東裁判報告:第13回公判

1998年9月8日

                                          最終更新:1998年11月20日

東史郎さん「南京・戦争裁判」結審
「地獄まで戦争を引きずっていきたくない」

9月8日(火)午後3時から東京高裁810号法廷で 東史郎さんの「南京・戦争裁判」の第13回公判が開かれた。 今回も抽選が行われる予定であったが、 締め切りの2時半までに定員に達しなかったため、 抽選に並んだ全員が入廷できた。 前回の最後に裁判長から次回あたりで結審にしたい旨の発言があったため、 東さんの弁護団はこれまでの公判の整理をし、大部の最終準備書面を提出した。 これに対し、高池弁護士の書面はわずか2枚のお粗末なものが1部と、 当日に同じ様なものが1部出されただけであった。

中北弁護士−新証拠の採用で原判決の見直しを

さて、裁判の冒頭に裁判長から最後の意見陳述を求められた。 東さん側から始められ、3人の訴訟代理人が最後の意見を述べた。 まず中北弁護士が陳述を行った。12月21日に行われた「本件事件」に関して、 本控訴審では控訴人側(東さん側)から多くの新証拠が提出された。 これらの新証拠はいずれも橋本氏の行為が実行可能性があることを示している。 郵便袋も実在し、袋にガソリンをかけても燃え切ってしまわず、 手榴弾に点火して池の中に投げ込んでも全く危険性はない。 これらの具体的な事実は いずれも東さんの日記の記述の信用性が高いことを示している。 手榴弾の実験では記述のように、沼の水がゴボッと盛り上がり、 迫真性に満ちていた。 これらは南京大虐殺の状況と合っている。 これに対して、橋本氏側は、ガソリンを1リットルもかけた後、 道路を100メートルも郵便袋を引きずり、 沼へ4メートルもほうりこんだなどと、事実に合わない主張を繰り返していた。 こうした控訴審の状況から、原判決(1審判決)の見直しを裁判所に求めた。

空野弁護士−東日記は事実を忠実に記している

続いて空野弁護士が意見を述べた。 東さんの日記の作成過程から、 この日記の記述内容が事実を忠実に記していることを主張した。 東さんの日記の元になっている陣中日記は時間の記述も克明であり、 メモ自体も、京都の戦争展で多くの部分がなくなったとはいえ、 第5巻以降は残っている、 また陣中メモの内の2日分は昭和12年10月に 東さんから友人に送った手紙にも存在している。 その様なメモを元に、帰国後忠実にメモを清書したものが東日記である。 その上に、この日記を書いた動機は言論統制下で自由な身として、 真実を書きたいという願いである。

丹羽弁護士−橋本氏とその背後

弁護団の最後として丹羽弁護士が意見陳述をした。 丹羽弁護士は橋本氏の証言や書面はいずれも信用性がないことを述べた。 まず前回の橋本氏の本人尋問で再度明らかになったように、 橋本氏自身は東さんの『わが南京プラトーン』 の旧版も新版もいずれも読んでいない。 ただ他人にその事を教えられたので、 板倉氏や偕行社の人に相談して提訴したと述べている。 その人達は現行の教科書の記述も無くそうとしたり、 記述が虚構であると主張したりしている。 これは裁判制度を利用して自分たちの主張をしようと言うものだ。 この事は本の中の橋本氏の残虐行為が1937年、 38年と2回書かれているにも係わらず、 南京大虐殺の37年の記述のみを取り上げていることからも明らかである。 その上、橋本氏の記憶は、南京城外掃討戦や捕虜のこと、最高法院や強姦、 便衣兵のことなどいずれも記憶になく、 12月21日の中沢日記の記述の記憶さえも曖昧で、 自分のアリバイの実証がなされていない。

東さんの最終陳述
−−「地獄まで戦争を引きずっていきたくない。」

引き続き控訴人の東さんの発言がなされた。 東さんは証言台に足を運び、背筋を伸ばして裁判官に対して最後の発言をされた。 東さんの日記は真実の記憶であり、 昭和12−14年に戦場で自分自身のために記録したものであり、 公表するつもりは全くなかったと述べた。 もし公表するつもりなら50年経った後で公表するのではなく、 戦後すぐに公表したであろう事。 また、名前は仮名にしたという事は名誉毀損の意志もなかったと力説された。 日記は昭和15年から清書したものであり、ここには真実があるがままに記され、 ただ1個の人間として内外ともに束縛されない、戦場の真実を述べたものである。 中国侵略で中国の方々に多大の害を与えたが、 敗戦後中国の寧波での敵の将校の寛大な扱いで、 侵略への反省をし中国に感謝をしている。 私一人が「心に軍服を着た偽善者」 のために6年間毎回の法廷には2日がかりで出廷してきた。 地獄まで戦争を引きずっていきたくない、と訴えた。

橋本氏−文章を棒読み、裁判長に途中で遮られる

橋本氏は紙を取り出しそれを読み始めた。 内容は前々回とほぼ同じだが、 今回は本人の一方的な発言のためさらにひどくなっている。 曰く、この事件はいくら戦場だからと言っても余りにも酷すぎるものだ。 あのようなことはいくら若いときでもできることではなく、 その様なことをやったのなら、いつまで経っても記憶に残っていて、 悪夢に犯されるものだが、私は思い出せない。つまりやっていない、と言う。 また去年4月22日裁判所であったとき、 東さんは橋本氏に対して「知らんぷり」をし「能面」の様だったという。 それは「嘘を書いているから、良心の呵責を感じている」からだとさえ発言した。 また相変わらず、免許がないのでガソリンは取り出せないとか、 手榴弾を3発も取り付けられないとか、 控訴人側で既に事実の証拠調べが出来ていることさえも 自分の側の勝手な解釈を披露した。 また、池のこと、分隊の人数のことなどは記憶が曖昧だと繰り返した。 戦後に中国へ行ったときのことを脈絡もなく長々と話し始めたときは、 さすがに裁判長に発言を遮られた程だった。

高池弁護士の発言−許せない内容

最後の高池弁護士の発言には許せないものがあった。 彼は冒頭いきなり、被害者は橋本氏であると切り出した。 その理由は、東さんは他人の人権への配慮が欠けているというものである。 東さんは歴史の原則を曖昧にしていると主張。 (この部分は意味が解らなかった。) 歴史認識に対する「いろいろな意見」を取り入れてほしいと要求。 また東さんの記述は酷すぎるので、提訴は郵便袋のみに絞ったという。 そして、橋本氏だけでなくほかにも被害者はいるとさえも述べた。 また、偕行社には行ったこともない。橋本氏達の行動は、大きな後ろ盾もなく、 戦友を助けようという老人達のささやかな行動であると発言。 短い発言であったがその内容には開いた口がふさがらず、 決して許すことが出来ないと思った。 橋本氏の発言の時も、 この高池弁護士の発言の時も思わず批判の声を上げそうになったが、 東さんはじめ弁護団も支援の傍聴者も皆静かにこの暴言を聞いた。 法廷内以外の場所で抗議の声を大きくしなければならない。

いよいよ11月26日(木)13時15分より判決公判が開かれる

5名の最終意見陳述が終わった後、裁判長は弁論の終結を言い渡した。 そして判決は11月26日(木)の13時15分より言い渡すと告げ、 第13回公判・控訴審の最終公判は終了した。

(しかし11月になって突然裁判所は判決を12月22日に延期した。)

早速810号法廷の控え室で、報告が行われた。 遅れて到着し、入廷できなかった支援者も含め約40名ほどが集まった。 わが「ノーモア南京の会」も発言の機会を与えられ、 控訴審第2回公判以降の支援状況を説明し、我々にとって、 東京で行われる公判に多くの傍聴者を集め、 東さんを孤立させないことを念頭に置いて来たことを述べた。 判決にむけて更なる支援を約束した。 東さんは挨拶で支援者に対して深々と頭を下げ、何度も傍聴の礼を述べられた。 東さんの期待に応えるため更なる支援体制の強化を図りたいと思います。
                       (文責:芹沢 明男)

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