学習会第2回
笠原十九司著『南京難民区の百日』
―虐殺を見た外国人―

福田広幸・田崎敏孝


第8章.難民区の終わり

1.新年を迎えた難民区

  (P.281〜288)
1)南京の日本軍には、正月三日間の休暇が下令されたが、 難民区国際委員たちには背筋が寒くなることだった。 それは、多量の正月酒がふるまわれ、大勢の酔っぱらい日本兵が巷に出て、 勝手気儘な蛮行を繰りひろげることを意味したからである。
南京難民区の新年は強姦ではじまった。 安全区の国際委員はそれぞれの場面で強姦事件に直面した。

2)正月元旦の強姦(未遂)事件のきわめつけは、夜九時になって、 日本兵がトラックでラーベ委員長の住宅前に乗りつけ、 おそらく酒に酔った勢いで、彼が世話をしている600名近くの難民の中から、 トラック1台分の娘を出せと要求したことである。 ラーベは門を固く閉めて拒絶したので、 一行は金陵大学付属中学校の方へ向かっていった。

3)日本軍憲兵隊による査問工作も一段落がつけられた1月6日、 南京残留のアメリカ人たちが待望したアメリカ大使館員3名(書記官) が南京に上陸した。
続いて1月9日には、イギリス大使館員(領事1名)と ドイツ大使館員(書記官3名)が南京に帰任し、 陸の孤島だった南京にもようやく外世界からの光が届くようになった。

2.良心的な日本将兵

  (P.289〜294)
1)南京難民区国際委員のメンバーの各々がそれぞれの場面で、 多いとはいえないまでも、良心的な将兵に遭遇し、そのことを記録している。 (マッカラム、フォースター、フィッチ、マギー)

3.アリソン事件

  (P.294〜296)
1)日本軍将校がアメリカ政府の外交代表である外交官に 平手打ちを加えて侮辱した事件。 (後日、アリソンは駐日大使(1953〜57年)をつとめた。)

2)日本政府はすぐに謝罪して賠償を約束し、外交的には一応決着をみた。
しかし、アメリカのマスコミではアリソン事件を大々的に報道した。
パナイ号事件、南京事件の報道をとおして、 アメリカ国民のあいだに高まりつつあった日本軍への反感が さらに煽られる結果になった。

4.「国民政府を対手とせず」

  (P.296〜301)
1)1月16日 日本政府声明
「帝国政府は南京攻略後、なお支那国民政府の反省に最後の機会を与うるため、 今日におよべり。 しかるに国民政府は帝国の真意を理解せず、みだりに抗戦を策し、 内民人塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みるところなし。 よって帝国政府は爾後国民政府を対手とせず。 帝国と真に提携するにたる新興支那政権の成立発展を期待し・・・」
この政府声明は、南京攻略作戦が、実際は、中国に対する勝利ではなかったこと、 政治的にはむしろ失敗であったことを日本政府みずからが認めたことを意味した。 こうして日本は、蒋介石国民政府を「抹殺する」まで、 日中全面戦争を拡大していくという長期戦の泥沼に入っていくことになった。

2)南京攻略戦のべつな意味での失敗を、軍中央が認めたのは、 南京占領の最高の殊勲者たる松井岩根中支那方面軍司令官の更迭であった。

5.難民区の閉鎖を迫られる

  (P.301〜306)
1)1月下旬に新たに南京警備についた天谷司令官は、 難民区の住民は2月4日までに自分の家に戻るように、 それ以後も難民区に残留するものは強制的に武力ででも追い出す、と命令した。

2)この命令によって、 難民区閉鎖という指令を恐れて難民収容所を出て自宅にもどった難民の女性が、 それを待っていたかのように、日本兵によって強姦される事件が激発した。

3)2月4日という難民区閉鎖に国際委員会が強い抗議をおこない、 難民区閉鎖の時期は延期された。

6.難民区の春まだ遠く

  (P.306〜307)

7.ラーベ委員長の帰国

  (P.308〜312)
1)南京難民区国際委員会のラーベ委員長に、 ドイツのジーメンス本社から帰国命令が届き、2月21日、 南京安全区の国際委員ならびに中国人職員が主催した ラーベ委員長の送別会が開かれた。 ラーベはつぎのような告別の演説をおこなった。
「・・・安全区は、 いまやそれが解散させられてしまったことを素直に認めなければなりませんが、 つまるところ大成功でした。 大成功については、ここに集まったすべての皆さんが、 それぞれの持ち場を堅持し、昼であろうと夜であろうと、 いわば人間の権利を守るために奮闘された結果である、 と感謝を述べたいと思います。・・・ 皆さんのすべてに衷心から感謝を述べたいと思います。 良き仲間、良き友人の精神が続くことを望んでいます。 どうかあなたがたの最大の援助を引き続いて、救済委員会にお与えください。
そしてこの事業を立派にやり遂げてください。 私は、この仕事が南京の歴史に残るであろうことを、確信しています。・・・ 皆さん、どうかご無事で、さようなら。」

8.つづく難民キャンプ

  (P.313〜315)
1)南京安全区国際委員会は2月18日から名称を南京国際救済委員会に変更し、 ラーベ委員長にかわって 金陵神学院のヒューバート・L・ソーンが委員長になった。

2)1月下旬、ジョージ・フィッチは日本軍の軍用列車に乗って上海へ向かった。 オーバーの裏地にはマギーが撮影した16ミリのネガフィルム8リールが 縫いこんであった。 日本軍の残虐行為の証拠となるものである。 上海でコピーを4セット作製し、香港を経由しアメリカへと飛び立った。
彼の渡米の目的は南京の状況をアメリカ政府と国民に知らせるとともに、 南京をはじめとして戦禍で苦しむ中国の難民を 救済するためのキャンペーンを全米で展開し、救済資金を集めることにあった。

3)3月に入ると南京城内における日本軍の残虐行為は大分少なくなり、 難民も自宅に戻り生活の再建に取組みはじめるものが多くなった。 しかし、南京周辺の農村は依然として危険な状況が続いていた。

9.南京難民区の百日が終わる

  (P.315〜318)
1)3月末には25あった難民キャンプも4つだけとなった。 日本軍の残虐行為もずっと少なくなり、 安全区の難民も帰れる条件のあるものはほとんど自宅に戻っていった。
こうして成立からおよそ百日がすぎて南京難民区は事実上終をつげた。 ただし、ヴォートリンの金陵女子文理学院キャンプには、夫を殺害されたり、 拉致されて生活の手段を奪われた未亡人や両親を殺されて孤児となった少女、 子供などがまだ3,000人近くも収容されていた。 ヴォートリンはほとんど文盲の彼女らに教育をさずけ、 自活の道につながる職業技術を教える仕事を始めていた。

3月31日のヴォートリンの日記はこう記されて終わっている。
「もしも、この恐ろしい戦争と破壊がなくなっていれば、 そしてもしも家族の団欒がもどっていたならば、 そしてあんなにも立派にはじまった中国再建の道があのまま前進していたならば、 こどもたちの生活はどんなにか麗しいものになっただろうに。
しかし、毎朝私たちの上空をとんで西北に向かう 日本の重爆撃機の隊が私たちを現実に気づかせる。 戦争の終わりはほど遠く、破壊と恐怖と苦悩がまだまだつづくことだろう。」


エピローグ

  (P.319〜324)
1)南京安全区国際委員の人たちこそ、日本軍の南京空襲に始まり、 日本軍の南京攻略戦で激しさを増し、 そしてパナイ号事件の影響でアメリカ大使館員、 外国人ジャーナリストがすべて去った陸の孤島・南京に留まり、 南京占領後にクライマックスを迎えた、日本軍の残虐行為を、 一貫して目撃してきた、真の歴史証人であった。 すでに彼らの全員がこの世を去っている。 しかし、彼らは目撃し、体験した南京事件にかんする膨大な記録を残した。

2)本書は、戦後の日本人が顧みなかったアメリカ人宣教師の記録をもとに、 事件の渦中にいてその全体像は彼らには見えなかった南京大虐殺事件の全容を、 日本軍側の資料も併用して描こうとしたもの。

3)ラーベが告別の演説で述べたように、 安全区国際委員たちの南京の軍民を守るための闘いは 「南京の歴史に残る」ものであった。 それは、 彼らの奮闘ぶりがいまでも南京の古老たちに語り継がれていることに証明される。

4)彼らがもしも日本軍占領下の南京に留まっていなかったら、 彼らがもしも南京難民区を組織していなかったら、 日本軍が歴史に刻んだ不名誉はさらに深刻なものとなっていただろう。

 

[ ホームページへ ][ 上へ ][ 前へ ]


メール・アドレス:
nis@jca.apc.org