子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
950416 いじめ自殺 2000.9.10. 2001.6.16. 2003.3.9 2003.7.1更新
1995/4/16 福岡県豊前(ぶぜん)市で、市立角田(すだ)中学校の的場大輔くん(中2・13)が、午後2時半頃、自分の部屋の二段ベッドの上段の手すりにパソコンのコードをかけて首吊り自殺。帰宅した姉(高1)が発見して、すぐに病院に運んだが、約1時間半後に死亡。
遺書・他 居間のテーブルの上には「遺書」「1995年4月8日」と手書きされた封筒があり、手書きでしたためた遺書のほかに、手のひらに収まる程度のメモ用紙数枚とノートの切れ端が入っていた。

5/ 大輔くんの死後約1カ月して、学校からの報告に不満をもった遺族が遺書を公開。
筆ペンで書かれた白い紙には、
「拝啓 今までいろいろいとお世話になりました。
この度は、角田中学校の××をはじめ××、××、××、××など、その他××、××、××、××の悪質ないじめを受けたことによりこの身を絶つことを決心いたしました。今までの厚情を無にいたし申し訳ありません。」と書かれていた。
A4用紙10枚には、暴力をふるった上級生5人と同級生4人の名前が書かれていた。また、自殺の5日前から前日までプロレスごっこをされたほか、殴られたり因縁を付けられたりした様子が日付ごとに書かれていた。メモには4/11-15の5日間の日付とともに、遠足の途中で腹を殴られたことや、因縁をつけられたことなどが記されていた。空白の日もあった。

「4月11日に歓迎遠足でいじめられる。「耳に的場の声が聞こえたら殺す」と脅される。
4月13日、(生徒らの実名)掃除に行く途中因縁を付けられる。」

「おれが死んだらテレビ局が来るね、やったー!日本の有名人になれるぜ。おれの食費、服なんかの金もかからなくなるから、家族みんなでシーガイヤ(宮崎県のリゾート施設)に行っておいでよ。」

「おれの敵を討ってください。今の3年を殺してください。もしかしたらおれが殺すかも」

おれを殺したのは三年の男子だ!(○○以外)
もっといろんなことをしたかった。パソコン、ボーリング
コンポがほしかったなあ
それとプラモももっと作りたかったな・・・
父、母、姉、祖母、おば、おじ すべてのみなさん、今までどうもお世話になりました。」」


おれは死にます。これは自殺じゃない。他殺だ!!」と赤いフェルトペンで書かれたメモもあった。
いじめの内容を具体的に記したノートには、
生徒の名前ごとに、「腹を10回近くなぐった上に校歌まで歌わせた。」「プロレスといっても何回もけったりなぐったりもした」などと書かれていた。
「遺書」と書かれたパソコンのフロッピーの中にも、印字するとA4判用紙に10行ほど書いてあった。

 「お元気ですか?これを読んでいるという頃は俺がもう死んでいると思います。たったいじめで死ぬなんて、なんて精神力が弱いのだろうと思っているでしょう。そうです。僕は精神力が弱いんです。でも、「たったいじめごときで」と思っているでしょう。いじめごときではないんです。ある意味では集団リンチよりきついです。もし、生きているとするならまず、現三年生を皆殺しにしようと思います。みんな俺が弱いと思っているようですが、実際はA、B、C、Dとは互角に戦う自信があります。遠慮をしていたんですよ。みんなは「殺す」、と言っていますが、本当に殺す事ができますか?俺はできますよ。俺は死ぬ事が恐くありません。むしろ、楽しみです。死ぬときにちょっと痛いかな?と思うぐらいです。今までどうもお世話になりました 
by 大輔」とあった。
いじめアンケート 同校では、いじめアンケート調査などで生活指導をしてきたが、いじめは把握していなかった。

1995/1/ 2カ月前に全校生徒対象に「いじめアンケート」を実施。各クラスで話し合いをもった。
その感想文に大輔くんは、
「みんな人の痛みが分かればいいのにと思う。そうすれば、少しずつでも人のいやがる行動というのがわかり、そういうことをしなくなるんじゃないかと思う。」「人はそれぞれ違うのに一部分が劣るというだけでつけ込むのはおかしい」と意見を書いていた。
担任が、この文書を学級通信で紹介。
被害者 大輔くんは校区内へき地の小学校出身で1クラスしかない2年生で同じ小学校出身は他にいなかった。大輔くんは成績がよく、バスケット部に所属していた。

元々、考えていることをあまり顔や態度に出さないほうだった。
家では普段から、家のことをよく話していた。
仲のよかった2歳年上の姉にも、いじめのことは打ち明けていなかった。
親の認知と
経 緯
1年のときから、通学用の自転車のタイヤの空気を抜かれるなどのいじめがあった。

1994/12 大河内くんがいじめを苦にして自殺した事件のあと、父親は大輔くんに「いじめられていないか」と尋ねたが、「ない」と答えた。「何かあったらお父さんやお母さん、お姉ちゃんに話せよ」と言ったが、「別にないよ」と答えていた。

春休みからずっとバスケット部の練習に行っていなかった。

4/11 2年に入っての遠足の途中で腹を殴られた件は父親にも告げていた。

4/16 朝、「クラブをやめたい」と言うので、父親が「これまで1年間我慢したのに」「あと何ヶ月間しんぼうすればいいやないか、もう少し我慢しろ」と言ったところ、「うん」と返事していた。その日に自殺。
背 景 角田中学校は全校生徒107人の小規模校。3年は2クラス、2年と1年は各1クラス。教職員は校長を含めて12人だった。落ち着いた学校だと見られていた。
調 査 学校が2、3年の生徒78人全員から話を聞いた結果、「1年生のときに、体育館で複数の生徒からボールをぶつけられていた」「上級生から屋上に呼びだされて殴られたと友だちに聞いたことがある」「4/11にあった学校の遠足で同級生から腹を殴られたと大輔くんから聞いた」「昨年(1994)暮れ、クラブの練習前に体育館で泣いているのを見たことがある」「自殺した大河内清輝くんの名前で呼ばれ、からかわれたこともあった」などの証言を得る。

1年生の時から同級生とプロレスごっこをしていたが、今年になり「嫌になった」と同級生にこぼしていた。唯一、プロレスごっこのみ過激な遊びという理由で、教師が止めていた。

バスケット部では、力の差のあるチーム分けをして、試合に負けたチームには、罰ゲームとして、自己紹介や校歌を歌うこと、ハリツケ(蹴ったり投げたりしたボールをぶつける)などを以前から行っていた。Eがキャプテンになってからは、ボールを投げたり、蹴ったりする距離が短くなった。ほとんどの3年生が罰ゲームに関わっていた。部では、今年になって上級生の下級生に対するいじめが多発していた。

1994/1-2 バスケット部の先輩が数回にわたり、練習前に体育館の更衣室に呼び出し、「あいさつの仕方が悪い」などと言って、腹を殴った。複数の部員が殴られていた。3年生の教室は2年生の教室の隣にあり、休み時間に挨拶の強要や暴力行為があり、呼び出しが続いた。また、先輩が大輔くんに無理に校歌を歌わせ、殴りつけた。

大輔くんは、今年の春休みからずっと、塾を理由にバスケット部の練習をずっと休んでいた。顧問教師は4月に代わったばかりで、大輔くんが練習に出ていないことに気付いていなかった。

4/11 学校の遠足で、バスケット部の先輩のEはFを使って大輔くんを呼びつけ、1回目は「うるさい。お前の声を聞きたくない。黙っちょけ」「おれの耳におまえの声が聞こえたら、殺す」と言い、すぐ帰したが、2回目は「俺の悪口を言っただろう」と言って、「言っていない」という大輔くんの腹を10回以上殴った。その後、「校歌を歌え」と命令し、大輔くんが泣きながら歌い終わったところで、「もういい」「誰が帰っていいと言ったか」と呼び戻し、しばらく待たせたあと「顔を洗え、他のやつには黙っちょけ」と言って帰らせた。

いじめを打ち明けられた友人が、「先生に言ってやろうか」と言ったが、「我慢できる、そんなことはしなくていい」「殴られることには馴れた」と言っていた。

4/15 自殺の前日、大輔くんは3年生の教室で、バスケット部を含む男子生徒約10人に取り囲まれていた。取り囲んでいた男子生徒の1人は、「的場が先輩の悪口を言ったので呼びだした」と話していた。この時、3年生の男子に対してあいさつの強要と暴力があり、泣きながら、お腹を抱えてうずくまる大輔くんの姿が目撃された。
同級生らの対応 大輔くんの死後、何人かの生徒は「知っていたが、とめられなかった」と教師に話した。
遺書には、同級生に「自殺したい」と相談し、「やめろ」と言われたことも書かれていたが、教師に相談した生徒は1人もいなかった。
学校・ほかの対応 4/17 両親は学校に遺書を見せて、いじめがあったと思われること、加害者を調べてほしいと要求した結果、学校も教育委員会も「自殺はいじめが原因だと思います。申し訳ないことをしたと思います」と謝罪した。

また、県教育委員長も「遺書の内容から、いじめを苦にしたものと考えられる」と自殺の原因がいじめだったことを公式に認めた。

しかし学校は、遺書に書いてあったことは調べるが、それ以外は何もしない。「的場君に対する『いじめ』の原因と考察」を出し、「反省しています。指導しました」と調査報告書に書いているが、具体的なことは何もわからない。校長、前担任、クラブ顧問は訓告処分。

1999/3 市側が市議会へ、学校でのいじめが原因で自殺したことに市は責任を認める、遺族に和解金を支払い、大輔くんの死を風化させないよう今後もいじめ問題に取り組むことを確約する、という和解案を提案し、遺族が受け入れる。
事故報告書 学校・市教育委員会の報告書は、事件から10日後、1ヶ月後、3ヶ月後と3回、県教育委員会に提出。最初の報告書には不明な点が多く、遺族の要望で作り直されるが、公開された資料はぬりつぶされ、ワープロのフロッピーディスク7枚分という基礎資料も添付されていなかった。県教育委員会は報告書の開示に当たって、生徒からの事情聴取を、「中身が事実かわからない」として、明らかにしなかった。学校の調査で、大輔くんに直接暴力を加えていたと明らかになったのはEだけだった。
作 文 4/17 緊急全校集会で大輔くんの自殺報告されたあと、全生徒に作文を書かせた。作文のコピーを遺族に見せるが閲覧のみ。遺書に名前のあった子どもたちを中心に見るが、「気づかなかった」などしか書かれていない。その後、もう一度見せて欲しいと要望するが、プライバシーの問題があるとして拒否。

校長はマスコミに対して、作文には「いじめを全く知らなかった」と書いた生徒が多かったが、いじめにかかわっていたことを認める趣旨の文面もあった。中には「こうなったのは自分の責任」と記した作文もあったというが、詳しい内容については明らかにしなかった。

弁論会で発表されたいじめについての作文は、教師がいろいろ書き直させたものだと生徒がいう。
加害者 バスケット部の先輩、主犯格のE(中3・14)はキャプテンで、1年でバスケットシューズをいくつもはきつぶすほど熱心に練習していた。
「クラブを強くしたかったから。的場くんにも強くなってほしかったから」「自分たちが入学したとき、上の学年から言われていたので、(挨拶の習慣を)続けなければいけないと思った」「挨拶のことを言っても的場くんがしないので、となりの教室で声が聞こえると、うるさいと思うようになった。黙らせようと思って、黙っちょけと言った」と大輔くんの両親に話した。
Eは1年生のときも同級生を殴るなど、いじめ事件を起こしていた。


遺書に名前が書かれていた9人(上級生5人と同級生4人)が父母と一緒に謝罪に来るが、「うちの子はただ横にいただけ」「何でうちの子の名前があがっているのかわからない、子どもに聞いても自殺につながるようなことはしていない」と親が弁解するだけだった。

加害者たちが1年生のときには、やはり上級生から暴力やいじめを受けていた。先輩が後輩をシメるのは当たり前だと思っていた。     
処 分 Eだけが書類送検・保護観察処分(1999年春まで)。ほかの生徒は、犯罪行為とするほどの違法性はなかったとの判断で書類送検されず、その他一切処分なし。
再発防止策 豊前市教委教育長は、市内の全小中学校19校の校長に6項目のいじめ対策を指示した。
・校長や養護教諭ら教職員で構成し、いじめの実態や原因の調査を行う「
いじめ問題対策委員会(仮称)」の設置。
・地域ぐるみでいじめ根絶に取り組むため学校やPTA、子ども会などの代表が参加する「
対策会議」の設置。
・児童生徒の悩みを受け付ける「
心の相談ポスト」の設置
・社会教育指導員、教職員OBなど7人によるいじめや不登校などに関する「
教育相談」の開設。
など
裁 判 1998/9 遺族がEと保護者を相手に損害賠償請求訴訟をおこす。
1999/1 被告のE側が「いじめ」と「自殺」の因果関係を認めて和解金を支払うことで和解。
加害者の謝罪 四十九日が過ぎた頃、教員の付き添いで、E親子が的場家に謝罪に訪問。命日には親子三人でお参りに行く。

Eは和解の際、弁護人を通じて、
「大輔君とご両親に対して一番伝えたかった事は、自分がしたことに対して謝るしかないという思いです。とうてい許してもらえるとは思っていませんが、謝るしかないと思い続けています」「この三年八ヶ月の間、一日として、大輔君のことを思い出さない日はありませんし、決して忘れることはできません。大輔君の死を通して、自分の自己中心的な部分や暴力で解決しようとしていた事、人に対する思いやりに欠けていたことなどは変えていかなければと思いました」「今後は自分がした事の重大さを反省し、思い続け、人としての道を外さないよう、どう生きていくか、その答えを探すために、ずっと考え続けようと思っています」などと書いた謝罪文を遺族に送った。
誹謗・中傷 議員のひとりが、事件が騒ぎになったことに対して、「豊前市のはじ」と発言。「子どもが亡くなって、保険金が入っただろう」と言われる。
参考資料 月刊「子ども論」1995年6月号/クレヨンハウス、『せめてあのとき一言でも』/鎌田慧/1996年10月草思社、いじめ社会の子どもたち/鎌田慧/1998年11月15日講談社、1998.11.2朝日新聞、季刊教育法2000年9月臨時増刊号「いじめ裁判」/2000年9月エイデル研究所ある「いじめ自殺」加害少年 七年目の告白/渡瀬夏彦/「現代」2001年7月号/講談社「子どもと教育 事件のなかの子どもたち 「いじめ」を中心に」/浜田寿美男・野田正人著/1995年12月20日岩波書店1995/5/3西日本新聞、1995/5/15中国新聞(月刊「子ども論」1995年7月号)



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