わたしの雑記帳

2009/10/24 柔道事故・斉野平(さいのひら)いずみさんの民事裁判、控訴審が結審

 2009年10月22日(木)、午前10時30分から、東京高裁424号法廷で、高校の柔道部の夏合宿で、植物状態になった斉野平(さいのひら)いずみさん(当時高校1年生・現在23歳)の民事裁判が行われた。
 裁判長は渡邉等氏。裁判官は、橋本昌純氏、西口元氏、山口信恭氏の3名の名前があったが、内2名が担当。
 傍聴券の配布はなかったものの、法廷は満席で、何人か入れないひとが出た。

 前回の口頭弁論は2009年3月17日(me090328参照)。その間、裁判長による和解勧告で、非公開の話し合いがもたれていたが、学校、教育委員会側の意向で和解が決裂、今回の口頭弁論で結審。次回が判決となる。

 いくつかの書類について裁判長が、「陳述するか?」と確認。と言っても、「陳述します」と言うだけで、実際に口頭で述べられることはない。書類の提出をもって陳述したこととする。
 また、3月17日に一旦拡張した損害賠償額について、再度、請求の減縮(げんしゅく?)を申請した。
 損害額については、裁判官が一旦退出して、内容を検討した、

 原告代理人の原田弁護士から申請があり、いずみさんのお母さんが短い、陳述を行った。
 「合宿から7年以上経ち、いずみは23歳になりました。本当なら仕事や恋愛を謳歌している年齢です。いずみはそのような楽しい日々を奪われたのです。これほど重症な被害が発生しながら、顧問の管理責任は認められない。全て本人の責任という(一審)判決には納得できません。いずみから平凡に生きる日々を奪った人たちが、その責任を取らないのは、公平とは言えません。いずみのために、一審の間違った判断を取り消し、公平な判断をしていただけますようお願いします。」
 最後のほうは、涙声となっていた。

今回で結審し、次回12月17日(木)、13時40分から、東京高裁424号法廷にて判決。

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 裁判後に、隣接する弁護士会館で、報告会が行われた。
 同じように、柔道部の合宿や練習中に子どもを亡くしたり、障がいを負わされた家族が、私が知るだけでも3組参加していた。

●この日の裁判について、まず弁護士から説明があった。
 裁判所の仲介による和解の話し合いがこの間、進められていた。そのなかで、原告側は出せる書類は出していた。
 和解が決裂した段階で、証拠提出の手続きが法廷で、陳述するか、しないかという形で行われたという。

 また、損害賠償額の変更については、今回、いずみさんはH病院に入院できることになり、差額ベット代がなくなるということで、請求額を減らして、請求しなおしたという。請求額は約1億5千万円。高額なようでも、これから先もずっと完全看護が必要ないずみさんにとって、けっして十分といえる金額ではないだろう。

 和解が決裂した経緯については、1審判決で原告側の訴えが全面棄却されたことで強気の埼玉県側が、和解に応じなかったのが理由という。


●弁護団は、裁判の総括という形で、この裁判の争点について、説明してくれた。

1.法的争点
指導教諭の健康管理についての義務(合宿中であり、親とかがいない)
 @健康配慮義務(いずみさんの状況を把握する義務等)
 A健康体制確立義務(2人の顧問が合宿に参加していたが、主に交替でみており、教諭同士が引き継ぎを行っていなかった)
 B結果回避義務(医者に診せる、事故後救急車を呼ぶ等)
学校側の安全体制確立義務
過失相殺。被告の埼玉県側は、いずみさんが高校生であるにも関わらず自己申告しなかったと主張。原告はいずみさんは頭が痛いと訴えていたということを当時の生徒の聴き取りを根拠に主張。しかし、1審判決では教師に義務違反はなかったとされたので、過失相殺は問題にならなかった。

2.事実上の争点
 @事故原因発生はどの時点か。(直接的には、最後の乱取りの受け身の回転運動で、頭部への加速による静脈損傷)
 Aいずみさんは頭痛を訴えていたか?(休んでいたのは、足のけがだけか、疲労等か)
 Bいずみさんに嘔吐や泣き出したりするという状況はあったか?(事件後の原告による聴き取りでは生徒が証言。顧問2人は聞いていないと否定)

3.第1審の認定 = 原告側の全面敗訴
 @いずみさんが頭痛を訴えていたという事実はない高校生なら自分で体調の悪さを顧問に伝えるはずである。
 A顧問は、いずみさんが練習を休んでいたのは、足のけがだと思っていた。終わりのほうは、疲れただけだと思っていた。それ以上、顧問が聞いたりする必要はない
 Bいずみさんが頭痛を訴えていたか、泣き出したりしたかについて、事故から5年後の法廷での元部員2人の証言では、「当時話したことは覚えていない」という証言だったことから、当時録音したものは信憑性にかけるとして、事実はなかったと認定。

4.控訴審での活動
 @当時、部員への聴き取りは2回行われた(録取したテープは6時間ほど)。1審ではきちんとした形で証拠提出していなかったため、1回目、2回目の聴き取りのテープの反訳を提出。
 A@を前提に、状況と証言等との矛盾を指摘。
 B現在のいずみさんの状態に即して、損害額の綿密化。


●いずみさんの母親からは、植物状態になったいずみさんの受け入れ病院を転々としなければならなかった苦労が語られた。
 いずみさんがは2002年7月27日から31日までのI高校で行われた柔道部夏季合宿に参加した。
 合宿の最終日(7月31日)、教頭より、いずみさんの重態を知らせる連絡が入り、搬送先のA大学病院に向かった。
 9時間にもわたる緊急手術により、命はとりとめたものの意識は戻らず、植物状態になる。

 今日までの7年余りに、7回手術。その間、病院を転々とした。
 @ A大学病院 (4ヶ月)
 A B病院 (2週間)
 B A大学病院 (4ヶ月)
 C C総合病院 (3ヶ月)
 D A大学病院 (4ヶ月)
 E D総合病院 (5年)
 F A大学病院 (2ヶ月)
 G E総合病院 (2ヶ月)
 H F病院

 最初に入院したA大学病院は、斉野平さんの自宅から、電車のアクセスが悪く、車で往復4時間かかった。しかし、そこは三次救急病院であるため、早急に出なければならなかった。
 いずみさんは、病院で完全看護だったが、母親は心配で、ほぼ毎日、365日中340日は通ったという。
 6回目のD総合病院が5年間と長いのは、2003年の秋に母親ががんになり、翌年、手術したため、特別配慮してもらったとのこと。がんは、ストレスからも発症すると聞いている。学校事故・事件の遺族にも、がんを発症したひとの話を何人も聞いている。体調が悪くても無理してしまったり、心理的な影響だろうと考えて、発見が遅れたり、治療が後回しになってしまうこともある。

 通常の病院は3〜6ヶ月で出てくれと言われる。しかし、いずみさんのように、若くして全看護状態になった患者は受け入れてくれる病院がなかなか見つからないという。方々の病院をあたるも、どこも万床と言って断られる。空き待ちの順番に入れてもらえるよう頼むと、「年齢が若すぎる」「急変したときに対応できない」などの理由で断られたという。
 「病院からは早く出て行くようにと急かされ、いくら探しても受け入れてもらえる病院は見つからず、この時の私の気持ちは、何とも惨めで情けなく、何より世間からいずみの命が否定され拒絶されていることが悲しくて仕方ありませんでした。」と母親は話した。
 ようやくF病院が受け入れてくれることになり、医師から「お母さん、たいへんな思いをされてきたのですね」と声をかけられたときには、ボロボロと泣いてしまったという。今、いずみさんは、F病院に入院しながら、隣接する特別支援学校にも転入することができたという。

 子どもが大けがをして意識が戻らず植物状態になってしまったということだけでも、絶望的であるのに、さらに、安住の場所さえない。ならば自宅でみればよいと思うひともいるかもしれないが、現実には設備も整えなくてはならないし、ある程度の医療知識や技術をもった人間の24時間体制での介護も必要になる。そして、自分で体調不良を訴えることができない患者が、肺炎や様々な感染症を起こしたとき、死に至るリスクは大きい。
肉体的に、精神的に、そして経済的に大きな負担となる。

 医療報酬の仕組みで、次から次へと病院を替わらなければならない。せっかく、リハビリを熱心にしてくれる病院に入れてほっとしていても、自宅から比較的近い場所に入ることができても、またすぐ次の病院を探さなければならない。しかも、ケースワーカーも手伝ってくれるとはいえ、基本的には家族が次の病院を探してこなければならない。心理的な負担は大きい。
 きっといずみさんだけでなく、多くの患者やその家族が同じような思いをしているのだろう。
 救急医療の問題も深刻だが、せっかく命を取り留めても、安心できる居場所がない。これは、個人の力より、国の施策の問題だと思う。患者の家族が、「生きていてくれてありがとう」と心から言えるように、患者のこと以外に心を煩わせることがなくてすむように、なんとかしてほしい。
 とくに、学校で事故にあった場合、過失の有無を問わず、その自治体が責任をもって受け入れ病院を確保してほしい。でなければ、子どもだけでなく、家族の命までが削られてしまう。




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