わたしの労働運動ものがたり













BiographyBiography

塩沢 美代子 Miyoko Shiyozawa  (1924年東京生まれ )

1944年 日本女子大学家政学部第三類(社会事業専攻)卒業
1946年 同大学社会福祉学科助手
1948年 東京YWCA体育専門学院終了
1949〜63年 全蚕糸労連書記
1966〜70年 大洋漁業労働組合書記
1983〜2000年 アジア女子労働者交流センター所長
1988〜95年 恵泉女学園大学教授



Video 民主の社会をめざして




Ⅰ 製糸業の組合オルグとして 


全国蚕糸労働組合連合会(全蚕糸労連)とは

1948年、蚕糸(製糸)業の最大手であった片倉工業労働組合のよびかけで結成された。1960年、蚕糸業の衰退にともなって、日本繊維産業労働組合連合会に改称。中小の紡績や織布、縫製などの組合づくりに乗り出す。一方、大手の紡績業の労働組合には、1946年に結成された全繊同盟があった。


「全蚕糸労連は、組合名簿のうえでは、製糸労働者総数の80%、組合費納入人員では約60%、実数にして約6万人を組織化した。組合の多い県には支部をつくり、女性の活動を促進する婦人懇談会を設置して、地道な活動が始まったのは、1949〜50年で、他の産業分野より3〜4年遅れていた。」(『語りつぎたいこと』p102より)

オルグ前史 私は生きている 00:00〜

終戦をむかえたとき
塩沢は20歳になっていた

勤労少女たちとの出会い 10:00〜

大学の助手をへて
塩沢が選んだ途は
YWCA体育専門学院への入学だった
卒業後は体育の仕事を
志すが・・・

賃上げから生活改善の要求へ 16:00〜

大学の先輩の紹介で
全蚕糸労連ではたらき始めた
塩沢の仕事は
工場ではたらく女性たちの悩みを
聞き出すことだった
「婦人懇談会」の活動は
活発化するのだが・・・

本当の労働組合とは 23:00〜

1951年 26歳の塩沢は
GHQに突然アメリカ研修を命じられる
労働省の労働組合課長
飼手眞吾の進言らしかった

1963:組合を去る 28:00〜

活発化した「婦人懇談会」は
地下活動になっていた
そのころ 繊維労連に加盟する
主要組合の脱退の動きがはじまる


「こういう仕事をしていると政治的な判断をする場面があるけど、私は自分の判断です。所属する党の判断や団体の意向ではなく、判断は自分でしたいという人間なので。どの活動にも偏見はもっていません。」(インタビューより)

 アジアの女性労働者と共に


アジアとの出会い 00:00〜

1973年塩沢は
シンガポールで開催された
ピープルズ・フォーラムに参加する
アジアキリスト教協議会からの誘いだった
これが塩沢とアジアとの出会いとなる

50歳にして英語を学ぶ 4:00〜

1976年 英語研修のため
香港に滞在する
すでに50歳を過ぎていたが
苦労はなかった

重大な使命で韓国へ 6:00〜

1976年夏
重大な使命を帯びて
韓国をはじめて訪問する
民主化闘争の活動家たちと
接触するためだった

夢のようなトンイル(東一)紡績労組 8:00〜

塩沢は韓国で
理想的な労働組合と出会う
女性が執行部をになう
トンイル紡績労組だ


同労組は1978年
弾圧からハンストに突入
そのようすを日本に伝えるため
吉岡泉のペンネームで
朝日ジャーナルに連載する

アジア女性委員会の発足 13:00〜

アジアの女子労働者の
人権を守るため
アジア女性委員会(CAW)が
1981年に発足
塩沢はそのグランドマザー
と呼ばれるようになる

アジア女子労働者交流センターの発足 16:00〜

日本での活動拠点として
塩沢は1983年
アジア女子労働者交流センター
を設立した

出身が負い目だった 19:00〜

塩沢の父親は
早稲田大学二代目総長
経済学者の塩沢昌貞である
父の死をきっかけに
自らの道を歩み出すことになる

民主の社会をめざして
2012年3月制作
Part 1編集:青野 恵美子
Part 2編集:山崎 精一
撮影:高須 裕彦



『語りつぎたいこと
 〜年少女子労働の現場から』
塩沢 美代子著(ドメス出版・2004年)




『続 語りつぎたいこと
 〜日本・アジアの片隅から』
塩沢 美代子著(ドメス出版・2010年)