わたしの雑記帳

2001/3/24 「目黒区鷹番小の体罰訴訟」に判決


今日、目黒区鷹番小の体罰訴訟に判決が出た。
この裁判の特異なことは、体罰を行った教師や安全義務違反をした学校だけではなく、学校にすりより、被害者を排除しようと嫌がらせをした親たちのうち、PTAの役員2名を被告として、訴えたことだ

1996年7月15日、東京都目黒の鷹番小で、小学校一年生の男児が担任教師から、腕を金属フックで7センチ傷つけられる事件が起きた。
また、児童とその保護者によると、それ以前にも、給食に同級生のツバが入ったのを見た男児が給食を食べるのを拒むと、紐でイスに縛りつけたり、給食の容器で何度も頭を殴るなどの体罰をしていた。他にも同児童を、他の保護者との会話のなかで、わざわざ悪い例として引き合いに出すことなどもあったという。

担任教師は生徒に怪我をさせながら、親が聞くまでは連絡ひとつなかった
更に「怪我をさせてしまって申し訳ない」と親に言ったその口で、翌日には自分のクラスで児童を「嘘つき」呼ばわりし、そのことから同級生たちによるいじめが始まったという。
児童の受けた心の傷は重く、学校側は父母の抗議を受けて、教師を担任から外した。

ところが、クラスの他の保護者は処分を受けた教師に味方し、「教育熱心ないい先生なのに」と担任復帰を求める署名運動を展開。被害者の親にまで協力を求めた。
「先生が戻れないのはあなたのせい」「そのぐらいの傷で」「愛のムチだ。むしろありがたく思え」と、体罰を受けた児童に非があるかのような発言を繰り返した。
親の必死の訴えさえ嘲笑い、聞こうともしない。「いられなくしてやる」という脅しや無視、様々な嫌がらせが続いた。妹まで地元の幼稚園には通えなくなった。

学校側は「担任がフックの危険性を教えようとしていたら、男児が手を引いたために傷つけてしまったらしい」と体罰を否定。さらに、学校に行けなくなった児童を単なる自己都合の登校拒否として扱い、新たな受け入れ先の学校さえ紹介しようとなかった。

家族はまず、傷害事件として警察に訴えたが、学校の中でおきたというだけで、事情聴取さえなく、取りあってはもらえなかった。
(町の中で、たとえ知り合いであっても、大人が子どもをたたけば、まして怪我をさせれば、暴行罪になると思うが、学校の中でおきた暴行は事件として扱われない)

児童と母親とが原告となって、学校と学校にすり寄る親たちを相手どって裁判を起こした。1996年11月末のことだ。
原告のSさんは、「訴訟を起こさなければ、自分たちの暮らしている街で、顔を上げて歩くことさえできなかった」と裁判に踏み切った理由を話してくれた。

裁判の公判日は、私の仕事日と重なっていたため、数回しか傍聴することができなかったが、私が傍聴したときにはいつも、傍聴席の半分以上を被告支援者たちが埋めていた。教師や教育委員会の人間が、務時間中にスーツ姿で来ていた。地域の母親たちが被告支援のために来ていた。

今回の判決は、複雑なものだった。
裁判所は、学校を管理する自治体に50万円の支払を命じた。
金額を見ると原告側の圧倒的な勝利である。しかし、原告側の主張が認められたとは言い難い。

日本の裁判の場合、被害者への補償金の額は非常に安い。過失傷害の被害補償額は通常2〜3万円程度という。50万円という金額からすると、体罰の金額だと言う。
しかし、フックの傷に対しては、男児がフックを振り回して遊んでいたことに対して、他の児童が「怖いからやめて」と言った。担任は、「こうしたら痛いでしょ」と言って、フックを腕に当てたという児童の証言(書類のみ。児童2人から話を聞いて、証言の内容に食い違いがある)と、教師が「フックの危険性を児童に教えようとした」教育指導目的であると認められた。ただし、教師が言う「平行にあてた」「フックの金属の感触の気持ち悪さを教えようとして」という言い訳に対しては、傷の状況からして垂直にあてたであろうこと、気持ち悪さを教えるだけならフックの危険な部分でなくとも足りたことから、痛みを体感させようとした」と認定。その行為を「体罰と捉えられかねない不適切な行為」と判決文では表現。
指導目的であるにしろ、「痛み」を与えることを目的としたのなら、それを体罰と呼ばずに何と呼ぶのかと思うが、体罰であることは否定した形をとっている。

一方で、そのほかの体罰については、頭をたたいたことを1回のみ認めたが、それ以外の体罰や暴言については、証拠がないとして認められなかった。
ただし、小学校1年生という感情豊かな時期の児童に対して、精神的な苦痛を与えたということで、慰謝料として相当の金額が支払われるべきだとした。
怪我をした理由について、保護者に連絡をしなかったことに対しては不適切としながらも、その後、謝罪したことで問題なしとされた。

そして、保護者らの排斥運動に対しては、言動も個人の考えを口に出しただけ、「言った」「言わない」と原告と被告側の証言が食い違うなかで、証拠もなく、責任を認められなかった。

判決文の中で、私が一番解せないのは、学校側の措置を裁判所が、適切な処置をしたと認定したことだ。担任を交代させたこと、生徒らの動揺を考えて病気休暇扱いとしたこと、不登校になった児童が学校に戻れるよう最大限の努力をしたという学校側の主張が全面的に認められた。
まだまだ、教育裁判において、直接の加害者や関わった担任の責任までは認められても、学校の責任まで踏み込むことは難しいようだ。明らかに学校側がウソを並べ立てていると思われたとしても。
そして、証拠はすべて学校側が握っているということ、学校の外から何かを証明しようとすることの困難を、この裁判でも改めて感じさせられた。

この裁判の当事者である、男児の証言は、本人が了承し、何度も原告側が主張したにかかわらず、結局は採用されなかった。
加害者である教師は法廷で証言し、言い訳をすることも許されたのに、被害者の証言は黙殺されている。年齢からして、児童の負担になるのは確かだろうが、一方で、この年齢だからこそ、その証言の真実味は、証拠などなくても、説得力はあったことと思う。
傍聴なしででも、実現できなかったのだろうかと、本人も望んでいたと聞いていただけに残念な気がした。結局は、子どもの証言というものを取るに足らないと軽く見下しているということなのだろうか。大人の言い分だけしか、聞く耳を持たないということなのか。

今回の裁判で、原告が一番訴えたかったことは、なんだったか。
男児は、「僕は先生に、まだ謝ってもらっていない」と言ったという。そして、うそつき呼ばわりされたことがショックだった。友だちにそのことでいじめられたことがショックだった。また、小学校に入学して間もなく受けたロープで縛られてむりやり給食を食べさせられるということのショック。教育の入り口で、そんな目にあった子どもがはたして、その後、学校を、教師を信じることができるだろうか。
男児がこの裁判で訴えたかったことに、判決文はひとつも応えられていない。
ただ、かつてSさんが「本当は体に受けた傷より心に受けた傷のほうが大きい。しかし、心の問題は裁判では取り上げてもらえない。それがくやしい」とは言っていた。その心の傷に対して、50万円という金額が認められたのだとすれば、それは十分評価できると思う。

そして、児童の母親であるところのSさんが訴えたかったこと、学校にすりよって、被害者を平気でむち打つ人びとに、自分の身になって考えてほしいという切なる思い。4年間にもわたって裁判に、被告として関わらざるを得なかった精神的な苦痛を思えば、十分すぎるほど身にしみただろう。

今後、果たして、この裁判が控訴となるかどうかはわからない。
判決は、両者の折衷案ともとれるようなもので、互いの言い分を全面的に認めてはいないかわりに、それぞれにそれなりの満足を与えるものでもあった。
原告は50万円という、過失では考えられない、体罰の補償金並の金額を手に入れることで、勝訴した。
被告は、50万円の支払を課せられたとはいえ、自らの懐が痛むことはない。(税金で支払われる)
教育的指導、適切な対応として、担任教師も学校も面目がたった。教師は復職し教壇に立っている。訴えられた親たちも、嫌な思いをした一方で、違法行為ではないと免罪符を手に入れることができた。

そして、原告の今はどうかと言えば、男児は別の学校に通っている。母親は「今は、幸せに暮らしています」と胸を張って言えるようになった。4年前の暗かった表情、今にもぽきりと折れてしまいそうな危うさが、今は笑顔を取り戻し、芯の通った強さが見える。表情に自信が見える。
彼女はきっと、地域でも、しっかりと顔をあげて歩いているだろう。
 
裁判を起こすことはとても、たいへんなことだと思う。しかし、そのことで明らかに変わっていくものもある。そして、たとえ裁判に負けたとしても、次の原告に道を残すこともある。
何も言わず黙っていれば変わらなかったもの、もっとひどくなっていたであろうことが、声を上げることで、みんなが考えるようになる。体罰に対する学校や世間の認識も、1976年の水戸五中の体罰死事件からすれば、ずいぶんと変わった。辛い裁判を闘ってきた人びとが変えてきたのだと思う。その恩恵を私たちも、私たちの子どもたちも受けているのだということを忘れずにいたい。

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