Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

今日のイスラエルのユダヤ人のなかには「ポスト・シオニズム」について率直に語る人々もいる。イスラエルの50年の歴史を経て、古典的なシオニズムはパレスチナ人の存在を解決することも、ユダヤ人だけが存在する状態をもたらすこともなかった。 いまや、この土地を共有することについて語りはじめる以外に道はないと思う。わたしたちを無理やり一緒にしたこの土地で、すべての市民が平等の権利を持つ、真に民主的な方法で、共存することについて。 両方の民、2つの受難の共同体が、両者の存在は永続的な事実であり、ありのままにそれを受け止めて対処しなければならないと決意しない限り、和解はありえない。

これはユダヤ人がユダヤ的な生き方をすることを制限するものではないし、パレスチナのアラブ人が彼らの願望や政治的な存在を放棄することを意味するものでもない。 それどころか、これは両方の民が主権を持つことを意味する。 けれどもそれは、一つの民が他方の民を犠牲にするような特権を弱め、減少させ、最終的には断念することに同意することを意味する。 ユダヤ人のための帰還法と、パレスチナ難民の帰還権とは十分に検討され、一緒に調整されなければならない。 神から与えられたユダヤの民の土地としての「大イスラエル」の観念も、パレスチナはアラブ人の土地であり、アラブの本拠地から引き離すことはできないという観念も、ともに規模や排他性を縮小させる必要がある。


真実と和解
Truth and Reconciliation
Al Ahram Weekly 1999年1月14〜20日

ワイ合意をめぐってネタニヤフ政府が崩壊した今、1993年のオスロ合意を起点とする和平プロセスがほんとうにパレスチナ人とイスラエル人のあいだに和平をもたらすものなのかどうかを問うべき時がきた。 シオニズムとパレスチナの民のあいだの百年戦争が終結するには真の和解が不可欠なのだが、和平プロセスはそれが起こるのを妨げているというのがわたしの意見だ。 オスロ合意は分離のための基礎を整えた。だが真の平和が実現できるのは、イスラエルとパレスチナのバイナショナル国家だけだ。

それを想像するのは容易ではない。 シオニスト-イスラエルの公式ナラティヴとパレスチナのそれとは折り合いがつかない。 イスラエル人は解放戦争によって独立を達成したと語るし、パレスチナ人は自分たちの社会が破壊され、住民の大部分が立ち退かされたと言う。 実際この融和しがたい矛盾は、数世代にわたる初期シオニズムの指導者や思索家のあいだでも、またもちろんすべてのパレスチナ人にとっても、すでに明らかであった。

「シオニズムはパレスチナのアラブ人の存在から目をそらしていたわけではなかった」とイスラエルの著名な歴史家ゼエヴ・スターンヘルは最近の著作『イスラエルの建国神話』に書いている。 「この国を一度も訪問したことのなかったシオニストたちでさえ、そこが無人の土地ではないことを知っていた。 同時に、国外のシオニズム運動も、ここに移住しはじめた開拓者たちも、パレスチナ人の民族運動に対する方針をまとめることができなかった。 その真の理由は、問題の理解が不足していたためではなく、パレスチナ人とシオニストの基本的な目標のあいだに乗りこえられない矛盾があることを、はっきり認識していたからに他ならない。 シオニズムの知識人や指導者がこのアラブ・ジレンマを無視したとすれば、それは問題の解決がシオニズムの思考方式の中に存在しないことを自覚していたからだ」。

ダヴィッド・ベングリオンなどは、つねにはっきりしていた。 「歴史のどこをみても、ある民が自分たちの国を放棄し、よそから来た別の民が数で自分たちを上回るのを許すことに同意した例はない」と、彼は1944年に述べている。 もう1人のシオニスト指導者ベルル・カッツネルソンも、シオニストの目標とパレスチナ人の目標の対立が克服できるという幻想は持っていなかった。 マルティン・ブーバー、ユダ・マグネス、ハンナ・アーレントのようなバイナショナリストたちも、もし衝突が実現したならば(事実そうなったように)どんなことになるかを十分に承知していた。

ユダヤ人よりも数でずっと勝っていたパレスチナのアラブ人たちは、1917年のバルフォア宣言と英国委任統治の時期に、自分たちの優勢を弱めるようなものはすべて拒絶した。 1947年に分割を受け入れなかったことに対して、パレスチナ人を後から振り返って非難するのは不当なことだ。1948年までは、ユダヤ人が所有していたのは領土の7パーセント程度でしかなかったのだ。 パレスチナの分割決議が国連に提案されたとき、アラブ人は、どうして我々がパレスチナの55パーセントもの土地を少数派のユダヤ人に譲らなければならないのか、と主張した。 バルフォア宣言も委任統治当局も、パレスチナ人は市民的や宗教的な権利と並んでパレスチナにおける政治的な権利も持っているということをはっきり認めたことは一度もなかった。 従って、ユダヤ人とアラブ人の不平等という考えは、英国の、また後にはイスラエルと合衆国の政策の中に、はじめから組み込まれていたのだ。

この対立は、解決の困難なものだ。同じ一つの土地をめぐって、二つの民がそれぞれ自分たちの側に正当な所有権があると信じ、相手側がそのうち諦めて立ち去ってくれることを願いつつ、争っているからだ。 一方が戦争に勝ち、他方が負けた。だが、争いはすこしも終わっていない。 わたしたちパレスチナ人は、ワルシャワやニューヨークで生まれたユダヤ人がこの地に住みつく権利を持っている(イスラエルの帰還法によれば)のに、わたしたちのように何世紀もここに住んできた民がなぜそれを許されないのかと尋ねる。 1967年以降、わたしたちの対立は激化した。 何年もの軍事占領が、劣勢な側の人々に怒りと屈辱、敵意を植えつけた。

オスロ体制は、状況を変えるためにほとんど何もしなかった。 アラファトと減りゆく彼の支持者たちはイスラエルのセキュリティの執行者に変わり、パレスチナ人たちは西岸地区の10パーセントとガザの60パーセントを構成するばらばらに切り離されたおぞましい「ホームランド」の屈辱をしのばされている。 オスロはわたしたちに自分たちの喪失の歴史を忘れることを要求した。わたしたちから奪ったのは、過去を忘れぬことの重要性をみなに教えてきた、まさにその民なのだ。 わたしたちは犠牲者の犠牲者、難民による難民だ。

イスラエルという国の存在理由は、ユダヤ人だけの別個の国、避難所がなければならないというのがもっぱらだっだ。 オスロ自体も、イツハク・ラビンが倦むことなく繰り返したように、ユダヤ人と他者の分離という原則に基づいていた。 過去50年のあいだに、特に1967年にはじめて占領地にイスラエルの入植地ができてからは、ユダヤ人の生活はますます非ユダヤ人の生活と絡み合うようになっている。

分離しようという努力と同時に進行しているのは、ますます多くの土地を取り上げようという逆説的な努力だ。それによってイスラエルはますます多くのパレスチナ人を取り込むことになるからだ。 イスラエル本土では、パレスチナ人はおよそ百万人、ほぼ人口の20パーセントに達する。 ガザ、東エルサレム、西岸地区(ここには入植地がもっとも密集している)には、250万人近いパレスチナ人がいる。 イスラエルは、パレスチナ人の町と村を迂回して、アラブ人を避けて入植地をつなぐ「バイパス」道路のシステムをつくっている。 だが歴史的なパレスチナの土地面積はとても小さく、イスラエル人とパレスチナ人はその不平等と敵意にもかかわらず密接に絡みあっており、きっぱり分かれることなどありえないし、続きもしない──それは無理というものだ。 人口統計的には、2010年までにパレスチナ人とイスラエル人は拮抗すると予想されている。 そのときにはどうなるのだろう。

イスラエルのユダヤ人に特権を与えるシステムは、完全に同質なユダヤ国家を望む人々も、ユダヤ国家の非ユダヤ系住民たちも、ともに満足させないだろう。 前者にとっては、パレスチナ人はどうにかして処理しなければならない邪魔者だ。後者にとっては、ユダヤ的な政治形体の中でパレスチナ人であることは永遠に劣等な地位に苛立つことを意味する。 けれどもイスラエルのパレスチナ人は移動したくはない──自分たちはすでに自分の国にいるのだと彼等は言い、分離したパレスチナ国家ができたとしても、そこに参加するという話は断るだろう。 一方、アラファトに押し付けられた貧窮させる条件は、彼がガザと西岸地区の政治意識の高い住民を服従させることを難しくしている。 ここのパレスチナ人は自決権を望んでおり、その希求は、イスラエルの目算に反して、いっこうに萎んでいく気配はない。 同時にまた明らかなのは、アラブの一員として− イスラエルとエジプト、イスラエルとヨルダンのあいだに結ばれた、がっかりするような冷たい講和条約を考えれば、この事実は重要だ − パレスチナ人は周囲のアラブ・イスラム世界の一員としてのアラブ・アイデンティティを、どんな犠牲を払っても失ないたくないと思っている。

それにもかかわらず、問題は、パレスチナ人が主権を持つ別個の国家はうまくいかないだろうし、人口配置的に混合し、不可逆的に結びついている主権のないアラブ系住民を、一緒に住むユダヤ系住民から分離しようという原則も、実行不可能だということだ。 問題は、彼らを切り離すということに固執して、そのための手段を考案することではなく、彼らが極力公正かつ平和なかたちで共に生きることが可能かどうかであるはずだ。

いま存在しているのは、落胆させるような、忌まわしいほどの袋小路だ。 シオニスト(イスラエルの中の者も外の者も)が独立したユダヤ国家への欲望を断念することはないだろう。パレスチナ人も同じものを自分たちのために欲しいと思っているが、オスロ以来それに遠く及ばないようなものを受け入れてしまった。 どちらの場合も、「自分たちだけ」の国家という考えは、事実を無視したものだ──1948年のような民族浄化や「大量移送」という手段を除いては、イスラエルがパレスチナ人を追い払うことはできないし、パレスチナ人が願をかけてイスラエル人を消すこともできない。 どちらの側も相手方に対して有効な軍事手段をもっているわけではない。残念ながら、これこそが両者が和平の道を選択し、戦争ではなしえなかったことを達成しようとしている理由なのだ。

イスラエル人が入植し、パレスチナ人は閉じ込められ、抵抗するという現在のパターンが長引けば長引くほど、真のセキュリティを手に入れることは、どちらの側にもますます難しくなる。 ネタニヤフが、彼の要求にパレスチナ人が従うという形でしか表現されないセキュリティにとりつかれていることが不合理なのは明白だった。 一方で、彼やアリエル・シャロンは入植者たちに可能な限りぶん取れとはっぱをかけて、パレスチナ人をどんどん圧迫している。 他方で、ネタニヤフはこのようなやり方によって、イスラエル側が代償を支払うことなくパレスチナ人にイスラエルのしたことをすべて受け入れるよう強いることができると期待していた。

アラファトは、ワシントンの支持を受けて日ごとに抑圧的になっていく。 アラファトは最近、なんと1936年の英委任統治政府の緊急防衛法をパレスチナ人に適用して、たとえば、暴力や人種・宗教的な争いを扇動することのみならず、和平プロセスを批判することさえも犯罪であると布告した。 パレスチナ憲法とか基本法というものはない。アメリカやイスラエルの支持をよいことに、アラファトは自分の権力を制限するようなことはいっさい拒否している。 こんなことでイスラエルのセキュリティとパレスチナ人の永続的な服従をもたらすことができるなどと、いったいだれが本気にするのだろう?

暴力、憎悪、不寛容は、不正と貧乏、政治的な充足への挫折感から生まれている。 去年の秋に、何百エーカーというパレスチナ人の土地がイスラエル軍によってウンム・アルファーム村から没収された。これは西岸ではなく、イスラエルの中の村だ。 このことは、たとえイスラエル市民であっても、パレスチナ人は劣等な存在として扱われ、アパルトヘイト状況の下でみられる最底辺の存在であることを、あらためて痛感させた。

同時に、イスラエルも憲法というものを持たないことや、超正統派の政党がますます大きな政治権力を獲得している現状から、イスラエルのユダヤ系グループや個人のなかには、イスラエルのすべての市民のために完全な世俗主義の民主国家をめざすことを考えようという動きが生まれている。 カリスマ的なアラブ系のクネセト議員アズミ・ビシャーラも、市民権の概念を広げることによって、民族や宗教という基準を克服しようと説いている。このような基準のおかげで、イスラエルは今や国民の20パーセントを構成する人々〔アラブ系〕にとって事実上の非民主国家になっているからだ

西岸地区、エルサレム、ガザでは、状況はひどく不安定で、搾取的だ。 軍の保護を受けたイスラエル人入植者(35万人近く)が、治外法権を持つ特権階級として、住民のパレスチナ人にはない権利を与えられている。 (例えば、西岸地区のパレスチナ人はエルサレムに行くことができず、領土の70パーセントにおいて依然としてイスラエルの軍令が適用され、土地の没収が可能となっている。) イスラエルはパレスチナの水資源とセキュリティ、出入国を管理している。 新設のガザ空港でさえもイスラエルのセキュリティ管理の下におかれている。 これが対立を制限するどころか、拡大を約束するものであることは、専門家でなくともわかることだ。 ここで真実を直視しなければならない。避けたり、否定したりせずに。

今日のイスラエルのユダヤ人のなかには「ポスト・シオニズム」について率直に語る人々もいる。イスラエルの50年の歴史を経て、古典的なシオニズムはパレスチナ人の存在を解決することも、ユダヤ人だけが存在する状態をもたらすこともなかった。 いまや、この土地を共有することについて語りはじめる以外に道はないと思う。わたしたちを無理やり一緒にしたこの土地で、すべての市民が平等の権利を持つ、真に民主的な方法で、共存することについて。 両方の民、2つの受難の共同体が、両者の存在は永続的な事実であり、ありのままにそれを受け止めて対処しなければならないと決意しない限り、和解はありえない。

これはユダヤ人がユダヤ的な生き方をすることを制限するものではないし、パレスチナのアラブ人が彼らの願望や政治的な存在を放棄することを意味するものでもない。 それどころか、これは両方の民が主権を持つことを意味する。 けれどもそれは、一つの民が他方の民を犠牲にするような特権を弱め、減少させ、最終的には断念することに同意することを意味する。 ユダヤ人のための帰還法と、パレスチナ難民の帰還権とは十分に検討され、一緒に調整されなければならない。 神から与えられたユダヤの民の土地としての「大イスラエル」の観念も、パレスチナはアラブ人の土地であり、アラブの本拠地から引き離すことはできないという観念も、ともに規模や排他性を縮小させる必要がある。

興味深いことに、パレスチナの数千年におよぶ長い歴史には、このような世俗的で穏やかな考え方の先例が少なくとも2つは見つかる。 第一に、パレスチナは今も昔もずっと、多くの歴史を持つ国だった。それを、もっぱらユダヤ人だけのものであるとか、アラブ人だけのものであるであるとか考えるのは、極端な単純化だ。 ユダヤ人の存在は長期にわたるものであるが、それは決して主流だったわけではない。 他の借家人には、古代のカナン人やモアブ人、エブス人、ペリシテ人などがいたし、もっと近い時代にはローマ帝国やオスマン帝国、ビザンチン帝国、十字軍などが存在した。 パレスチナは多文化、多民族、多宗教の地なのだ。 その均質性が歴史的に正当化できないのは、今日におけるナショナルまたはエスニックな純粋性とか宗教的な純粋性という概念に歴史的な正当性がないのと同じだ。

第二は、両大戦間期に、少数だが重要なユダヤ系の思想家グループ(ユダ・マグネス、ブーバー、アーレントなど)が、バイナショナル国家を論じ、扇動したことだ。 シオニズムの論理はもちろん彼らの努力を圧倒してしまったが、その思想は今日もあちらこちらのユダヤ系やアラブ系の人々のあいだに生きている。彼等は今日の状況の明らかな機能不全と略奪に失望しているのだ。 彼らのヴィジョンの核心は共存と共有だ。そこでは、主張と拒絶の不毛な膠着状態を克服しようとする革新的で大胆、かつ思想的な積極的意志が要求される。 ひとたび相手方を同等な者として認めることができれば、前進の道は可能なだけでなく魅力的なものにさえなると、わたしは信じる。

だが最初のステップは、きわめて困難なものだ。 イスラエルのユダヤ人はパレスチナの現実から隔離されている。彼らの大半は、そんなものはあまり気にならないと言う。 はじめてラマッラーからイスラエルへと車を走らせたとき、まるでバングラデシュから直接南カリフォルニアへ行くみたいだと思ったことを思い出す。 だが現実は決してそんなにすっきりしたものではない。

わたしの世代のパレスチナ人は、1948年にすべてを失ったことのショックに今もよろめいていて、自分たちの家や農場が別の人々によって乗っ取られたことを受け入れるのは不可能に近いと感じられる。 1948年に一つの民が別の民を追放し、それによって重大な不正行為を犯したという事実を避けて通ることはできないと思う。 パレスチナ人とユダヤ人の歴史を一緒に読むことは、ホロコーストの悲劇と、それに続いてパレスチナ人に起こったことの悲劇の力を全開させるだけではなく、1948年以降のイスラエル人とパレスチナ人の相互に絡み合った生活の中で、一方の民、パレスチナ人だけが、苦痛と損失の不釣合いに大きな配分を負わされてきたことを明らかにする。

イスラエルの宗教右翼とその支持者たちは、このような構図になんの問題も感じない。 彼らは言う。そうだ、我々は勝った。だが、それがあるべき姿なのだ。 この土地はイスラエルの土地であり、他の誰のものでもない。 このことばをわたしが聞いたのは、バイパス道路を広げるために西岸地区のパレスチナ人の畑(その所有者が無力に見守る前で)を破壊しているブルドーザーを護衛しているイスラエル軍の兵士からだ。

だが、彼らのような者ばかりがイスラエル人ではない。 和解に基づく和平を求めるイスラエル人にとっては、宗教政党がイスラエルの生活に干渉を強めていることや、オスロの不公正と挫折に対する不満がある。 このようなイスラエル人の多くが、自分たちの政府がパレスチナ人の土地を収用し、家屋を破壊していることに反対するデモをしている。 そこには、土地の収奪と自爆攻撃ではない、どこか別のところに和平への道を探ろうとする健全な意欲が感じられる。

一部のパレスチナ人にとっては、自分たちが弱い側、敗者であるがために、アラブのパレスチナを完全に回復することを断念するのはみずからの歴史を断念することに等しい。 他の人たちの多く、特にわたしの子供たちの世代は、年寄りの言うことに懐疑的で、もっと自由な形で未来を見つめ、対立と終わりのない喪失の先を見ようとする。 明らかに、この二つの共同体の既成勢力はどちらもくたびれ過ぎていて、リスクの高いものに挑戦するための「プラグマティック」な思想や政治の潮流を提供することはできないが、少数の者たち(パレスチナ人もイスラエル人も)は現状に維持に対するラディカルな代案を構築し始めている。 彼等はオスロによる限界──あるイスラエルの学者は「パレスチナ人ぬきの和平」と呼んでいる──を受け入れることを拒んでおり、真の戦いはアラブ人とユダヤ人の権利の平等を求めるものであって、分離した、必然的に従属的で弱いパレスチナ国家をつくるためのもではないとわたしに語る者もいた。

その手始めは、今日のイスラエル人とパレスチナ人の現実に完全に欠けているものを育てることだ──民族や人種の共同体ではなく、シティズンシップ(市民権)という概念とその実践。これが共生に向けた主な媒体となる。 近代国家では、すべての構成員がそこに存在し、権利と責任を共有することによって、市民となる。 従って市民権は、イスラエルのユダヤ人にもパレスチナのアラブ人にも、同じ特典と資源を享受する権利を与える。 それゆえ憲法と基本的人権が、この対立の出発点を乗り越えるために必要となる。それぞれのグループが等しい自決権を持つことになるからだ。自分たち(ユダヤ人あるいはパレスチナ人)の流儀に従って共同生活をおくる権利を持ち、おそらくは連邦制のかたちで、エルサレムに共同の首都を置き、土地へのアクセス権と、世俗的な司法上の不可侵の権利を平等に保障されることになるだろう。 いずれの側も、宗教的な急進主義の人質とされるべきではない。

とはいえ、迫害と苦しみ、被害者感情は非常に根深いものなので、「われわれ対かれら」の落とし穴に入らないようにしながら、ユダヤ人とアラブ人に同一の市民的平等の一般原則を守らせるような政治的イニシアティブは、着手することが不可能に近い。 パレスチナの知識人は自分たちの主張を、公開討論会や大学やメディアを通じて、イスラエル人に直接に表現する必要がある。 挑戦は、長年にわたってナショナリズムに従属してきた市民社会に対して、また市民社会の中で行なわれる。ナショナリズムは今や和解の障害になっているのだ。 おまけに、議論の劣化──それを象徴するのがアラファトとネタニヤフのやり合いで、そうしているあいだに、誇張された「セキュリティ」の懸念によってパレスチナ人の権利が損なわれる──が、もっと広い、度量の大きなものの見方が生じてくるのを妨げている。

選択肢は不快なほど単純だ──戦争が継続する(現在の和平プロセスの厄介なコストも)、あるいは和平と平等に基づいた解決(アパルトヘイト後の南アフリカのような)を多くの障害を乗り越えて積極的に求めるか、そのどちらかだ。 パレスチナ人もイスラエル人もそこから消え去ることはない。一旦この事実を認めたならば、妥当な結論は、平和的な共存と真実の和解が必要だということになるはずだ。 真の主権である。 残念ながら、不正と闘争性がひとりでに減少することはない。それは関心のある人たちすべてによって非難されなければならない。

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