米軍用地強制使用裁決申請事件

同  明渡裁決申請事件

  意見書(三)


 [目次


第一一 陸軍貯油施設

一 施設の概要

 陸軍貯油施設は、金武湾の天願桟橋沖合の送油ポイントとホワイトビーチで陸揚げされた石油類を貯蔵するタンクから、この石油類を適宜配給するためのパイプラインと、送油された石油類を貯蔵する貯蔵タンク、油圧をあげるブースターからなっている。

 貯蔵タンク群は、金武第1、第2、第3タンクファーム、桑江第1、第2タンクファームで、ブースター基地は、天願ブースターステーション、桑江ブースターステーションとなっている。その面積は、一九八八年三月末で一三六万七〇〇〇平方メートルにもなる(北谷町史六巻五三〇頁)。

 パイプラインはかつて、那覇港湾施設から嘉手納飛行場に至る北上ラインと、天願桟橋から嘉手納飛行場及び普天間飛行場に至る南下ラインが存在していたが、北上ラインは八五年から九〇年にかけて移設あるいは撤去され、南下ラインについても、かなりの部分が嘉手納飛行場や嘉手納弾薬庫地区に移設され、普天間飛行場と嘉手納弾薬庫地区に送油するラインが残っている。

 このシスティムの一部を構成しているのが、北谷町砂辺から嘉手納町へかけてほぼ三角の形状をなしている、本件のタンク集合区域である。

 この砂辺の陸軍貯油施設は、国道五八号線沿いのあたり、差久原と海岸線沿いの兼久原にまたがる土地にある。この土地は、別称「砂辺ヌ浜」という美しい砂浜で知られていたというが、その風光明媚の土地が、基地として利用されている(北谷町史三巻二九七頁)。

二 施設形成(強奪)の歴史

 この基地は、一九四五年四月一日の米軍の進攻・上陸以来、米軍の占領下にあった。

 米軍上陸が迫った一九四五年二月一〇日、疎開決定がなされた。北谷村の疎開指定地は羽地村(現名護市内)であったが 受け入れ態勢の不備等で疎開は進捗せず、砂辺でも多数の村民が残るなか、三月下旬から空襲、艦砲射撃が始まった。二八日頃の夜九、一〇時ころ、軍から、米軍の上陸必至とのことで避難命令がでたという。実際、四月一日には、砂辺の海岸は、猛攻のうえ米軍の九十六連隊が上陸、村は跡形もなく破壊された。

 多数の村民が北方の山原方面へ避難したが、一部の村民は軍と共にするほうが安全と考え、南へ避難した。南へ避難した者の運命については周知のとおりで、誠に悲惨なことであった。

 北方へ避難したものも悲惨であった。四月四、五日頃から羽地村も戦火にまみれることとなった。同村の北谷村役場分所も全く機能を停止し、村民は山原の山中へ逃げ込んだ。不潔不衛生からくる病気、特にマラリア、食料不足による栄養失調など、これも周知のところである。

 土地所有者一家は北に逃れた。それで一命はとりとめたが、戦争が終っても、故郷の砂辺には容易に帰ることができなかった。

 一九四五年一〇月三〇日から避難民の帰村が開始されたが、北谷村は米軍使用地となっていたため、第一陣の帰村には入らなかった。北谷村に移動許可がでたのは、実に翌一九四六年一〇月二二日のことである。但し、帰って居住できる指定地は、これまで人の住まなかった桃原の山中など現沖縄市にも跨がる土地で、砂辺の住民は、砂辺へ帰ることはできなかった。土地所有者一家は、占領前、今の陸軍貯油施設の差久原の土地内で耕作をしており、村内原に住んでいた。これまで住処のあった村内原も兵舎等の軍用地として利用されており、差久原もそのころから貯油施設となっていた(以上、北谷町史六巻及び北谷町戦時体験記録集)。

 この砂辺の陸軍貯油施設の土地は、戦後の当初から、住民から有無をいわさぬ形で取り上げられ、その意思にかかわらず今日まで占拠されつづけ、軍用地とされている。土地所有者の本件申請地である差久原の畑がその一部である。

 ここでは、そうした既成事実としてなされた強制的な占拠のうえに、これまで土地の使用の契約等が押しつけられてきたものである。

三 現状

 砂辺の住民に北谷町への帰還が許された頃から、この差久原、兼久原の土地は既に燃料タンクの集積地であった。当初は、盛土のような上に円筒形のタンクが設けられていたというが、今は、タンクが土で覆われている。

四 環境汚染事故

 パイプラインからの環境汚染事故も、移設、撤去されたラインについてのものも含めると、浦添市、宜野湾市、那覇市、具志川市、北谷町等でその発生が多数報告されている。

 砂辺の陸軍貯油施設でも、ガソリンの流出も懸念というだけでなく、実際に一九五〇年代の後半頃、パイプからガソリンが流れだしていたのを住民が目撃している。現在の砂辺の陸軍貯油施設の南側付近の海岸寄りのパイプから、グリーン色のガソリンが流れ出ていた。グリーン色のガソリンは航空機燃料であるという。当時は占領下で、住民たちはどうすることもできなかったという。別に、瑞慶覧などからとみられる油漏れも何回もあり、土地の漁業協同組合では、海岸などを始終見回っているという。

 このように、住民の不安と環境への悪影響などをともなう使用は、米軍用地特措法三条に定める土地の適正且つ合理的な使用とは言えない。

五 遺跡の存在

 なお、一九八〇年、工事の際に砂辺サーク原貝塚が発見された。このあたりから嘉手納町へ至るあたりは、とりわけ遺跡の多い土地といわれている。

 また、施設の南側の共用道路に沿って、街灯工事の予定でトレンチ堀の試掘がなされたところ遺物が発見され、一九八五年の調査で、これがグスク時代の砂辺サーク原遺跡とされている(L一号証・北谷町史第三巻、五三二頁以下)。こうした、遺跡が多い土地の適正かつ合理的な使用が軍事基地としての使用とは、到底言うことができないと考える。

六 土地使用の実態からみた違法性

 また、陸軍貯油施設の本件土地調書概略図番号1、2、6、8等の土地上には、いずれも貯油タンクそのものは存在しないようである。また、同番号1、2等の土地は黙認耕作地ともなっている。防衛施設庁の申請理由説明によれば、これらの土地は貯油タンク用地として使用するということである。しかし、これらの土地に貯油タンクが存在せず、かえって耕作地が存在するということは、特措法三条の必要性の要件をも満たしていない違法な使用である。

 ちなみに、本件貯油施設は、わが国の消防法上の地下タンク貯蔵所に該当すると考えられる。地下タンク貯蔵所は、その構造、設備について厳しい基準が設けられている反面、屋外タンク貯蔵所等と異なり、危険物の規制に関する政令第一三条は、地下タンクと貯蔵所敷地境界の間に空地をおくべき定めを設けていない。貯油タンクを設けるに必要な土地以外の土地については、米軍用地特措法第三条に規定する使用の必要性も適正かつ合理性もないものと言わねばならない。

 ところで、土地調書の概略図では、駐留軍の用地として必要とされる字砂辺差久原八八九番三の土地は、国道五八号線に接しているようにみる。しかし、公図をみると、沖縄開発庁管理地(国道)の枝番二との間に枝番一の土地がある。付近の他の土地は、基地の土地が国道と接しているようであるが、この枝番三の土地は、枝番一の長方形の土地を挟んで、一直線である国道の西側の線から後退している(L二号証・公図)。

 その土地所有者の話によれば、もとはこの枝番一と三の土地は枝番一の一筆であったが、一九八一年(昭和五六年)九月、当局の手で分筆され、枝番一と三の二筆となった(L三号証ないし五号証・土地登記簿謄本)。その土地所有者は、一九七九年(昭和五四年)二月父親を亡くし、その初七日に、防衛施設局から契約を求めて玄関先まで来訪があったという。断ったのに、四十九日も過ぎぬ間にまた来た。まだなにも手をつけていないのに契約などと言われたので、土地所有者は契約を拒否したという。分筆はその後のことである。分筆後に、契約をするかどうかの話し合いがもたれ、そのなかで分筆をもとに戻すということで話がつき、契約する方向となったのに、防衛施設局の上のほうから断ってきたので、契約を拒否したままになっている、とのことである。

 そこで、普通は、国道の土地と基地の土地との境は、直線状につながっているようであるが、同番三の本件申請地だけが、同番一の長方形の土地を挟んで後退している。思うに、他の土地は国道に接するところまで必要であるのに、ここだけは、不連続に国道までの土地が不必要で、その部分が不自然に長方形の形を残して後退しているというのはどういうことか。全く理解ができない。これをみるに、駐留軍の用に供する必要とは、かなり恣意的なように見える。

 これは、土地の必要な部分の曖昧さを象徴的に示している。つまり、厳密に必要な土地部分は明らかでなく、本件申請地のどこまでが本当に必要な区域か、定かでないのである。

 米軍用地特措法が準用する土地収用法第四八条一項一号は、土地収用委員会は期間等と共に区域を裁決することとされている。本件において防衛施設局長は、必要な区域を具体的に証明しないが、このような場合、必要な区域は厳格に判断して裁決されるべきであろう。

 それ以前に、必要性についてまったく証明のない本件のような場合は、米軍用地特措法第三条の要件が備わらないものとして、本件裁決申請を却下されるべきである。

七 使用目的からみた違法性

  沖縄の陸軍貯油施設は太平洋軍の第九軍団、第一〇地域支援群の第五〇五品質管理大隊が管理している。第一〇地域支援群は沖縄のすべての陸軍部隊の日常的な後方支援に責任を負い、各種物資の保管、補給、修理などの役割を果たしているとされる。有事には兵站基地機能を果たし、司令部はトリイ通信施設内にあるという。しかし、陸軍貯油施設のシスティムで扱われている石油類は、陸軍のみの用に供されているのではなく、米四軍全部の用に供するものであり、すべての航空機、軍艦に燃料を供給するものである。これまでの米軍の海外での戦闘行為に、陸軍貯油施設が直接間接に寄与してきたはずであろう。最近でも、昨年一一月に米軍の対イラク作戦で、米国本土から急派されたB52戦略爆撃機に沖縄の空中給油機が給油したと、同月二八日に米空軍が発表しているところ、この燃料が陸軍貯油施設を含むシスティムから供給されていることは疑いないところであろう。この対イラク作戦は、日本国憲法の禁ずる武力による威嚇であり、これを支援することは日本国憲法が許しているはずのないものであり、これが日本の自衛とさえ全く関係がないものである。陸軍貯油施設のこのような使用は、紛れもない違憲の使用である。

 また、このような使用は、既に総論部分で述べられているように、日米安保条約第六条及び米軍用地特措法第一条の駐留目的を逸脱する違法なものであるから、同法第三条の必要性も、適正かつ合理性のいずれの要件も、備えていない。

八 結論

 こうした違憲、違法な使用を許すような裁決はなされるべきでないことは明らかであるから、本件裁決申請は却下されるべきである。

九 土地評価の方法について

 ところで、土地所有者は、本件土地が返還されたときには、これを宅地として使用する意思である。本件土地は、畑地の状態で米軍の占有するところとなった。ところで、北谷町は米軍基地にその発展を妨害され、僻地であった山中へ市街地がのびていったものであるが、本来基地がなかったとすれば、嘉手納町と分断されることもなかったし、国道に、海岸に沿い、本件土地のある平地へと発展していったはずである。その意味では、本件土地が現在でも畑地としての評価がなされているのは不当なものと考える。


出典:反戦地主弁護団、テキスト化は仲田。


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