一坪反戦通信 Vol.81 一坪反戦通信 84(1997.5.31)

軍用地を生活と生産の場に!
No. 84
1997年5月31日
東京都千代田区三崎町
2-2-13-502
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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック


◆本号の記事 ◆


 5月15日午前、強制使用の期限は切れた。かろうじて改悪特措法による「暫定使用」が始まった嘉手納基地・第1ゲート前に、基地内立ち入り・明け渡し要求デモの人々1000人が集まった。改府は不法占拠ではない、使用権原はある……という。

 では収用委員会での公開審理も申請した裁決もいらなくなったのか?なんのために起業者説明がおこなわれたのか?

 この日の六日前、収用委員会は別人と間違った一部使用申請に対して却下を裁決、「事務的ミス」とする起業者側の「補正」を認めなかった。一方、「返還」が決まった普天間基地の移転先・キャンプシュワブ沖では、5月26日から第二回(第一回は5月9日)の代替へリポート基地建設のための調査が始まった。地元・辺野古(へのこ)住民の「命を守る会」・五者協では監視を強化、調査の強行に強く反対。事務局長の比嘉盛順(せいじゅん)さんは「学者や専門家でも調査に五年は必要というのに、さっさと済まそうとしている。しかも梅雨の晴れ間を狙って」と怒っている。


 既に梅雨に入っているというのに、5月14日ー15日は晴れ上がった空の下で、軍用地明け渡しを求める県民集会、基地立ち入り要求の行動が行われた。関東ブロックからも十数人が参加し、現地で運動を担う人々とエールの交換を行った。そして集会発言者から次々と発せられる“真の民主主義を”“主体性を持とう”の声に強い共感を抱いた。二一世紀へ向けた平和のコールが響きわたった二日間だった。

青い空と海のように

主体性を明確にした沖縄集会

仲宗根京子(会員)

 1800人が参加して行われた。本来ならこの日に軍用地の使用期限が切れ、15日には堂々と嘉手納・普天間・楚辺通信所等への立ち入りができるはずだった。去る4月17日、国会は80%の賛成で米軍用地待借法の「改正」を行い、うむを言わせず米軍が使用できるようにした。この大政翼賛的暴政に対する怒りの声は、会場内外に響いた。

 会場周辺は開会の二時間前から、既に500〜600人の人だかり、熱気に包まれた。「人が集まるだろうか?」という事務局の心配は既に吹きとんでいた。それだけ地元の人々や、全国から駆けつけた支援の絆は強いということだ。

 主催は反戦地主会、一坪反戦地主会、基地・軍隊を許さない行動する女たちの会、市民・大学人の会の四者共闘。それぞれの代表が挨拶に立った。

 反戦地主会の会長・照屋秀伝は「特措法は中身を審議しないで改悪された。われわれは決してやられっぱなしではない。明日からは象のオリと同じように(国の)不法占拠が続くが、胸をはって自分の土地に入りたい。沖縄から、日本から基地をなくし、この国を変えよう!」と高らかに宣言した。

 一坪反戦地主会の代表世話人・新崎盛暉は「これまでの歴史の中で、日本の権力者が沖縄に追いつめられたということはなかった。沖縄に初めて闘う主体が形成された」と、政府に抗して闘う民衆の“主体”を強調した。

 行動する女たちの会を代表して、宜野湾市議会議員の石川吉子さんが挨拶に立ち、「国会への『直訴』のため超党派で『特措法を許さない女たちの会』を結成し上京した時、国の横暴さを感じた。子供たちの未来のために共に平和を築きたい」と訴えた。

 革新市町村会の新川秀清・沖縄市長は「いままで五兆円の“地域振興資金”が投じられて来た。しかし地域経済が自力で活性化していく状況につながっていない。基地経済への依存ではない、補助金だけをあてにするのではない方向を考えたい」とアピール。

 この日、結成されたばかりの、海上へリポートに反対する名護市民の会のメンバーも参加し、共同世話人の許田(きょだ)清香さんは「住民ひとりひとりが主体性を持とう。環境を破壊し、地域を破壊する基地のたらいまわしはやめてほしい」と訴えた。

 終わりに「本来なら自らの土地を踏みしめ、平和への新たな誓いをすべての心ある人々とともにかみしめるはずだった。(明日15日は)伊江島と嘉手納で土地の明け渡しと基地内立ち入りを求める行動を起こす」というアピールを採択し、ガンバロウ三唱で、今後の闘いへ向けた連帯を確認しあった。

たった2キロメートル先……

 この日沖縄は「本土復帰」25周年を迎えた。米軍用地特措法の改悪で、軍用地の暫定使用が始まっただが、反戦地主と一坪反戦地主は堂々と嘉手納飛行場への立ち入りを要求した。「復帰」前、ストライキや抗議行動がある時はMPがカービン銃を持ち、軍用犬を引き連れて警備をしていたけれど、今は機動隊が警備についている。沖縄人に沖縄人を弾圧させる構造は戦中と変わっていないように思えた。

 嘉手納基地・第1ゲート前は午前9時頃からぞくぞくと支援者が集まり、10時過ぎには約1000人の人波で埋まった。

 「われわれの土地を返せ!」とシュプレヒコールをあげて抗議。照屋さん(反戦地主会会長)は「距離はたった2キロメートルしかないけれど、そこまでの私の土地に入ることはできない。何百キロ、何千キロメートルの距離に感ずる。七歳まで私はこの基地の中にある土地で遊んで暮らした。ここに立つと、親や祖父母が育てた土地の温かさが伝わって来る。不法占拠は許せない」と語った。有銘さん(反戦地主)もフェンスの中のガジュマルの木を指さし、「あの老木は民家のあったあかしだ。ここには沖縄の人々の平和な暮らしがあった。ここをとり戻すまで闘う」と述べ、崎原さん(一坪反戦地主会代表世話人)は「特措法改悪で沖縄県民を痛めつけようとしてもわれわれは抵抗する。基地の強制使用と新設は認めない」と語った。

 在沖米四軍調整官・嘉手納基地司令官あてに軍用地の明け渡しを求める要請文を、平良さん(一坪反戦地主会代表世話人)が日英両文で読み上げた。ゲートに出てきた嘉手納基地・報道部の係官に照屋会長がこれを手渡そうとしたが「受けとる理由がない」と拒否、「防衛施設庁へ届けてくれ」という。この係官は沖縄人の女性だった。橋本・小沢の酒のみ会談で手打ちとなった事実上の特措法改悪は沖縄人同志をいがみあわせて政府はほくそえむという構造になってきている。

 わたしたちはもう補助金漬けの「ブロイラー」から、強い意思をもって脱却しなければならないのではないか。民衆の意識から離れた政府に、国を統治する資格はない。この思いをオキナワーヤマトを貫く闘いの実践の場で、平和を築きあげる闘いの糧としていきたい。

 集会後、軍指令部前の石平(イシンダ)まで六キロメートルをデモ行進した。ズケラン部隊前では沖縄のオバアたちが手を振って激励してくれた。「オバーターヨー、共に平和世(みるくゆ)創らなや−」と固く誓った。

◆ピース・ウォーク

 5月14日、沖縄市営運動公園広場でピースコンサートとピースウォークが行われた。この行動は駐韓米軍犯罪根絶行動本部やバヤン(新民族主義者同盟)などを中心とする韓国とフィリピンの反基地運動との連帯行動であり、同日韓国ではインチュン[仁川]・ペョンテック[平沢]・テーグ[大邱]の米軍基地を人間の鎖でとり囲んだ。

 この韓国と沖縄の連帯行動の直接的なきっかけは、韓国の人々が第一回公開審理傍聴のため来沖した際に、沖縄の人々と交流したことである。

 沖縄側のピース・コンサートでは、まよなかしんやさんや知念良吉さんたちがうたい、知花昌一さんも三絃(サンシン)を披露。またキャンプ・シュワブ沖への代替ヘリポート建設について「ヘリポートいらない名護市民の会」の安次富(あしとみ)さんから報告の他、韓国からの運帯メッセージが読み上げられた。その後参加者は嘉手納基地第2ゲートまでピース・ウォークを行った


日本復帰・日本再併合25周年

沖縄独立の可能性をめぐる激論会

 5月14日・15日の二日間、那覇市民会館で独立の可能性をめぐって激論会が開かれた。これは歌手の喜納昌吉さんらの呼びかけによるものである。

 一日目のテーマは「経済から見た沖縄独立」。まず第一部で宮城弘岩さん(沖縄県物産公社)、富川盛武さん(沖縄国際大学)、比嘉実さん(元法政大学沖縄文化研究所)から発言があった。

 宮城さんは「自ら飯を食べることができない限り文化的、政治的独立はない」とし、そのための方策を探っていくべきであると述べた。

 富川さんは、独立し日本からの補助金が打ち切られた場合、生産性は44%低下、雇用も57%低下すると指摘。独立は非常に難しいとの見解を示した。

 比嘉さんは、国民国家が解体していく現在、沖縄が国民国家として独立するのは疑問であるとし、「日本の中の異国、沖縄」を沖縄から主張していくべきであると述べた。

 これらの意見を聞いた後、司会者から参加者に対して、独立についてどのようなイメージを持っているのか、という質問があった。挙手の結果は「自立」80%、「孤立」5%、「その他」15%だった。「独立を希望するか?」という質問には70%の人がYESに挙手した。

 二日目の第一部は、「沖縄を取り巻く地域からの発言」。韓国の徐勝(ソスン)さん(立命館大学)、台湾から陳明忠さん(台湾地区政治受難者互助会)、アイヌからチカップ美恵子さん(アイヌ模様刺繍家)、奄美から徳田虎雄さん(徳洲会)、日本から国弘正雄さん(エジンバラ大学)が発言した。

 徐さんからは、沖縄は東アジアの歴史の対立の構造を克服していく上で重要な役割を担っていくべきだという意見、陳さんからは、沖縄は日本ではないのだから「日本復帰」という言い方はまちがっている、沖縄は台湾の独立派ではなく、(中国大陸との)統一左派と連帯していくべきだ、という意見が出された。

 チカップさんは「沖縄の人々はこれまで日本国内のマイノリティーを差別してこなかったか、今後はグローバルな視点をもって共に自立、独立について考えていきたい」と発言。徳田さんは経済問題にふれ、いざとなれば民族の知恵が出てきてどうにかなるものだ、と述べた。

 国弘さんからは「自分は恥多きヤマトウンチュとして沖縄の独立に関してどうこういえる立場にないが、自衛隊や機動隊が沖縄に派遣されるという非常事態になった場合、ヤマトの人間としてどう対応すべきかという覚悟はできている」との決意表明もあった。

 一日目、二日目それぞれの第二部の激論の部では、「タイトルの『沖縄再併合』という言い方は変だ」という意見から、「沖縄は日本ではないのだから、2015年を目標に独立すべきだ」という意見まで様々な人々がフロアから発言した。独立という前に、環境問題など身近な問題に目を向けるべきだという発言も多く、「海上ヘリポート建設阻止が独立への第一歩である」という発言には多くの拍手がおこった。

(照屋みどり=会員)


――投稿・沖縄を闘う仲間たち――

関西で市民・労組とのネツトワーク

 関西では1995年9月少女暴行事件以降大きくは二つの組織が生まれました。

 一つは、同じ年の11月に発足した「米兵の暴行糾弾!沖縄とともに基地撤去をめざす関西連絡会(略称・沖縄とともに関西連絡会)」です。

 関西でもこれまでも一坪反戦地主会(約350人)の活動や沖縄戦の問題・石垣島白保の海を守る運動がぢみちに続けられていました。そんな有志が呼びかけをし、350人の仲間が10月にデモをしました。それがきっかけです。沖縄と連帯する市民運動や労組の幅広いネットを作っていきたいという思いでした。

 もう一つは出身者の組織として出発した「『平和な島を』関西沖縄の会」です。県人会の有志やがじゆまるの会、そして0Bが呼びかけて関西に住む沖縄出身者の思いを結集して、同じ年の12月に発足しました。

 その両者の呼びかけで初めてもたれたのが翌3月、中之島中央公会堂の「ひびけ沖縄のこころ・関西のつどい」でした。ひさびさに3000人が御堂筋をデモしました。そして4月、沖縄からの代表団を迎えての7000人の集会が成功しました。

 今年に入り、特別立法の動きが強まる中、われわれは再度「ひびけ沖縄のこころ・関西のつどい」を準備。3月23日沖縄から反戦地主会・事務局長の池原秀明さん、知花昌一さん、高校生で昨年九・八県民投票高佼生実行委貫会代表の比嘉君、韓国から反米軍基地運動を代表して金容漢さん、大分・日出生台から幸田さんを迎えて、昨年と同じ中之島中央公会堂で2500人の熱気で成功しました。とくに在日韓国・朝鮮人が多い大阪で「韓国からの米軍基地撤去!」を叫んでデモしたのは初めてではないでしょうか。

 この集会を前後して特措法改悪の動きは急展開してきました。橋本・大田会談、米要人の訪日、法改悪の閣議決定と決定的局面を迎えました。4月に改悪反対の関西集会の準備に入ると共に、東京の国会前行動への参加呼びかけ、沖縄からの署名活動、4月6日は大阪駅・京橋・天王寺・大阪城公園・難波・尼崎など主要夕−ミナルヘ繰出し、大宣伝活動を展開しました。

 4月18日、反戦地主会を迎えての集会の準備をしながら、17日には東京へ結集しました。わたしは偶然にも参議院本会議の傍聴ができましたが、その腹だたしい内容については音さんよくご存じなのでここでは申し上げません。やり場のない挫析感・失望感がなかったといえばうそになるでしょうが、まさに抗議集会になりました。

 大阪剣先公園に駆けつけていただいた反戦地主の皆さんは11人、総勢2500人の行動でした。デモコースに自民党大阪府本部の事務所があり、日本政府への怒りをぶつけました。

 私は昨日沖縄から帰ってきたばかりです。関西から70人のツァー団で、沖縄をはじめ全国の仲間と再会することができました。思いは皆同じです。ここで引き下がるわけにはいきません。

 関西では16日、「思いやり予算」違憲訴訟も提訴されました。原告は296人です。大阪では毎日新聞の第一面トップで報道されました。米軍による交通事故で息子をなくした海老原さんの裁判も続いています。

 せっかく関西で生まれた市民運動と労働組合、沖縄出身者の連帯とネットワークにの成果を発展させ、今後の運動にがんばっていきたいと思います。経過報告ばかりで中身のないものになってしまいましたが、関西の運動の状況を少しは報告できたかと思います。

沖縄とともに関西連絡会事務局・服部


5・10講演集会

衆議院決議を講師が批判

 改悪特措法の適用に抗議して期限切れ基地への立ち入り・明け渡し要求行動が刻々と迫る5月10日、関東ブロックは新崎盛暉さん(一坪反戦地主会代表世話人)を招いて講演集会を全水道会館で開催、14日−15日への「決意」を固めあった。参加者は250人だった。

 講師の新崎盛暉さんは「日本の政治が沖縄を踏みつぶす」ような特措法改悪の結果、「ある種の沖縄独立論的な雰囲気みたいなものも高まっている」と述べた。ただしその独立論は「情緒的というか心情的な問題としてとらえてしまう」のでは「発展性は全然なくなってしまう」と注意を喚起。

 また、特措法改悪時の衆議院での付帯決議について厳しく批判、SACOそのものを沖縄の多数は認めていないと強烈パンチ。罪ほろぼしのつもりか「沖縄県の過去の歴史と伝統的な特性を維持しつつも」などとしている件りも論外だと一蹴した。

 さらに5月9日の収用委員会による一部却下裁決について、那覇防衛施設局の「誤認」について、「事務的ミス」どころではなく「誤認」された人は死亡したあとに登記されており、起業者・那覇防衛施設局は初めから別人と知っていた可能性すらあると述べた。


東京の5・15闘争に500人

 去る5月14日夜、期限切れの土地の「暫定使用」開始に抗議して関東ブロックは、みるくの会・命どう宝ネットワークなどと、首相官邸・米大使館・防衛施設庁への要請・抗議行動を行った(参加者は約70人)。

 翌15日、嘉手納基地の第一ゲート前の基地内立ち入り・明け渡し要求行動に呼応して、東京でも関東ブロックのよびかけで5・15集会とデモが行われた(参加者は約500人)。またこれに先だって関東ブロックでは、同日午後2時から防衛施設庁への抗議申し入れを行った。施設庁は関東ブロックの抗議に対して、「暫定使用といえども使用権原を得たものだ」とか「SACO報告により590へクタールも返還する。『かなり』の返還だ」などと回答したため、激しい抗議の声を浴びた。


一部却下の裁決について

 期限切れ前の12施設について審理中の収用委員会は去る5月9日、「登記簿殺人」が発生した土地についての那覇防衛施設局の強制使用申請を却下する裁決をくだした。これによって政府・那覇防衛施設局による「別人」のためと称する補正(=取り消し)は認められなかったことになる。

 この裁決は、まず第一に起業者側のずさんな申請が原因。補正すればよいというのであれば、実は国・那覇防衛施設局側自らがずさんな申請であることを認めたということだ。

 また今回の裁決は、過大な評価はできないにしても収用委員会が実質審理をしようとする姿勢をもっていることを示している。たとえ「補正」されようとも、審理の対象にすらならないとして、収用委員会は裁決申請を却下したのである。

 われわれの正義の闘いの成果といってよいと思われる。政府は改悪特措法の新設条項によって建設大臣に審査請求するであろうが、92年の裁決に対する私たち一坪反戦地主による審査請求の結論を出さないうちに決定を出すことはありえない。今後も粘り強い闘いを続けよう。


沖縄から

醜い日本国から沖縄を守らねば

平良修(日本キリスト教団・佐敷教会)

 「日本人は醜い――沖縄に関して、私はこう断言することができる」。大田昌秀氏(現沖縄県知事)の著書『醜い日本人』の冒頭の言葉です。大田さんは、今回の米軍用地特措法の改悪によって、自分の日本人観に誤りはなかったと確信させられたのではないでしょうか?

 1879年の琉球処分からこのかた、沖縄が日本国家権力によって差別的処分を受けなかった日は、一日とてありません。日本政府による沖縄統治の基本は、戦前・戦中・戦後を通して事実なほどに一貫しています。それは国益のための犠牲の強要です。根本的な変革を起こさない限り、それは将来にわたって続きます。なぜなら、それは沖縄に対する日本の体質から来ているからです。

 最高裁は、米軍用地強制使用に反対して署名捺印代行を拒否した大田知事の主張を退け、代行を命じました。司法府による琉球処分です。米軍用地特措法改悪は、衆議院で90%,参議院で80%という圧倒的多数の国会議員の賛成によるものでした。立法府による琉球処分です。

 日本国三権のすべてが、結束して、琉球処分を敢行しました。琉球は、沖縄は、そして、私は、日本国によって、またもや処分されました。良心の痛みを覚えるのか(そうであるはずはない)、沖縄の反乱をおそれてか(おそらくそうだろう)、衆議院は「沖縄のこころをこころとして厳しく受け止め、沖縄問題解決へ向けて最大限の努力を払う」との沖縄決議をするといいます。もう遅過ぎます。沖縄のこころは日本から離れました。沖縄のこころを国会のこころとして欲しかったあのとき、それを良しとしなかった連中が今さらなにを言おうとも、私は信用しません。

 「平良さんも国会へ行ったのですか」と問われて、私は答えました。「いいえ沖縄を日本から守るために私は沖縄に留まりました」と。沖縄を、醜い日本国から守らねばなりません。私は、これまで以上に真剣に、「沖縄の独立」を考えようと、ほぞを固めています。

  1997年4月22日


新しい本の紹介


 4・17東京集会で沖縄・女性代表として発言した基地・軍隊を許さない行動する女たちの会の桑江テル子さんの訴え

沖縄から

悔いを残すことのない闘いを

桑江テル子  

 この国の政府は、誰がためにある。

 −この国の政府は、アメリカの出先機関としてある。

 −大和の国は今なお沖縄を搾取している。

 −この国の民主主義が危ない、憲法が危ない。

 占領から52年、復帰25年。

 奪った土地をいいかげん返してくれ。

 破壊と殺しのためでなく、生産と生活、生きるために使いたいのだ。

 はじめはアメリカが『ノー』と言った。

 いまは母であり、父である日本が『ダメ』と言う。

 誰に言えば返してくれるのだろう。

 日本国憲法はわれらが魂。主権在民、法の下の平等、戦争放棄、財産権、平和的生存権。でもそれは、安保の前では萎縮し無力となり、精神を失い、影となる。だから沖縄では常に憲法が殺されてしまう。

 虫ケラのように殺された由美子ちゃん、隆子ちゃん、国場君、キャンさん、伊芸さん、屋富祖さん……。

 人間の尊厳をふみにじられたA子ちゃん。そして数知れない人々よ。申しわけありません。「基地のない平和な島」ヘの私たちの決意は固いのですが、米軍は、いまだうるま島・沖縄に居座り、それを日本政府が手厚くもてなしているのです。

 平和を愛する日本中の人々が、いま人間として立ち上がる時が来た。

 実は「米軍用地特措法」そのものが違憲なのだ。違憲の法律をさらにもっと悪質にすることを、多数で即決してはばからない政治とは一体、何なんだ!

 やはり諸悪の根源は安保だ!

 沖縄問題を日本問題にし、怒りを力に変え、この国のあり方を変えよう。決してあきらめずに。10年でも20年でも、目標に向かって悔いを残さない闘いを全国でやろう。この目の黒いうちに、沖縄を平和な島にしたい。

 

■由美子ちゃん=1955年9月3日、永山由美子ちゃん(当時六歳)が、嘉手納基地高射砲大隊所属の米兵に拉致、強姦された上、殺された(石川市)。米軍当局は死刑宣告したが、本国送還となりうやむやになつた。

■隆子ちゃん=1965年6月11日、読谷村で米軍機の降下演習中、小型トレーラーが落下、当時二歳の棚原隆子ちやんが圧死した。

■国場君=1963年2月28日、青信号で横断歩道を横断中のの国場秀夫君が信号無視の米軍車にひき殺された。当の米兵(20歳)は「太陽の光で信号が見えなかった」と証言し、軍法会議では無罪判決。

■キヤンさん=米兵によつて殺害された。

■伊芸さん=米兵に殺客されたタクシーの運転手。

■屋富祖さん=薬莢(やっきょう)を拾っているところを米兵に射撃され、死亡した。

■A子ちやん=1995年9月4日、三人の米兵によつて拉致、強姦された。


◆緊急カンパ、ありがとう

 特措法改正に名を借りた特別立法の国会上程を阻止せんと、2月末から関東ブロックの呼びかけによる「沖縄緊急行動」が開始されました。たくさんの個人・団体のみなさんとともに、国会の内から外から、請願デモ・議員面会所連続集会・リレーハンスト・ハンカチで国会片面包囲(?)などなど、考えられる限りの行動を展開、国会を焦点とした活動は関東ブロックとしても目新しく、得がたい経験と教訓を重ねることができました。

 これらの活動の中心となって動くメンバーを支えるためにお願いした本緊急カンパにたくさんの方々が答えて下さいました。関東ブロックとしてこの重要な役割をみごとに支えていただいたことを感謝し、ここに報告させていただきます。

◆不当逮捕救援カンパもよろしく

 4月17日、日本の国会は安保優先を振りかざし、52年にわたる土地取り上げを更に確実にする特措法「改正案」を通過させました。わずか10日間の実のない審議と圧倒的な数の力をもって。知花昌一さんは「政府の責任でこの事態を招いたのに賛成討論はそれを追及せず沖縄のせいにしました。そして反対討論に対しては笑いながらヤジをとばしている。こんな議員が沖縄の将来を決めるのかと思ったとき、『土地泥棒』と叫ばざるを得ませんでした。」と釈放直後の記者会見でのべています。照屋秀伝さんも「沖縄の心がわかるような審議を期待していたが、中身の論議はほとんどなかった。私たちの土地がずっと取り上げられている現実から声をあげようと東京に出てきた。僕は手錠なんかはじめてだったから、とてもショックだった。何で現行犯逮捕かと怒りより疑問をもった。」と語っています。あまりにも当然の行為に検察は二日後に知花・照屋さんを含む15名を、5月9日には6名を、すべて釈放せざるを得ませんでした。

 思いがけない反戦地主の逮捕−拘束のため、代表団のメンバーが急拠対応にあたり、費用がかさみました。再度のお願いで心苦しく思いますが、よろしくお願い致します。既に寄せられた方々には心よりお礼申し上げます。


 特措法改悪阻止のため4月17日に国会へやってきた120人の沖縄からのメンバーから、ヤマトの心ある人々との連帯が深まった、として次のようなお礼のメッセージが届いた。

沖縄県軍用地違憲訴訟支緩県民共闘会議
議長 有銘政夫  

権利と財産を守る軍用地主会(反戦地主会)
会長 照屋秀伝  

御礼

 桜の便りも過ぎ、季節は夏へと向かって突き進んでいます。貴台には益々御清洋のこととお慶び申し上げます。

 去る4月17日の米軍用地収用特措法改悪阻止へ向けた、国会における請願・傍聴、議員会館前での座り込みおよび晩の「沖縄は告発する!米軍用地収用特措法改悪を許さない東京集会」、さらには照屋秀伝反戦地主会会長を筆頭に21名の不当逮捕に対する迅速な対応等、格段のご配慮とご協力をいただきまして、哀心より感謝申し上げます。

 貴台を初め、多くの支援の方々の支えがあったにも拘わらず、私たち国会行動団は米軍用地特措法改悪を許さないという、当初の目的を達成することは出来ませんでしたが、今回の行動を通して改めて全国の『心ある人々』との連帯が築かれたことは、今後の闘いに大きな財産を残したと思います。

 今回の国会審議を通して、平和憲法の上に日米安保条約が君臨するという実態がより鮮明となり、そのような中でほとんどの議員が米軍用地特措法改悪案の持つ極めて危険な内容と進行する大政翼賛的な政治状況について、何ら省みることなく、審議する前から賛成を表明するなど怒りを通り越して情けなくなる程でした。

 しかし、国会が如何に多数決によって沖縄に米軍基地を押しつけようとしても圧倒的多くの国民は私たちの闘いに対し、支持と支援の声を上げており、どちらが追いつめられているかは明らかです。

 私たちは今後とも「戦争のためには一坪たりとも土地は貸さない」という基本姿勢に立ち、強制使用反対の闘いを継続する決意であります。

 今回のご協力に深く感謝し、お礼を申し上げると同時に、今後ともご指導、ご鞭撻と闘いへのご理解とご協力をお願い申し上げます。

    1997年4月30日


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