南京レイプを明らかにする東京集会
−日本軍による性暴力−
1998年12月13日

南京の片隅にいた歴史の証人

−−「Sさん」と「Cさん」−−

劉 彩品


「南京1937」について書かれた書物の多くが、 日本兵による少女暴行を書いているが、その歴史の証人が南京の片隅にいて、 辛かった思い出を60年間一人胸にしまいこみ、沈黙していたことを知った。 ショックであった。 この歴史の証人とは、12月13日、 「南京レイプを明らかにする東京集会」 で自らの体験を語ったSさんとCさんのことである。

13日の朝、初めてSさんとCさんに会った。 対照的な二人である。 Sさんは大柄で大声で話し、Cさんは小柄で物静かに話す。 私が南京の紫金山天文台で働いていたことを話すと、 Cさんは見学に行ったことがあると言い、 Sさんは、 紫金山天文台のことは知らないと言った。 南京の玄武湖附近に住んでいることを話すと、 Sさんはそこならば行ったことがあるとすぐ打ち解けて、 堰を切ったように話し始めた。

Sさんは、自分や家族が蹂躙をうけた経過、12月13日、14日、 15日に起こったこと(附録:Sさんの証言参照)を話していると、 怒りが募ってくるのか、声が段々と大きくなって行った。 7歳で両親をなくした彼女は、金もなく、住む所もなく、 ボロボロの服を着て町をさまよいながら 11歳まで乞食をしたことを話しているうちに、彼女は声をだして泣き崩れた。 「我命苦呀!我苦命呀!」(日本語に訳しようがない、命:運命、苦:辛い) と言いながら大粒の涙が次から次へと溢れ出た。 慰めの言葉もなく、暫く手を握って一緒に泣いた。 11歳の時、彼女は、 油条(小麦粉をこねて油で揚げた食物)の店で15歳年上の男に会い、 家に連れて行かれ、その後結婚した。 それが今の夫だが、夫の姉(故人)からは、日本兵に強姦されたこと、 乞食で汚いことなどについて罵られつづけていたと話していた。

その間、Cさんは傍に静かにすわって、 興奮しているSさんに時々「不要興奮」(興奮しないで) と声をかけて宥めていた。 「自分はSさん程の苦しい経験はない。 見聞したことを話します」と言っていたCさんだが、 話しは、涙なくして聞くことはできなかった。 Cさんの場合、 この悲しい思い出を60年間自分一人の胸にしまい込んで耐えてきたのだが、 それだけに一層胸を締め付けられる思いがする。

Cさんは中華門附近にある家で押し込んで来た日本兵に強姦された。 わずか9歳の幼女は、蹂躙された結果、局部の痛みが酷く、 しばらく歩けない程であった。 静かに話している彼女が只一度涙で話を途切らせたのは、 父親が家にもどり、娘が強姦されたことを知り、幼い彼女を腕に抱きしめ、 二人で泣きあったこと、それにもうこの土地に住めないと言い、 逃げる決心をしたという話をした時であった。 父親はその夜、篭の一つに傷ついた娘を乗せ、もう一つの篭には、 布団や近所の焼け跡の米壷の灰をかき分けて拾ってきた米を入れて、 天秤で担いで、日本兵から遠ざかるために、 南へ南へと夜を徹してひたすら歩きつづけた。 彼女の顔は涙を堪えようとして引き攣った。 黙りこんだ彼女を眺めて、私は思わず涙が出てしまった。 すると彼女の涙は堰を切ったように目から溢れ出た。 語るのをやめて静かに涙を流している彼女の全身から、彼女の苦痛、 そして父親の苦しみを思う気持ちががひしひしと伝わってきた。

SさんとCさんが61年の沈黙を破って証言をするに至ったきっかけは、 南京大虐殺記念館が被害者の証言を募っているというニュースを 南京のテレビで見たことである。 二人ともその時初めて、被害を訴える所があることを知った、と言っていた。 Sさんは南京大虐殺記念館の存在さえ知らなかった。 Sさんは始めて記念館を訪れた時、応対に出てきたのが若い男性だったので、 恥ずかしくて自分のことは言えず、父母のことしか話せなかったと言っていた。 しかも二人とも、未だ家族(Sさんの場合は子供たち)に、 自分の経験を話せないでいる。

私は、幼い彼女たちに襲いかかった悪魔のような日本鬼を憎み、 傷ついた心を人生の大半抱いてきた彼女たちのために涙を流した。 と同時にこの60年間、 誰にも顧みられずに南京の片隅に暮していたという事実にがく然とした。

南京大虐殺記念館は、ファシスト戦勝40周年の記念行事の一つとして設立され、 1985年開館した。 当時江蘇省のある民間団体(政府認可)の責任者であった私も 開館式に列席したが、違和感を覚えた二つの記憶がある。 30万人の南京の犠牲者を弔う記念式典に、 当時の女性省長が煉瓦色の艶やかな服を着ていたこと、 それに江蘇省と南京市の各部門の責任者が日本のトヨタ車で現れたことであった。 (その後、新聞にその日のことを 「南京大虐殺記念館の駐車場は日本のトヨタ車に占領された」 と皮肉った記事が載った。) 南京大虐殺記念館は、毎年記念行事を行い、 海外から多くの参観者を迎えたと宣伝していたが、 南京にいる被害者がその存在を知らず、その役割を知らなかったことについて、 中国人として恥ずかしく思い、江蘇省・南京市政府の怠慢に怒りを覚えた。

これからどのように彼女たちと向き合っていけばいいのか、 今のところ分からない。 ただ、人間としての耐え難い思いを60年に亙って耐えてきた彼女たちを、 単に1937年に起こった一つの事件の歴史的証人として 見てはならないのではないかと思っている。


附録:Sさんの証言

★12月13日
 朝7時か8時頃、 3、4人の銃と刀を持った日本兵が一家の扉を開けて入ってきた。 当時は家屋に3家族が住んでいたが、銃を乱射して押し入ってきた日本兵に、 まず、父が左腕を撃たれて倒れた。 母も引きずり倒された。 次に管理人のおばあさん、家主のおじいさんが撃たれた。
午後2時か3時頃、2人の兵士が母を取り囲み、 刀で母のシャツや身につけていた衣類を切り裂いた。 取られまいとして身につけていた、銀の首飾りやお金を奪われ、 母は「やめてください」と言ったが、布団まで何もかも奪っていった。

★12月14日
午前2時か3時頃、父の傷も深いので近くの避難所に逃げようとしたが、 手前で多くの日本兵に銃でさえぎられ、家に追い返された。 その日は朝まで何もなかった。
真冬で寒かったので、午後庭の日だまりでひなたぼっこしていると、 2人のひげを生やした日本兵が馬に乗って入ってきた。 私を馬上に抱き上げズボンを脱がそうとした。 激しく泣く私に父は「泣かないで、泣かないで」と言った。 私を取り返そうとした父は日本兵に殴られ、その場で馬乗りにされ、 首を3度も切られた。 血だまりの中で父は動かなくなって横たわっていた。

★12月15日
午後2時か3時頃、台所の下で母と私が寝ていると、2人の日本兵が入ってきた。 父は意識不明のままだった。 日本兵は父の所へ近づき、父の目を指で開き、刀を口に入れ、 中国語で「死了、死了」と言った。 父が死んだと確かめてから、先に私を押し倒しズボンを剥ぎ取った。 ふとももを両手で開き、指を膣に押し込んでえぐりだした。 殺されるのが恐くて、泣くこともできなかった。 そのまま私は日本兵に強姦された。 母は強姦を恐れて顔に煤を塗っていたが、 もう一人の日本兵に顔を強くこすられ、強姦されてしまった。 その後、銃口を膣にねじ込まれ、 苦しくて「やめて」と泣きながら哀願したが聞き入られなかった。 もし私が泣き叫んだら、母も殺されると思っていた。
日本兵が去った後、性器が脹れあがり、痛くて動くこともできなかった。 小便が流れだし、出たままだった。 父も母も動けなくなり、傷の手当ては自分でするしかなかった。 布切れを股にあてていたが、小便が沁みて身体を動かすことができず、 前かがみになって股を開いた姿でしか歩けなかった。
父は首を切られたため、重体で食物も受けつけず、半月ほどして死んでしまった。 母も精神的におかしくなり、悲憤で毎日泣き暮らし食物も受けつけなくなって、 父のすぐ後で死んでしまった。
私は体の痛みを我慢して、街の人から食物をものごいして歩いた。

 

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