わたしの雑記帳

2001/11/29 岡崎哲くんの裁判(11/27)。第三次訴訟。遺族はなぜ学校を訴えたか。


11月27日に、土浦で、岡崎哲くんの第三次訴訟・学校を訴えている訴訟の公判があった。
今回は、原告である哲くんのお父さん・后生さんと、お母さん・和江さんの証人尋問だった。
これが、この裁判における、原告側弁護士の闘い方なのだろう。ここでも、突然わが子を失った悲しみよりも、淡々と事実を述べることで、論点をはっきりさせていくという方法がとられた。

最初の部分は11月15日の加害少年と両親を訴えている裁判と共通するものだったが、ここでは学校の不法行為を立証しなければならない。そこで、「学校には事件を防ぐチャンスがあったはず」「事件には兆候があった」ということが、両親の調査で出てきた事実を元に証言された。

主には事件前、
1) 9月14日の夕方に加害少年と親しいE君が数人で岡崎家に押し掛けてきたこと、その時はけんかにならなかったが、そのことをはっきり具体的ではないにしろ、学校には手紙という形で伝えてあったこと、
2) 事件当日、H少年と哲くんとのいざこざを教師が目撃していたこと(生徒の証言では教師はけんかを見て知っていたが、なぜか岡崎君のみを咎めたとしたが、教師は岡崎くんを見たがH君のことは見ていないと証言)、その後、哲くんが加害少年のクラスに行って「待ってろよ」と怒鳴っていたこと、H少年がクラスメイトに「今日、けんかをするよ」と話していたことと、その準備のために下校時わざわざジャージに着替えていたこと、
3) 事件後の聞き取り調査で、加害少年のいる3年3組にはおかしな子どもばかりを集めて、何も知らない海外赴任から帰国したばかりの教師に担任を押しつけたこと、

それから、事件発生後の学校の対応で遺族が傷つけられたことが証言された。
内容としては、
1) きちんと調査をしないで、学校がうその情報を流したこと。加害少年と哲くんは1年前から仲が悪かった、哲くんのほうから「けんかをしよう」「けんかができないんだろう」と挑発したと、事件の翌日、翌々日の新聞に報道された(裁判の証言ではH少年がけんかをやる気満々でジャージに着替えていたこと、哲くんは制服のままH少年とその仲間5、6人についていったことが判明)。これは学校内の人間しか知り得ないことであり、実際に記事を書いた記者に確認したところ、教頭に取材して情報を掴んだと回答を得たことを后生さんが証言。
2) 事件に関与した生徒が告白したにも関わらず、「何も言うな」と口止めしたこと。他の生徒たちにも、遺族やマスコミには事件について何もしゃべらないよう、口止めしたこと、
3) 学校はすでにいくつかの事実を掴みながらも、それを遺族には何も報告しなかったこと、
4) 赴任して間もなく、哲くんのことを何も知らない(遺族にはそう答えた)教頭が、警察の再捜査のなかでは哲くんのことを「自己中心的な子どもで、本当の友だちはいなかった」「すぐにカッとなる性格で、サッカーでも試合をすぐに投げ出した」などと言ったりして、(哲君の人物像については、裁判の証言の中でも哲くんをよく知る教師たちが口を揃えて「正義感の強い、明るい、何も問題のない生徒だった」と証言、生徒たちが書いた追悼文には生前の哲君の友だち思いの性格への感謝の言葉やサッカー部でも信任の厚いキャプテンだったことが非常に多く綴られていた、)、哲君の名誉がひどく傷つけられたこと。そして、教育委員長が「遺族が病院であばれて窓ガラスを割った、女性教師の髪の毛を掴んでひっぱり回した」と病院の院長から聞いたと遺族の前でも断言し、そのようなが他の学校にも回っていたこと。(後にテレビの取材に対して病院長は「そのような事実はない」と否定)

このように、証言では事実の積み重ねをしていった。
対して、反対尋問はかなりきつい口調で行われた。一面だけをとりあげて、悪い印象を残そうとする。しかし、事実を自分たちの足で丹念に調査してきた遺族はひるむことなく、自分たちのあげた証拠の信憑性について、情報源を明確にして証言していった。

裁判のことをよく、「裁判ゲーム」と呼ぶ。そのことを彷彿させるやりとりが、被告側弁護士と原告側弁護士の間で交わされた。同じ事実について話していても、見方を変えると全く印象が異なるということ。
たとえば、病院で「何があったのか」と問いつめる遺族に対して、教師は「一対一の素手でのけんか」「相手はH君」それ以外は「何もわからない」「知らない」と言っている。
被告側弁護士は調査をしていない段階で「何もわからない」と言うのは正直な答えではないか、なぜそこで、遺族が「おかしい」と思うのかと言う。
対して原告側弁護士は、裁判の中の証言を持ち出し、その時点で現場に駆けつけた教師は、H君以外に何人もの生徒がいたこと、当日、H君と哲君との間にトラブルがあったこと、などを知っていた。なおかつ、遺族には「何もわからない」と言いながら、マスコミには「2人は仲が悪かった」「2年の時に同じクラスだったが、H君側の要望でクラスを分けた」などを即日で流している。まして、遺体を見れば、素人が見ても凶器を使ったとわかるようなひどい傷がある、居合わせた教師たちがうそを言っていると思うのは当然ではないかとした。
また、哲くんのお兄さんが、教師に対して「オレの目を見て話せ」と顔を近づけたということに対して、被告弁護士の言い方では暴力的なイメージが作られる。
しかし、原告側の解説で、「ということは、先生は、お兄さんの目をきちんと見て受け答えをしていなかった」あるいは「うそを言っている」と思わせるような、学校側に誠意ある対応が見られなかったことを追及する。その中では、遺族から話の最中にふいっと席をたってしまう教師の態度なども証言された。

一方、限られた時間内で、母親の和江さんの証言は短く押さえられた。この中で、報道やデマの中でつくられた哲君のイメージと、実際の哲君とはいかに違うかが、哲君の名誉回復のために、多くの事実をあげて証言された。不登校だった子が、哲くんのおかげで学校に来れるようになったと感謝していること、サッカー部のキャプテンとして、部員からもいかに信頼を得ていたかということ、命の大切さを知っている子どもであったこと。特に、事件当日の道徳の時間に書いた感想文が、まるで遺書のようになってしまったが、この中で、哲君は「両親にとっては僕の誕生はこのうえない喜びだったろう。自分の命を大切にして、生きていきたいです」と書いている。
心を込めて慈しんで育ててきたことが、息子の心にもあった。命の大切さを理解していた。自分があるのは周りのひとたちのお陰であることもよくわかっている子であったと証言した。

今回の証言を聞いて、なぜ遺族が学校を訴えなければならなかったのかが見えてくる。本来なら、加害少年とその両親、それから父親と兄が警察官ということで身内かばいの意識から歪んだ捜査を行った警察・検察を訴えるだけでもよかったはずである。そこにもし、学校側が誠意ある対応さえしていれば、遺族の傷はこれほどまで深くならずにすんだはずだということ、今回の事件に学校側が果たした役割というものを改めて考えさせられる。

学校側の問題点として、
今回のことを起こるべくして起こった「事件」ではなく、偶然起こった「事故」と捉えていること。
・従って、事件がなぜ起きたのか原因追及がなされていない。当然、再発防止に向けて何ら対策が立てられていない
・本来、被害者寄りか少なくとも中立であるべき学校が、警察官が非常に多く住んでいる、警察を含めた地元の主要機関を旧住民が支配しているという環境の中で、権力におもねる方向で動いたこと。そのために、被害者を誹謗・中傷し、子を失った遺族の心の痛みに寄り添うことをしなかったこと。
などがあげられるだろう。

そしてもし、
・学校側が、子どもたちの荒れ(万引きやけんかなどが日常茶飯事だった)を放置せず全力をあげて対応していれば。特に問題のある生徒を3年3組に集めたのなら、そのことを理解している教師が、複数で、問題解決にむけて対応にあたるべきだった。
・ひとりの生徒を教育現場で、学校という人間関係の中で殺してしまったことの悔しさ、将来有望な一人の子どもの命が失われたことの悲しみを遺族と共有し、弔意を現していれば。
・事件が起きたときに、警察とは別の形で、信頼関係のある教師と生徒という立場で、多くの生徒から事情を聞き、その結果をまとめて、遺族に報告していれば。その上で、学校側が気付かなかったこと、事前に何もできず事件を阻止できなかったことに対して、遺族にきちんと謝罪していれば。
・加害生徒たちからも話を聞き、たとえ周囲にいた子どもたちが直接、手を出していなかったとしても、自分たちにも、哲君を死なせた責任があることを自覚させ、親子をつれて、遺族にきちんと謝罪し、今後の謝罪の方法についても話あっていれば。少なくとも、遺族が、加害者を含めた一人ひとりの子どもたちから、何があったのかを存分に話を聞く機会を学校なら設定し得たはずである。
・今後、二度と同じ悲劇が起こらないように、加害者のプライバシー等に配慮したうえで、情報を学校内だけでなく、広く世間一般に公開し、今度の事件を教訓として、遺族とともに再発防止に向けての取り組みをすることができたなら。

これらが、学校の手で実行されたなら、おそらく遺族は学校を訴えはしなかっただろう。
そして、加害少年も、その少年をきちんと正しい道へ教育できなかったことへの反省を込めて、教師の仲立ちがあれば、遺族にあってきちんと謝罪し、心からの反省と本当の立ち直りを果たせたかもしれない(950416のように)。
また、いくら警察が身内かばいの意識をもって、事実をねじ曲げようとしても、教師が子どもたちの心に寄り添い、本当のことを引き出していれば、事実は正しく明らかになっただろう。
加害少年、あるいは加害少年たちと、遺族を結ぶことができるのは、学校であり、地域の第三者であったはずだ。それをせずに、権力におもねる人びとが、死人に口なしとばかり被害者を悪者に仕立て、被害者遺族を地域社会からも孤立させてしまった。被害者は最愛の息子を暴力で奪われたうえに、その名誉をズタズタに傷つけられた。健康で、仲間思いで、明るく誠実に生きてきた息子を、心臓病で、自己中心的、けんかをしたがらない相手に対して挑発するような人物像を世間に残したまま死なせるわけにはいかない。今まで哲君が生きてきた14年間の全てが否定されてしまう。
みんながうそをついた。その中で、子どもの名誉回復のためには、遺族は裁判を通して、真実を追及するしかない。

1つでもたいへんだというのに、同時に3つの裁判。まして、その内1つは国と県、最大の権力を相手どって闘わなければならない。巨大な権力を前に先行きが見えない。どれだけやっきになっても、そのパンチが相手に届いているかどうかさえわからない。闘っている相手の顔さえ見えないなかで、まるでシャドーボクシングをしているようだと思う。
裁判という、一般人の常識では計り知れない世界の中で、自分たちの全てを世間にさらけ出して闘わなければならない。特殊な言語、ルールの中で、主体であるはずの原告は、弁護士同士が闘うための、ひとつのコマにすぎなくなる。自分で自分の動きが決められない、闘い方を選べない。すべては裁判という特殊な世界で勝ち抜くためには。
ほんとうは、誰でもが、自分のありのままの姿・言葉で、裁判を闘えなければいけないと思う。
裁判官によって出された判決が、我々の一般常識、感覚から、大幅にずれたものであってはいけないと思う。


この国はどこまでも被害者に辛くあたる。困難を強いる。そして暗に「泣き寝入りをしたほうが楽だよ」と耳元でささやく。「すべてを投げ出してしまいたい」裁判を闘っている人びとから何度となく聞かされた言葉だ。それに対して、私は何も言えない。体も心もボロボロになるほど辛い思いをして闘っているひとに、これ以上、がんばれとは言えない。誰も、代わりにはなれないのだから、ただ、見守るしかない。
何もできなくても、そばにいるだけでも、少しはそれが孤立している人たちの力になるのなら、そばにいたい、見守っていたいと思う。それしかできないから。
なお、次回公判は、2001年1月29日(火)1時30分から、土浦地裁にて。牛久一中のかつての校長と教頭を証人として呼んでいる。
また、前回、東京のほうで、加害少年の証人申請が通らなかったということを受けて、第三次訴訟で、「学校の不法行為を証明する」ための内容に限って、証人として召喚し、尋問することも検討するという話が裁判官からあった。相手が未成年ということで、拒否される可能性もあり、証人申請しても必ずしも出廷するとは限らないが、わずかな光明がここに残された。遺族としても、先方から裁判所に出された文書だけでなく、本当に少年が更正しているのかどうかを、せめて顔を一目なり見て、知りたいという思いがある。事件後、謝罪ひとつなかった少年の口から、せめて真実の一片なり、語られることを期待する。

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