学習会第2回
笠原十九司著『南京難民区の百日』
―虐殺を見た外国人―

福田広幸・田崎敏孝


第3章.南京難民区の成立

抗戦を迫られる南京

十月も末になると、 上海戦域から鉄道で南京駅へ送られてくる負傷兵の数が いよいよ増えるようになった。 そして、戦災で家を失った貧しい難民の群れが、 簡単な寝具や生活用品を背負ったり、 食糧をありったけ担いだりして、 老若男女がさまざまないでたちで汽車や自動車あるいは徒歩で南京に向かった。 南京にたどり着く難民の数は、日に千人を超えるようになった。
十一月十五日から十八日に前後三回にわたり重要な国防会議が開かれ、 重要な決定がなされた。 ひとつは国民政府の首都を南京から重慶に移すこと。 もうひとつは、南京防衛軍司令長官に唐生智が任命される。

国民政府の遷都

十一月二十日、唐生智は南京防衛軍司令長官部を組織し、 南京防衛軍の編成が決定される。 そして、この日、蒋介石国民政府は重慶への遷都を宣布した。 この宣布を受けて政府の中央諸機関は、 次の暫定首都である武漢に向けて続々と移転を開始した。
政府機関の移転とともに政府官庁の職員とその家族が南京を離れていき、 ついで中産階級の市民が南京から避難していった。 下関の中山埠頭は長江をフェリーで渡り 浦口駅から浦浦線に乗って北に向かう家族、 ・・こうして十一月下旬には、日に万の単位で市民が南京を脱出していった。
一方、農村や地方都市の貧しい生活を逃れて、 働き口と生活を求めて新興都市南京に移住してきた低辺層の市民には、 避難していくあてもなく、危険を承知で南京に留まっているしかなかった。 馬南京市長の話では、 こうした残留組は十一月末で三十万から四十万人とみなされた (アメリカ関係資料集)

南京が日に日に打ち捨てられていくさまを見たミニー・ヴォートリンは その悲しみをこう記している。 「南京はすでに捨てられた、敗北の町になった。 ほとんどの商店が閉店となり、銀行の閉じられた・・・ 上海との郵便通信も全く切断されてしまった。(十二月二日)
・・最近はあまり外出しなくなったが、市の通りに出かけるたびに、 大変な悲しみに襲われる。 南京は影におおわれつつある――人を悲しませ、消沈させる影に。 一年前にはあれだけ建設のための意欲と熱狂とに満ち溢れていた南京だったのに。 (十二月九日)(窿買Hートリン文書

南京にとどまった外国人

ミニー・ヴォートリン
すでに紹介したとおり。

ロバート・ウィルソン
金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師、三十歳。南京国際赤十字委員会委員。 日本軍の南京占領時、唯一の外科医師として鼓楼病院で医療活動に従事する。 妻マージョリーとは一年前に結婚し、 長女のエリザベスはこの年の六月に生まれたばかり。 最愛の妻子をアメリカに帰国避難させての南京残留であった。 自殺直前のミニー・ヴォートリンをアメリカの病院に見舞っている。

マイナー・ベイツ
金陵大学歴史学教授、博士、四十歳。 南京国際委員会委員、 中心メンバーで財政実務や南京日本大使館への抗議交渉を担当。 南京国際赤十字委員会委員、金陵大学緊急委員会委員長として、 金陵大学施設に設置したいくつかの難民キャンプの責任者もつとめた。 知日派で、日本社会を分析した論稿も多い。 三十七年の夏、三十八年の八月にも日本を訪問。 妻リリアと二人の息子は日本で避難生活を送る。

ルイス・スマイス
金陵大学社会学教授、博士、三十六歳。 南京安全区国際委員会書記。 ラーベ委員長とともに南京日本大使館への抗議文を作成した。 南京国際赤十字委員会委員、 社会学者として南京攻略戦の被害状況を調査書にまとめた。 二人の娘はフィリピンに避難、妻は成都でミッション系大学の仕事を続けた。

ジョージ・フィッチ
ニューヨークにあるYMCA国際委員の書記、五十四歳。 中国の青年将校をYMCAが組織した励志社の顧問として南京に滞在。 中国の蘇洲生まれで中国語が堪能。 南京安全区国際委員会のマネージャー役を担当、 妻と二人の息子はアメリカに避難していた。 三十八年二月末に南京を出てアメリカに出国。 年末まで全米で南京事件の報告と難民救済のキャンペーンを展開する。

ジョン・マギー
アメリカ聖公会伝道団宣教師、南京国際赤十字委員会委員長、四十九歳。 キリスト教の布教と医療活動をおこなていた。 南京安全区国際委員会委員、妻と息子を妻の実家のロンドンに避難させる。 フォースターと組んで外国人の大邸宅を借用して難民を収容した。 良心的な日本人将兵の行動も記録している。

アーネスト・フォースター
アメリカ聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会の書記。 下関にアメリカ聖公会伝道団の医療施設をつくり、 三十六年に結婚したばかりの新妻クラリッサとともに 貧民の医療活動にあたっていた。 日本軍の南京占領直前に妻を漢口から、上海に避難させる。 カメラが趣味で本書に載せた写真のほとんどは彼が撮影したもの。

ジェームズ・マッカラム
連合キリスト教伝道団宣教師、四十四歳。 金陵大学の付属施設で日曜学校や女性のための半日学校を開校。 南京国際赤十字委員会委員、鼓楼病院のマネージャー、 救急車の運転手として活躍。

ジョン・ラーベ
ドイツ人、ジーメンス社南京支社の支配人、南京ナチス党支部長。 南京安全区国際委員会委員長、南京国際赤十字委員会委員。 去年、ラーベの日記が出版されたばかり。

エドワルド・スペルリング
ドイツ人、ドイツ資本による上海保険会社の南京支店長。 南京安全区国際委員会委員、ナチス党員。 日本兵士の暴行に対して体をはって阻止し、難民区の「警察委員」といわれた。

南京難民区国際委員会の成立

十一月十七日の夕方、ロッシング、バック邸における共同生活者のベイツ、 スマイス、ミルズの三人は、 アメリカ大使館のウィリヤ・ペックの邸宅を訪ねて 南京難民区を設定する計画を説明し、 大使館をとおして中国当局と日本当局に 正式認知のための交渉の労をとってくれるよう依頼した。
ミニー・ヴォートリンもペック宛てに、次のような要請の手紙をだしている。 「日本軍が南京に近づいてくる前に、避難できない貧しい家の女性や子供、 その他の市民達にとって安全とおもえる場所 (「安全センター」あるいは「安全地区」のようなもの) を設定するにはどうしたらよいか、検討しておくことが望ましと思いませんか。 ・・・」

まもなくして、南京安全区(難民区)国際委員会が結成された。 委員長はドイツ人のジョン・ラーベが就いた。 ラーベは、日本と同盟国のドイツ人を表に出すことで、 日本当局との折衝を有利にしようとしたベイツやスマイスらの要請を受けて、 人道的な立場から喜んで引き受けた。 そして、十一月二十二日、委員会は声明を発表し、 アメリカ大使館をとおして日本と中国の当局に通告した。日本当局は・・

南京難民区の設定

省略・・・

難民の収容始まる

十二月八日、委員会は「告南京市民書」を配布して、 同区への避難を呼びかけた。
この日までにすでに南京に雪崩れ込んできていた数万人の難民が、 解放された安全区内の建物に収容されていった。 この時の難民は大きく二つに分けられる。 一つは上海の戦域からはるばる避難してきた人達をはじめ、 無錫や常洲、鎮江、句容などの戦線から、 進撃する日本軍に追い払われるようにして南京まで逃げ延びてきた難民たち。 もう一つは南京防衛軍の「清野作戦」のため家を焼き払われた農民と市民。 同作戦は、侵攻してくる日本軍の遮断物に使われる可能性のある建物を すべて焼却してしまうことにあった。

 

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