わたしの雑記帳

2009/5/13 映画「チョコラ!」を観てきました。

5月13日(水)、渋谷のユーロスペースに、ケニヤのストリートチルドレンたちを扱った映画「チョコラ!」を観に行ってきた
(http://www.jca.apc.org/praca/cinechokora.html  http://www.chokora.jp/ 参照)
ほんとうは別の日に行く予定をしていたが、サイトで今日、カメラの吉田泰三氏とともにモヨ・チルドレンセンターの松下照美さんのトークショーがあると知って、この日に変更した。

モヨの活動については、松下さんが帰国した際に、何度かお話を聞いたり、そのときにスライドを見せてもらったり、ニュースレターを送っていただいたりして、頭のなかでなんとなく想像がついていた。
(me020917 me040905 参照)
しかし、モヨだけでなく、ティカという街を中心にその周辺を映し出すことで、ケニヤのストリートチルドレンの生活をよりリアルに感じることができた。また、ケニヤに暮らす人々の生活の過酷さと同時に、目を見張るような美しさも映像からは伝わってきた。

世界子ども通信「プラッサ」の29号はケニヤ特集といってもいい内容で、そのなかで映画についても、様々な角度で触れられている。映画を観ながら、「なるほど、このことを言っていたのか」と思い当たることが多々あった。
プラッサ代表の小池彰さんが書いた「ドキュメンタリー、その危うさと輝き」。
小林茂監督の映画をみて、なるほど私たちはテレビや映画で、「ドキュメンタリー」をただ現実を切り取ったものと思いがちだ。
しかし、そこには製作者の意図がかなりの割合で入っていたことを思い知らされる。
観たひとが何に感動し、どう思うか、考え方の筋道みたいなものが予め仕組まれていて、観る側は知らず知らず、その思惑に載せられる。それが、この映画では極力、そういう製作者の意図みたいなものが排除されていると感じる。坦々と子どもたちの日常が撮られていて、ふつうならこのシーンはカットされるのではないかと思えるようなシーンまでが入っている。
テレビのドキュメンタリー番組では、まず採用されないのではないかと思う。
そういう意味では、今回、この映画がテレビをはじめ様々なメディアに取り上げられたことはむしろ、ちょっと驚きでさえある。

具体的に言えば、たとえば撮影者に撮影の見返りを要求する子どもたちの小ずるさみたいなもの。えてしてこういうドキュメンタリーでは、けなげに生きるかわいそうな子どもたちという美化したものになりがちだ。
そして、これがもし、NHKのドキュメンタリー番組なら、焦点は子どもたちではなく、子どもたちを支援する日本人・松下照美さんを中心に進められるのではないだろうか。
そこに、松下さんと、小林監督の堅固なる信頼関係を感じる。

映画のなかで、松下さんの登場シーンはそれほど多くない。しかし、そのなかでほんとうにすごいひとだなぁと私が感心させられるのは、子どもの言動にオロオロと振り回される松下さんの姿だ。15年この問題をやってきたという驕りが微塵もない。
目の前の子どもの気持ちがわからない。どうすることが彼にとっての最善かわからない。悩み、模索する姿。知ったかぶりをして、すぐに結論を出すことをしない。子どもの、「ああしたい」「こうしたい」に丁寧に付き合う。ただし、けっして無知で振り回されているわけではない。うそはうそと知りながら、それでもそのなかから何か掴もうとして、自分の労力を惜しまない。
ふり返ってわが身を考えたとき、私には10数年、子どもの問題をやってきたという驕りがある。
子どもをいくつかのパターンと照らし合わせて、間をすっとばして、結論を急ぐ。目の前の子どもと向き合う時間を惜しんで。勝手に解釈してわかった気になっている。

松下さんは、ケニアの子ども、ストリートの子どもとひとくくりにしない。
それは、日本の子どもたちに対する視線にもあらわれている。
映画製作にあたっての小林監督の松下さんへのインタビューのなかで、「日本ではいじめや自殺が増えていますが、こちらの子どもたちは自殺をするというような意識はないように感じました」という質問。
それに対して、松下さんは「自殺は、ストリートの子どもたちの発想にはないと思います。いじめっていうのはある。それはどういう世界にもあるでしょう。大きい子が小さい子をいじめるとか、小さい子が物乞いをしてうまくもらったら、大きい子が取っちゃうとか、生存競争みたいな側面もありますが、いずれにしてもいじめはあると思います。ただそれが、そう陰湿にはならないんじゃないかという気はします」と答えている。
多くのNGO関係者が、日本のいじめ自殺する子どもと、海外の貧しい子どもたちとを比較して、「生きたくとも生きられない子どもたちがいるのに、日本の子どもたちは甘ったれている」「ひ弱だ」と言う。
しかし、松下さんは、子どもの苦しさを比較して、日本の子どもたちの苦しさを大したことではないと決め付けたりしない。
子どもをひとくくりに論じたりせず、一人ひとりの子どもの生きづらさに向き合ってきたからこその言葉だと思う。


映画のなかで、家出を繰り返す少年や、学校に行きたがらない少年たちが、大人たちに「なぜ?」と問いかけられて、「べつに」と答えるシーンがいくつかある。
大人たちは言う。「虐待などしていない」「子どものため、親は、大人たちは、こんなにがんばってきたのに」「自分たちには問題はないのに」と。
子どもたちの無表情のなかに、大人たちへのあきらめを感じた。どうせ、言ってもわかってくれない。言うだけ無駄。言ったって、責められるだけなら言わないほうがまし。
物が豊かかどうかにかかわらず、子どもたちの思いには、国境を超えた共通項があるようだ。

しかし、幼い弟たちに見せるやさしい表情、仲間といるときの生き生きとした表情。大人たちに見せるのとはまったく別の顔がある。悲しいかな、日本の子どもたちは(反省しつつ、またひとくくりにしている)、本来、子どもがもっているはずの幼いものへの思いやりや仲間といるときの喜びさえ奪われている。それは、子どもたちが自然に落としたものではなく、やはり大人たちに奪われたものなのだと思う。

そして、見知らぬ日本からの撮影隊が、子どもたちのその表情、仲間と過ごす時間の至福のときをとらえられたことの奇跡。きっとストリートの子どもたちも、地元の大人たちにはこのような表情を見せないのではないか。
見知らぬ人たち、そして自分たちを一切、批判したり、指導したりしようとしない人たち。だからこそ、ありのままを見せることができたのではないかと思う。

松下さんのトークのなかで印象深かったことがある。「ものを与えることで壊す関係性」について、話されたこと。
私たちも、スタディツアーなどで、つい、子どもたちにお土産を渡す。一瞬でいいから、喜ぶ顔がみたいという思い。
でも、松下さんは言う。そうすると、今度は「次、くるひとたちは何をくれるの?」になってしまうと。
そうではなく、ひととひととが出会うことの喜びを子どもたちに教えてほしいと話された。たとえば、スタディツアーなどで大学生の女性たちが来ると、それだけで男の子たちはうれしい。会って、話せて、それだけでうれしいのだと。
たまたま若い女性を例にはとられたが、きっと、男性でも、女性でも、若くても、若くなくてもよいのだと思う。であったことに喜びをもたらしてくれる相手であってほしいということだと思う。

また、支援することの難しさについて質問された方がいた。両親がいるのに路上に出ている子どもの支援までするのは行きすぎではないかと。恵まれた環境にありながら、満足しないのは単なる甘え。突き放したほうが本人のためになる。言外にそう言っているのかなと思った。多くの日本の子どもたちに浴びせられる批判と同じだからだ。
松下さんは言った。小さな規模のNGOで、自分たちも、親のいる子と、いない子という線引きをしてきた。そのことを今、後悔していると。実は映画のなかに出てきた両親のいる子どもはもう、この世にはいない。亡くなっているのだという。
なぜ、どのようにしてという詳しい話はでなかった。しかし、一人ひとりの子どもにもっと向き合うべきだったと松下さんは言う。
その反省から、今は、親がいるいないで判断するのではなく、その子どもにとって何が必要かを考えて、今、孤児院のなかには親のいる子もいるという。

メキシコのストリートチルドレンにもいえることだが、ツアーなどで出会った子どもが、数年後にはもうこの世にいないことを知らされることがままある。「ストリートの子どもたちはたくましい」「輝く笑顔だった」そのように言ってもやはり現実は厳しい。
子どもは無知ゆえに、大人から説得されてもその危険性を理解しようとしない。ストリートの何にもしばられない自由。シンナーやドラックのもたらす一時の幸福感。そして、暴力。
ケニアの子どもは自殺しないという。もしかすると、自殺があっても統計にさえ上らないだけかもしれない。
メキシコのストリートの子どもが自殺した話を聞いたことがある。そのとき、やはり自殺はあるのだと思った。ただ、元々、存在さえ認められていない子どもたちがどんな死に方をしたかなど、大人たちは誰も関心を示さない。統計さえないのがやはり現実なのだろうと思う。そして、自殺をしなくとも、生きる意思を手放せば、簡単に死に至る厳しい世界で、自殺は必要ないのかもしれない。ドラックやシンナーを吸うことが、生きることからの逃避となっているなら、同じではないかと思う。

モヨをはじめたきっかけについて松下さんは質問に答えてこう話した。パートナーを亡くして、心にぽっかりあいた穴をふさぐために、私には子どもたちが必要だった。そして、子どもたちにも私が必要だったのだと。
早くケニヤの子どもたちのところに帰りたいという松下さん。ケニヤでは最近、孤児院を経営するための条件が変わった。現在の孤児院は借家で、この活動を安心して続けていくためにも、子どもたちの家の建設と運営のための資金集めに、映画とともに全国を行脚するという。
すぐに消費してしまう物ではなく、子どもたちが幸せに生きるための土台作りに、寄付を呼びかけている。
(モヨ・チルドレンセンター http://moyo.jp/ 参照)

なお、5月24日(日)18時40分の回の上映後も、マエキタミヤコさんと、松下照美さんのトークイベントがある。


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