勢いよく飛び込んできた人物がいた。それが、児玉勇二弁護士だった。

みんなで口々に声をかけると、これから103号法廷で裁判がある。よかったらみんなで来てくれといわれて、ぞろぞろとついていった。、東京地裁でいちばん大きな法廷の傍聴席はかなり埋まっていた。裁判の原告は教師と保護者計31人(2006/2/現在)。弁護団にもたくさんの弁護士が名前を連ねている。傍聴人のどこからどこまでが原告かわからない。

いただいたチラシで内容をすぐに理解した。何年か前に、過激な性教育をしているとやり玉にあがったあの養護学校の事件だと。(k030702 参照)
当時から私は思っていた。正しい性知識を子どもたちにわかりやすいように具体的に教えることのどこに問題があるのだろう。養護学校だけでなく、むしろ小中高とどの学校でも、もっとしっかりと具体的に正しい性知識を教えるべきだと。
性器つきの人形も、表題につけられているような「過激」さは感じなかった。布製のほんわかした暖かみを感じた。

今の世の中、過激で、いい加減な性情報はいたるところにあふれている。子どもたちの肉体的な発育は早く、それに精神が追いついていないことで、様々な事件が起きている。あいまいでない正しい性知識を早くから子どもに身につけさせることが、子どもを守ることだと思っている。
我が家では、小学校入学のころには赤ん坊はどこから生まれてくるなど、具体的なことを子どもに一緒にお風呂に入りながら、さりげなく伝えていた。小学校1年生のときに、「赤ちゃんはこうのとりが運んでくる」という同級生に対して、「ちがうよ」とみんなの前で教えて、「うそだ」と論争になったことなどもあった。
今回の七生でも、被告側は、「子どもが性器の名称を大きな声で言うので困った」という親の声をことさら大きく取り上げた。しかし、周囲が特別な反応を見せなければ、子どもはいつまでも固執したりしない。また、考えようによっては正しい知識の普及に貢献していることにもなるのでは。世の中には、間違った性知識があまりにも氾濫している。

自分自身もきちんとした性教育を受けてこなかったことで、子どもに教える自信のなかった私は、海外の体のことをわかりやすく子ども向けに書いたものを翻訳した本を子どもに買い与えていた。
性をきたないもの、恥ずかしいものと思わせるような教育だけは絶対にするまいと思っていた。
性を自分の体の一部として、当たり前に言える、扱える、環境でありたいと思っていた。

七生養護学校の取り組みは、私にとって、とても理想的な教育だった。
それは、今回、裁判を傍聴したり、提訴一周年の報告集会に参加したり、そこで売られていたブックレット「七生養護の教育を壊さないで」 日野市民からのメッセージ(2004.3.20つなん出版)や「七生養護学校『こころとからだの学習』裁判資料集を読むにつけ、さらにその思いは強まった。

前回(第4回)と今回(第5回)、原告を代表して、2人ずつ先生方が意見陳述として、その思いを語られた。
そのなかで、七生養護学校が単なる知的障がいのある子どもたちの学校ではないことを知る。
以前に仲間と児童養護施設の学習会を定期的に開いていたときに、新しいひとが加わるたびに、養護施設と養護学校の違いについて、説明しなければならなかった。
すなわち、児童養護施設は、何らかの事情で親元で暮らせない子どもたちの施設で、養護学校は心身に障がいをもつ子どもたちの行く学校であると。
しかし、七生の子どもたちの半数は、両方の要素を兼ね備えていた。知的に障がいがあり、親元で暮らせない子どもたちが暮らす七生福祉園の施設提携校で、約半数が同施設から通学している。その子どもたちは、今の児童養護施設がそうであるように、親から虐待を受けてきた子どもが多いという。

障がいをもつ子どもは、親にとって育てにくい存在でもある。また、とくに母親は障がいをもった子どもを生んだということで、夫やその親戚からも非難をうけやすい。なんでこの子だけ、私だけこんな苦しい目にあうのか、この子さえいなければという思いが、虐待に向かわせやすい。
そして、世間の目は親にも、本人にも冷たい。知識のなさから来る言われのない非難、暴言。奇異な目でみられたり、じゃまもの扱いされる。
自分の体が、行動が思いどおりにならないということだけでもイライラ感が募るのに、加えて、周囲から愛されない、攻撃の対象にされるという心の傷。親にいちばん甘えたい年頃に親元から離されて、集団生活をしなければならないフラストレーション。

子どもたちの心の荒れが、様々な問題行動となって表れる。それはすさまじいものだったという。
その子どもたちが、自分の体も心も大切なものだと思え、他人をも大切に思えるため、様々な試行錯誤から生まれたのが、「こころとからだの学習」だったという。
一方で、福祉園以外の親たちにとっても、性はとても深刻で難しい問題だった。知的障がいをもつわが子にどう具体的に教えたらよいのか。わが子を被害者にも加害者にもしたくない。
当初は親同士の集まりのなかで、学習会などを開いていたという。
それが、知的障がいのある子ども同士の性的な事件がきっかけになって、学校と福祉園、保護者を巻き込んで、この子どもたちのために何とかしなければと考えられたのが、「こころとからだの学習」だった。

陳述のなかで、先生方は、なぜこのような授業が必要だったのかを熱心に訴えた。
たとえば、都議らや都教委が言う、「性交の仕方までも教えている」という授業。
「北の国から」というテレビで放映されたドラマのビデオを使って、望まない妊娠についての学習をした。ドラマにはセックスシーンは登場しない。一般のひとは、そこであったことを想像しながら見る。ところが、知的な障がいを持つ子どもたちには、その想像をすることが難しい。
具体的にどのような行為をすれば、望まない妊娠につながるのか、セックスの意味がわからなければ理解できない。
そこで、性器のついた人形をつかって、セックスをするとはこういうことをさすのだと具体的に教えた。そのことが、養護学校で「性交の仕方まで教えている」ということになる。

都教委や都議らは、「一般常識からかけ離れている」と非難したが、その「一般常識」を知的障がいのある子どもたちに理解させたり、身に着けさせたりするには、工夫がいる。さらに生活のなかで、繰り返し教えることで少しずつ身に着けさせるしかない。

文字や簡単な絵だけでは、知的障がいがなくとも、理解しにくく誤解が生じやすい。間違った知識は、本人をそして回りのひとを傷つけていく。
少年少女たちがよく言う。「こうすれば妊娠しないと聞いていたのに」「こんなことで自分が性病に感染するとは思わなかった」「知らなかった。だって、誰も教えてくれなかったもの」。
自分の体や心が傷ついてから、もしくは誰かを傷つけてから教育したのでは遅い。

知らなくて傷つけてしまった。あるいは周囲に不快感を与えた。その結果、「自由に歩かせるのは危険だ」「だから障がい者はどこかの施設にでも閉じ込めておけ」ということになる。
そして、障がい者は性的被害にもあいやすい。以前に、障がい児教育の職業訓練ででまず何をするかというと、企業などに入っても、周りのひとの指示をきけるように、徹底して命令に従うことを体で覚えさせるというのを聞いたことがある(ある学校では、意味のない穴掘りを毎日させていたと聞いた)。もちろん、どこでもということではないだろうが。
そして、親にしても、迷惑がられることの多いわが子が、せめて周囲からかわいがられるように、素直な愛される障がい児・者であってほしいと願う。
そこを付け込まれて被害にあいやすい。被害にあったときに、小さい子どもがそうであるように、性器の具体的な名称を知らないために、大人に被害を訴えられないということがある。間違った名称を使ったことで理解されないこともある。
性被害にあった子どもが「お腹が痛い」というのを親は見過ごしてしまったという不幸なできごとも現実としてある。
また、知的な障がいがあっても、体の成長とともに、性への関心や欲求は芽生える。そのときに、自分をコントロールすることを知らなければ、本人にそのつもりがなくとも、他人への加害行為となりかねない。
加害者になっても、被害者となっても、互いに不幸なことに変わりはない。


自分を大切にして守ること、他人を大切にすること。それは大きくなってから急に言い聞かせたところで、わかるものではない。身につくものでもない。段階を経て根気強く教えていく必要があるだろう。
最近では、障がいの早期発見と早期訓練が言われているというのに、なぜ性に関してだけは、遅くていいと思うのだろう。命に直結していることだというのに。

七生養護の先生方は、「性教育」とは言わない。「こころとからだの学習」と言う。こころとからだは切り離せないものだから、両方を守り育てていかなければいけないと言っているのだと私は理解した。
それをことさら性の部分だけをクローズアップしたがったのは都議や都教委だった。

単なる批判だけなら、それぞれの考え方もあるだろう。
しかし、七生養護学校は見せしめとして使われた感がある。七生を突破口に、他の養護学校の性教育にも介入した。
健全な性教育を破壊し、どんなに子どもたちのことを思っての教育であっても、上がダメだということはダメなんだと、教師たちに権力に対する恐怖感を植え付けた

これは、日の丸、君が代の強制と同じ流れにあると感じる。そして、かつての所沢高校への介入にも通じるものを感じる。共謀罪を作ろうとしている意図にも通じるものを感じる。
国が、教師や生徒らの自治を許さない。自分たちの頭で考え判断し、一致団結して行動することを危険視する。
周囲がそれを理想的と認めたとたんに、国が介入してつぶしにかかる。そのことで、周囲への見せしめにする。

東京都では、職員会議で、教師たちが挙手をすることを禁じたという。現場の教師たちの意見は一切聞かない。上意下達で、政府の手足となって働くだけでいい。そこで作ろうとしているのは、政府の意のままになる国民。政治家の行動を監視したり、批判したりしない。どんなに重い税金も、その使い方を審議することなく、必死に働いて国のためといって出す。戦争に行けといわれれば、喜んで死ににいく。

今回、原告側が、法的根拠としてあげたのは、教育基本法第10条(教育行政)。「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるものである。」
政治の不当な干渉を禁止している。しかし、都議らが行った行為はまさしく不当な介入であり、都教委はそれから学校を守るべき存在であるはずが、むしろ手足となって、積極的に政治に支配されようとしている。
そして、その根拠となっている「教育基本法」さえ、政治家たちの手で今、変えられようとしている。

日の丸、君が代にしても、今回のことにしても、いつも思う。教師による体罰やわいせつ行為、教師や生徒間のいじめなど、学校で本当に子どもの人権が侵害されているとき、教育委員会も国も、政治家もまるで動こうとはしない。十分な調査もなされず、具体的な再発防止の対策もなされず、通達1本出して終わりだ。それがこと権力の威信にかかわることになると、一致団結して素早い動きを見せる。
いつもは学校の不祥事などの情報を出したがらない教育委員会が、積極的に学校の悪いところをあげつらい、記事にすることをけしかけている。

子どもたちのことなどちっとも考えようとしないひとたちが、教育を思い通りにしようとしている。
これは、七生養護学校だけの問題ではなく、教育が政治に支配されるかどうかの瀬戸際の問題であると思う。日の丸、君が代を許したことで、日本の教育はここまで廃頽してしまったと私は思っている。
教育がつくるのは国の未来だ。私たちは今、平和と言われている日本の国から、傍観者の顔をして、世界の紛争をながめている。攻めれば攻め込まれる。当たり前のことだ。戦後たったの60年間。もう、あの悲惨さを忘れ、同じ過ちを繰り返そうとしている。こんな未来しかない国で、安心して子どもなど生めない。

この裁判は、勝たなければいけないと思う。動向を見守っていきたい。
なお、次回は2回続けて進行協議が入るので、一般傍聴ができるのは9月以降になる見込み。分かり次第、サイトでお知らせしたいと思う。





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