わたしの雑記帳

2004/7/3 スイミングスクール内でのいじめによる自殺事件(021221)。学校外でのいじめについて


2002年12月21日、京都府伏見区の少年(13)が自殺しました。同じスイミングスクールに通う1年上級の少年からのいじめが原因かと思われます。現在、遺族はスイミングスクールとコーチら、少年の保護者を相手どって民事裁判を起こしています。

学校外でのいじめ事件を私が取り上げるには理由があります。学校のなかで放置され止まることの知らない「いじめ」は確実に学校外にも拡がっていると感じているからです。
私が個人的に相談を受けたり、耳にしたいじめには、地域のスポーツクラブでのいじめ、児童館など子どものたまり場でのいじめ、塾でのいじめなどがあります。また、恐喝や暴力などは、地域のたまり場で日常茶飯事的に行われています。

学校内でのいじめが、学校外にも飛び火していじめが始まったということもあれば、まるで別のこともあります。
学校内でも勢力を張っているツッパリグループが、万能感のなかで、勢力拡大をめざし、地域に出ていくこともあります。

学校とは違い、「行かなければならない場」ではないのに、なぜ子どもたちは逃れられないのでしょう
ひとつには、特に地方都市では、子どもたちの行動範囲が限られているということがあります。子どもたちが楽しく遊べる盛り場の範囲が極めて小さく、いじめるグループと学校以外でもばったり遭遇する機会が多い。
被害者が不登校になっても地元に居続ける限り、関係は断ち切ることができません。次第に家に引きこもるようになります。また、いじめっこ、あるいはいじめグループが学校を辞めたり、卒業したりしても、彼らが地域に居続ける限り、完全には関係を断ち切れません。逃げることができません。

子どもたちが、恐喝や暴力の被害にあっても、なかなか大人に言えないのは、被害を訴えたあとも、加害者たちと同じ地域で暮らさなければならないからではないでしょうか。警察に訴えたとしても、多くは保護観察処分。自立支援施設や少年院に行ったとしても、1、2年。逆恨みに対しては命の危険さえ感じるでしょう。子どもが罪を冒しても、大人たちがきちんと更正させることができない今のシステムのなかでは、被害者や告発者は安心して生活できません。そして、大人たちが、警察も含めて、自分たちを真剣には守ってくれないことを子どもたちは骨身に染みて感じています。

そして、部活動や習い事に共通することは、夢が子どもたちを縛るということです。
目的をもって何かに打ち込んでいる、努力している子どもほど、理不尽な目にあっても、その場から逃げられないのです。この京都のスイミングスクールに通っていた少年の場合もそうではなかったかと、私自身は想像しています。ただし、誤解しないでください。夢を持つことがいけないのではなく、夢をもつその気持ちを守り育てていけない環境にこそ、問題があるのです。

被害者が親にいじめのことを話せなかったのも、いじめは弱い自分をさらけ出すようで恥ずかしい、チクったと言われて報復される、自立心もあり自分で解決しなければいけないと思っている、親に言ったところで解決できるとは思えない、相手の親に交渉にでも行かれればその後の報復が怖い、などのほかに、親に言えばスイミングスクールを辞めさせられるかもしれない、夢を諦めなければならなくなる、いじめさえなければスイミングスクールに通い続けたい、こんな理不尽なことで挫折したくない、という思いがあったからかもしれません。

そして、親にいじめのことを訴えてスイミングスクールを辞めたとして、住んでいる地域が近ければ、その場所に自分が行かなくなったからといって、安心はできません。場合によっては、「逃げた」ことを理由に暴力を受けることさえあります。相手が暴力を振るうことにあきるまで、あるいは別のターゲットを見つけるまで、ただじっと堪え忍ぶしかないと子どもたちは考えるのではないでしょうか。そうしているうちに心を病んで、力つきてしまうのです。

こういう状況におかれた時に、子どもたちだけではもはや解決がつきません。
周囲の大人たちが、いじめをさせないこと、いじめられている人間を守ることをしなければならないと思います。
まずは第一に、自分の子どもにいじめをさせないことです。もし、外からそのような情報がもたらされたときには、安易に考えずに真剣に親が我が子と向き合うべきだと思います。
そして、周囲の大人たちにも、子どもたちを守る責務があるのではないでしょうか。まして、スクールという限られた人間関係のなかでは、預かった子どもの安全を確保する義務が大人たちにはあると思います。少なくとも、子どもの安全が脅かされているという何らかの情報を得たならば、保護者に連絡するのは、大人として当然のことではないでしょうか。子どもには、大人に守られる権利があります。

大人たちが子どものいじめや暴力に気づいていて止めないとき、それは防止策を講じなかったというだけではなく、積極的に加害行為に参加したのと同じ効果があります。
本来、子どもは大人の目を恐れます。悪いことをしているという自覚があればなおさらです。しかし、大人が知ってなお容認すれば、子どもは自分の行為が認められたと勘違いします。自分の行為が悪いことだという自覚ができなくなります。そして、被害者は絶望します。知らなくて誰も助けてくれないのは仕方がないにしても、知っているのに助けてはくれないことに、見捨てられ感を感じることでしょう。大人ができないことを子どもにできるはずがないと、もう誰も自分を助けてくれるものはいないと絶望することでしょう。通りすがりの大人であれば、被害者もあきらめがつくかもしれません。自分のことをよく知る大人がそのような対応をとれば、子どもはどう思うでしょう。

傍観者も加害者のひとりである。子どもであれば、かばえば自分が今度はターゲットにされるかもしれない恐怖感があります。自分自身を守るためには仕方がない部分があります。しかし、それが大人であれば話は違います。大人には腕力があります。権威があります。組織力があります。子どもと大人とはけっして対等ではないのです。同時にその罪は何倍も重いことを大人たちは認識すべきでしょう。

いじめ、心と体への暴力は学校のなかだけで起こるとは限りません。
人と人とが集うところにはいじめが発生する可能性が必ずあります。それが未熟な子ども同士であればなおさら。子どもたちだけで解決できないとき、そして、子どもから助けを求められたときには、大人には助力する義務があると思います。
いじめに第三者はありません。子どもたちが自信をもって、安全、安心して生きられる世の中でなければ、いずれ大人たちにそのシッペ返しはくるでしょう。子どもが幸せに生きられない国に未来はありません。今の日本の少子化がそれを物語っているのではないでしょうか。





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