学習会第2回
笠原十九司著『南京難民区の百日』
―虐殺を見た外国人―

福田広幸・田崎敏孝


第7章.
陸の孤島・南京でつづく残虐行為

1.入城式の後も地獄

  (P.233〜237)
1)マッカラム牧師の12月19日の日記 (P.236〜237)
「中国の南京防衛軍が崩壊してからちょうど一週間がたった。・・・ 誰もが安堵の吐息をもらしたのも束の間、一週間がたってみると、 まさにこの世の地獄であったのだ。
思い出すのもおぞましい。 どこをどう話したらよいのか見当もつかない。 このように酷い話は聞いたことも見たこともない。 レイプ、レイプ、レイプばかり。 強姦事件は一晩に千件は起こり、昼間でもたくさんある。」

2.強姦、強姦、また強姦

  (P.238〜249)
1)ジョージ・フィッチの日記 (P.238)
「12月17日、金曜日。掠奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。 ざっと計算してみても、 昨夜から今日の昼にかけて1,000人の婦人が強姦されました。 ある気の毒な婦人は37回も強姦されたのです。 別の婦人は五ケ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。 野獣のような男が、彼女を強姦する間、 赤ん坊が泣くのをやめさせようとしたのです。 抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。」

2)12月16日には、 敗残兵狩りのため民家や難民収容所に捜索に入った日本兵が、 婦女子を見つけて凌辱する事件が多発した。 そのため自宅にいて恐怖にかられた婦人が何百人と街頭に逃げだし、 安全な場所をもとめて彷徨した。 金陵女子文理学院のキャンパスは、すでに一万人近い婦女子の難民で、 渡り廊下まで満員で足の踏み場もないほどにふくれあがっていた。
翌17日、ミニー・ヴォートリンは街頭に出て、それらの女性避難民を集め、 あらたに婦女、子供の難民専用に設置した金陵大学寮へと引き連れていった。 ヴォートリンが、 3〜400人の女性難民の集団の先頭に立って街頭を行進するさまは、 さながら日本軍の蛮行に抗議する女性のデモ行進のようであった。

3)17日の午後から夜にかけての強姦の多発は、また様相が違った。・・・ 南京の日本軍のほとんどの兵士が戦勝祝賀ムードにみたされ、 祖国凱旋を夢見て酔っぱらった。 酒に酔って・・・日本兵のある部分は、 中国女性を凌辱するために南京の街にくりだした。

4)17日の夜は、ある兵士のグループがトリックをつかって、 金陵女子文理学院の難民女性を強姦した。
ヴォートリンとフィッチの日記からその経緯を追ってみる。(以下 略) (P.240〜242)

5)鼓楼病院には、 臨時に要請されて看護婦がわりに活躍している十数人の少女たちがいた。 18日の夜、日本兵は病院に侵入し、看護婦まで強姦したのである。 現場に踏み込んだウィルソンは、その日本兵を蹴りだしたが、 その兵士に銃口を向けられるという恐怖も体験した。 ウィルソンは翌日、南京日本大使館宛に、 抗議と善処をもとめる文書を提出した。(P.242)

3.二人の生き証人

  (P.249〜257)
1)毎日放送「MBSナウスペシャル・フィルムは見ていた ――検証南京大虐殺」 (1991.10.6.放映)
   <この毎日放送のビデオは機会があればぜひ見られると良いと思います。 田崎>

マギー牧師が16ミリフィルムで密かに撮影し、 フィッチが上海経由で持ち出したもの。
・李秀英さん・・・日本兵に抵抗し37ケ所も刺された悲惨な体験 (P.250〜253)
・夏淑琴さん・・・一家が惨殺された悲惨な体験(P.253〜255)

李秀英と夏淑琴一家の被害の実例は、 フィルムによる映像資料と、ウィルソンとマギーの記録した文字資料と、 さらに生存する被害者の証言資料とが三つともそろっていることにおいて、 これほど決定的な確証事例はほとんどない。

4.酒、女、放火、掠奪

  (P.257〜267)
1)日本軍の南京入城式前後から一週間にわたって日本軍のさまざまな不法行為、 残虐行為が激発した原因は、南京攻略戦そのものの、 無目的性と無計画性と無謀性にあった。

2)中支那方面軍の司令部が不作為により、何万という軍紀の弛緩した軍隊を、 一週間以上も駐留させたため、中国民衆の生命、 身体と女性の貞操を侵害しただけでなく、財産の略奪・破壊、 そして生活手段の破壊と、さまざまな残虐行為が、 膨大な被害と犠牲をともなって進行したのである。 しかもそれは、日本軍占領下に外部との交通、 通信も遮断した「陸の孤島・南京」において「密室の犯罪」 的な環境のなかでおこなわれたのである。

5.地獄の中のクリスマス

  (P.267〜273)
1)「クリスマスがきた。 街には、いぜんとして殺戮、強姦、略奪、放火がつづき、恐怖が吹き荒れている。 ある宣教師は、" 地獄の中のクリスマスだ " と言った。」 とヴォートリンの日記にある。 2)クリスマスに前後して、 中支那方面軍の主力部隊が新たな作戦地域をめざして南京から移動していった。 これらの膨大な軍隊の転出にともなって、 とにかくも日本軍の残虐事件の数量だけは減少するようになった。
しかし、相変らず、虐殺、強姦、略奪、放火などの蛮行はつづいた。

6.「兵民分離」の恐怖

  (P.273〜280)
1)大部隊の南京城からの退出の後をうけて、 第16師団の佐々木到一少将(歩兵第30旅団長) が上海派遣軍直属の南京地区西部(城内をふくむ) 警備司令官に命ぜられ(12月21日)、 ついで城内粛清委員長に任命され(同22日)、 さらに宣撫工作委員長を命ぜられた(同26日)。

2)佐々木少将が、城内粛清としておこなったのは、 新たな敗残兵狩りの徹底であった。

3)12月24日から「査問工作」が始められた。 それは日本の憲兵隊による市の住民全員、難民全員の登録であった。 まず男性から着手され、身体検査をして民間人と判定された場合には 「居住証明書」すなわち「安居証」が交付され、 それがその後、敗残兵でない証明として生命保障になるとされた。

4)佐々木到一・城内粛清委員長の私記 (P.278)
「1月5日、査問会打ち切り、 この日までに城内より摘出せし敗残兵約二千、・・・ 城外近郊にあって不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、 下関において処分せるもの数千にたっす。」

 

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