わたしの雑記帳

2004/6/6 長崎県佐世保市の同級生女児殺害事件について


2004年6月1日、長崎県で、小学校6年生の女児が同級生の女児に殺害される事件が起きた。
被害者の父親は、自らが報道関係者ということで、「逆の立場ならお願いしている」として、6月1日の夜、記者会見に臨んだ。
テレビ画面には、被害直後の何が起きたのかわからない、実感もわかないまま、混乱している父親の様子が映し出された。この段階から、誰か適切な人間のサポートが受けられれば、少しはその混乱も収まるのではないかと思えた。

父親は自分の娘が学校で刺されて死んだということだけで、事情聴取が終わった後にもかかわらず、犯人が同級生の女児であることを知らなかった。報道関係者から、その場で初めて知らされて、驚いた様子だった。
当事者であるにもかかわらず、情報がきちんと与えられない。司法行政に被害者の視点をもっとと、あれほど騒がれていたにもかかわらず、未だ何も変わっていない。

カッターを振り回したら当たってしまったなどという偶発的な事故ではなく、小学校6年生の女児が明確な殺意を持っていたと聞いて、思い浮かんだのは、妬みか、恨み。いじめへの仕返しではないかと思った。
もちろん、「殺すつもり」とは言っても、現実感として「死」や「殺害」を捉えていたわけではないと思う。

動機として、ホームページへの書き込みがあげられた。
ネット上のコミュニケーションの問題は、女児にかぎらず、大人にも非常に多く見られる。
根源は、コミュニケーション能力の不足であると私は考えている。生身の人間対人間のコミュニケーションが充分に行き届いているうえでのネット利用であれば、拡がりを見せるだろう。大きなプラスに発展する可能性は大きい。
しかし、幼い頃から、塾や習い事に追われ、遊ぶ空間をなくし、体と体がぶつかりあうような人との関係を築いて来なかった現代の子どもたちは、相手の気持ちがわからない、自分もまた相手にどう、自分の感情をぶつけてよいのかがわからない。対人関係に臆病な子どもたち、大人たち。

ネットを使ってのコミュニケーションは、他者と会話しているようで、実は自分自身と会話していることが多い。その自分が思い通りの反応をしないことに腹を立てる。生身の相手には言えないような言葉が、相手の反応が見えないだけに簡単に飛び出す。自分との対話のなかで、憎悪は増幅されていく。

これがもし、見知らぬ人間同士であれば、きっと腹を立てて、また別のサイトにけんか相手を捜しにいくことで終わっていたかもしれない。
しかし、今の若いひとの多くは、知人同士、もしくは毎日、学校であっている、職場であっているもの同士が、ネットを使って会話をする。喫茶店で、テーブルをはさんで、恋人同士が携帯メールをしあう。電車のなかで、学生同士がメールでやりとりする。目の前にいる相手と本音の話をするのが怖い。一方で、メールはエスカレートすると、いくらでも本音が出てきてしまう。

携帯の電話やメールを使ったいじめがまん延して久しい。それが今、ホームページ上でやり合うようになった。
ハンドルネームという名前の仮面をつけて、別人になったつもりで、本音をぶちまける。
バーチャルな世界だからこその楽しみ。それがいつしか、現実の世界を歪めていく。切り離そうにも切り離しきれない。一方で、ネット上の内容について、面と向かって相手に言えない。
嫌になったらいつでも一方的に打ち切ることができるネット上の関係とは違い、現実はどろどろと果てしない。
その煩わしさに付き合う忍耐が養われていない。

かつては、友だちがほしい、コミュニケーションがしたい、しかし、どうやって友だちとの関係を作っていけばいいかわからない。そのなかで、相手を支配することで安定した人間関係を得ようとして、いじめも起きた。
今は、次の段階に進んでいると感じる。もう、コミュニケーションすらほしいとは思わない。本来、一番楽しいはずの恋人との語らい、あるいは恋のかけひき、それすら省いて、いきなり暴力によって相手を支配する。そして切り捨てていくという若者たちの出現。
そういう時代にきているのだと思う。

以前に、雑記帳で、12歳以下の児童による殺人事件を取り上げた。(me010417
その後も、福岡で、男子児童(小6・11)がいじめの仕返しに、同級生の男子児童(小6・11)を包丁で刺して、全治1カ月の重傷を与えた事件があった010609)。2人は仲良しだった。

そして、もう20数年前になる1979年、北海道で中学3年生の女子生徒が、親しかった同級生を殺害する事件があった790428)。親しかった2人の少女。友人関係のもつれ。妬みの心。事件前にはいくつかの予兆があったが、教師も親も気づかなかった。
女子生徒は少年院に収容されたが、「意外なことに、友だちを殺してしまった悲劇の少女だというのに、伸江(仮名)はいま、高校に進学して将来は学校の先生になりたいと夢を燃やしているという。」(ルポルタージュ 死角からの報告 子どもが人間を殺した/ 斉藤茂男 編著/1983.3.10太郎次郎社)

少女は少年院のなかで、何を学んだだろう。被害者の少女にはもう夢も未来もない、全てを自分が奪ってしまったのだということを、どれだけ実感としてわかっていただろうか。
今回、佐世保の女児は小学校6年生。さらに幼い。この事件から、何を学ばせることができるか。大人たちにかかっているだろう。





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