Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

過去6週間にわたり、アメリカでは、驚くほど執拗で、綿密に計画されたメディア・キャンペーンが遂行され、多かれ少なかれイスラエルの世界観をアメリカの一般視聴者や読者に押しつけようとしてきた。それを阻むものは事実上なにひとつなかった。その主要なテーマは、イスラムとアラブがテロリズムの真の原因であり、イスラエルは誕生いらいずっとそのようなテロリズムに直面してきた、アラファトとビンラディンは基本的に同じものであり、アメリカの同盟者であるアラブ諸国(特にエジプトとサウジアラビア)は、反米主義をあとおしし、テロリズムを支援して、腐敗した非民主的な社会を存続させてきたことにより明らかに否定的な役割を演じてきた、というものである。キャンペーンの根底にあるのは、反ユダヤ主義が台頭しつつあるという(せいぜい好意的に評価しても)疑わしいテーゼである。これらが帰着するところは、イスラエルのやりくち──現在ほどに残忍で、人間性を踏みにじり、不法であったことはかつてなかった──に対するパレスチナ 人(あるいはレバノン人)の抵抗にかかわりのあるものはすべて、タリバンとビンラディンを始末したあとで(平行して、かもしれない)抹殺されなければならない、というほぼ確実な兆候である。またこのことが、国防省タカ派とその右翼メディア勢力がアメリカ国民にむけて執拗に念を押しているように、次はイラクの番であり、さらにはこの地域のイスラエルの敵はひとつのこらずイラクと並んで徹底的にたたかねばならぬということを意味することは、だれの目にも明らかだ。

危険な無自覚
Suicidal Ignorance
Al Ahram 2001年11月15〜21日 No.560号

アメリカのアフガニスタンに対する軍事攻撃が二ヶ月目もなかばにさしかかり、時局が極度に動揺するなか、いくつかのテーマやそれに対抗するテーマが明瞭に浮かび上がってきた。ここらで少し整理してみてもよいだろう。さしあたっては解説や但し書きはほどほどにして、そのようなテーマを列挙してみよう。それを手がかりにして、アメリカとパレスチナのあいだの、長年にわたる、はなはだ口惜しい関わり合いの歴史のなかで、現在どのような状況が展開しているのかを考察したい。

まずは、たぶんわかりきったことの確認からはじめよう──わたしの知っているアメリカ人はみな(わたし自身も含めて、といわねばならないが)、9月11日の惨劇が世界の歴史にあたらしい局面をひらいたと確信している。歴史上にはほかにも残虐行為や大惨事が起こっているという事実をアメリカ人の多くが頭では理解しているのだが、それでもなお世界貿易センターと国防省の爆撃には唯一にして無比なところがあるのだ。そこで、あたらしい現実が、あの日からはじまったように思われるのだが、そこでの主要な関心事はアメリカそのもの──その悲しみ、その怒り、その心理的ストレス、その自己認識などである。極端な言い方をすれば、今日、アメリカのパブリック・ドメインでもっとも傾聴される見込みの少ない議論は、国際社会の大立者であるアメリカが自分でまいた種によってこのような憎しみを身に招くことになった歴史的な原因を示唆するものだろう。そのように論じることは、いまやアメリカの憎しみと恐れのすべてを象徴する巨大な重層的シンボルとなったビンラディンの存在や行動を正当化しようとするものとしかみなされない。いずれにせよ、そのような話題がメインストリ ームの言説に登場すること、とくに一般メディアや政府答弁のなかに登場することは、目下のところ、とても許されるような状況ではない。その前提となっているのは、アメリカの美徳、ないしはなにか犯しがたい栄誉というようなものが絶対的に邪悪なテロリズムによって傷つけられたということであり、またそのことを少しでも低く見積もったり説明したりなどということは、考えただけでも耐えがたく、ましてや理性的に追求するなどもってのほかだ、ということであるらしい。このような状況こそが、まさにビンラディンの狂気の世界観がずっと望んできたもの──彼の勢力と、キリスト教徒およびユダヤ教徒の勢力に分断された世界──にほかならないのだが、そんなことは、まったく問題にならないらしい。

そういうことで、政府やメディア(ほとんど政府と一体となって動いており、戦争の遂行そのものについては質問や批判の表明があっても、戦争が賢明な行為であるかどうか、有効性があるのかなどという問題に触れることはない)が投影したがっている政治的イメージは、アメリカの「団結」である。共同体としての「われわれ」が存在し、「われわれ」はみな一つになって行動し一つになって考えるという感覚がメディアと政府によって捏造されており、さほど重要でない表層的な現象を通じてその存在が浮かび上がっている──あちこちに星条旗が掲揚され、ジャーナリストはアメリカが関係する世界のできごとを描写するに際し共同体としての「われわれ」ということばを使用する。われわれは爆撃した、われわれは言った、われわれは決定した、われわれは行動した、われわれは思っている、われわれは考える、等々。もちろん、このようなことは現実とはほとんど遊離している。現実ははるかに複雑で、そんなに安心できるものではない。記録も公表もされぬ懐疑、率直な反対意見さえもかなり多いのだが、そうしたものはあらわな愛国心におおい隠されているようだ。アメリカの団結が強力に打ち出 されている結果、アメリカの政策に疑問を投げかけることはほとんど許されない。だがその政策は、さまざまなかたちで、アフガニスタンをはじめいたるところで予想外の事態が続出する方向に突き進んでおり、それらの意味を多数の人々が理解するときにはすでに手遅れとなっているであろう。その一方で、アメリカの団結は、アメリカがしていること、してきたことについては、深刻な意見の相違や論議は許されないのだと世界にむけて表明することを要求する。ビンラディンとまったく同じように、ブッシュは世界に向けて、われわれの味方となるか、さもなくばテロリストの味方としてわれわれを敵にまわすか、と二者択一を迫る。つまり、一方ではアメリカが戦っているのはイスラムではなくテロリズムであるとしながら、他方では(イスラムおよびテロリズムがいったい誰を、あるいはなにを指すのかを決めるのはアメリカだけであるため、先のこととは完全に矛盾するのだが)「われわれ」はムスリムのテロリズムやイスラムの憤怒(それを定義するのは「われわれ」だ)に対抗しているというわけである。ヘズボラやハマスをテロリスト組織ときめつけるアメリカの断罪に対しては、レバノン人やパ レスチナ人からこれまでのところ効果的に異論が表明されているが、だからといってイスラエルの敵に対し「われわれの」敵という烙印を押そうとする運動が阻止できるという保証になるわけではない。

それはさておき、ジョージ・ブッシュとトニー・ブレアはともに、パレスチナ問題についてはたしかになんらかの手を打つ必要があると悟ったようだ。ただし、そのような処置をほどこす前提となるアメリカの外交政策の変更について、真剣な取り組みは何もなされていないようだ。それが実現するためには、アメリカはみずからの歴史をふり返る必要がある。それはトーマス・フリードマンやファアド・アジャーミのようにメディア通じて悪辣な批評をたれ流す米国の評論家たちが、アラブやムスリム社会に向けて彼らが実施すべきだと説きつづけていることとまったく同じ行為なのだが、もちろんこのような評論家たちは、そのことがアメリカ人も含めてだれにとっても必要なことだという認識に到ることがない。アメリカの歴史は自由と民主主義の歴史であり、それらだけの歴史であると、くりかえし聞かされるだけだ。失敗があったことは認められず、根本的な見直しが公表されることもない。ほかのものたちはみなやり方を変えなければならないが、アメリカだけは変わらないのだ。そうしてブッシュは、イスラエルのとなりに正式な国境線をもつパレスチナ国家をつくることをアメリカは支持すると述べ、 国連決議にそってこれが実施されるべきだとつけ加える。しかし、それが数ある国連決議のどれをさすのかは明らかにされず、またヤセル・アラファトと個人的に会見することも彼は拒否している。

これもまた矛盾したステップのひとつと映るかもしれないが、じつはそうではない。過去6週間にわたり、アメリカでは、驚くほど執拗で、綿密に計画されたメディア・キャンペーンが遂行され、多かれ少なかれイスラエルの世界観をアメリカの一般視聴者や読者に押しつけようとしてきた。それを阻むものは事実上なにひとつなかった。その主要なテーマは、イスラムとアラブがテロリズムの真の原因であり、イスラエルは誕生いらいずっとそのようなテロリズムに直面してきた、アラファトとビンラディンは基本的に同じものであり、アメリカの同盟者であるアラブ諸国(特にエジプトとサウジアラビア)は、反米主義をあとおしし、テロリズムを支援して、腐敗した非民主的な社会を存続させてきたことにより明らかに否定的な役割を演じてきた、というものである。キャンペーンの根底にあるのは、反ユダヤ主義が台頭しつつあるという(せいぜい好意的に評価しても)疑わしいテーゼである。これらが帰着するところは、イスラエルのやりくち──現在ほどに残忍で、人間性を踏みにじり、不法であったことはかつてなかった──に対するパレスチナ人(あるいはレバノン人)の抵抗にかかわりのあるもの はすべて、タリバンとビンラディンを始末したあとで(平行して、かもしれない)抹殺されなければならない、ということになるのはほぼ確実である。またこのことが、国防省タカ派とその右翼メディア勢力がアメリカ国民にむけて執拗に念を押しているように、次はイラクの番であり、さらにはこの地域のイスラエルの敵はひとつのこらずイラクと並んで徹底的にたたかねばならぬということを意味することは、だれの目にも明らかだ。9月11日以降の数週間、シオニストのプロパガンダ装置の騒々しい稼動ぶりはすさまじく、このような見方にたいする反論にゆきあたることはほとんどなかった。このようなおどろくべき嘘八百、血に飢えた憎悪と自分たちの優越を絶対視する傲慢な態度のなかで見失われてしまったのは、アメリカはイスラエルではないということ、ビンラディンはアラブ人でもイスラムでもないという単純明白な事実である。

この親イスラエル集中キャンペーンは、ブッシュや閣僚たちの政治支配がほとんどおよばず、アメリカ政府がイスラエルとパレスチナ人に対する自国の政策を本格的に再検討するような試みをことごとく阻止してきた。ムスリム世界やアラブ世界に向けたアメリカの対抗プロパガンダ作戦の緒戦でさえ、アラブを他のすべての民族に対するものと同等のまじめさで扱うことに対しておどろくべき抵抗がみられた。たとえば、ビンラディンの最新ビデオがノーカットで放映された一週間前のアルジャジーラの討論番組を取り上げてみよう。糾弾と宣言のごた混ぜのなかで、このビデオはアメリカがイスラエルを利用してパレスチナ人に絶え間なく弾圧を加えていると非難する。もちろんビンラディンによる説明は、イスラムに対するキリスト教徒とユダヤ教徒の十字軍という気違いじみたものだが、アラブ世界の大多数の人々は、アメリカは自国の武器と国連などでの無条件の政治的支持を与えてイスラエルが好き放題にパレスチナ人を殺すことを放任してきたと固く信じている(明らかな事実だからだ)。ここで、ドーハを本拠とする番組司会者は、ワシントンで待機していたアメリカ高官クリストファー・ロス〔前シ リア大使:1991-98〕を呼び出した。そこそこのアラビア語はこなすものの、決して達者ではなく流暢ともいえぬロスは、用意した長い声明文を読みあげた。その論旨は、アメリカがイスラムやアラブに敵対するなどということは決してなく、実際にはかれらを助けて戦ってきた(例えばボスニアとコソボで)擁護者であり、アフガニスタンに対する食料支援でも他の誰よりも多くを供給しており、自由と民主主義を保護している云々。

つまるところ、それは標準的なアメリカ政府見解だった。司会者はそこでロスに質問し、彼が述べたてたようにアメリカが正義と民主主義を支持しているというのなら、なにゆえアメリカの支援するイスラエルがパレスチナの軍事占領において暴虐をつくすということが起こりうるのか説明を求めた。聴衆者を尊重して正直な態度をとり、イスラエルはアメリカの同盟国であり、「われわれ」は内政上の理由からイスラエル支持を選択したのだと認める代わりに、ロスが選択したのは、聴衆の基本的な知性を侮辱し、アメリカはパレスチナ人とイスラエル人を交渉の席につかせた唯一の大国であると防衛することだった。それにもめげず司会者が、アメリカがアラブの願望に敵愾心をもっていることについて執拗に食い下がると、ロスもまけずに自分の路線にしがみつき、アラブの利害を気にかけているのはアメリカだけだというようなことを主張した。プロパガンダの実践としては、ロスのパフォーマンスはもちろんおそまつだった。しかし、アメリカの政策に重大な変更がおこる可能性をさぐる指標としては、ロスは(本人はそういうつもりはなかっただろうが)そんな変化など信じるのはよほどの愚か者だということを示し たことによって、少なくともアラブ人には役に立ったのである。

どのような発言をしようがブッシュ政権下のアメリカは単独行動主義の大国でしかなく、アフガニスタンであろうが中東であろうが世界中のどこへいってもそれは変わらない。パレスチナ人の抵抗の本質がなんであるかを理解した様子はまったくなく、パレスチナ人全体に対するイスラエルの有害なサディズムに目をつむるという恐ろしく不公平なアメリカの政策に、アラブがなぜ憤慨しているのかを理解した兆候もない。アメリカはいまだに京都議定書への署名を拒否し、国際刑事法廷に関する合意への署名も、地雷禁止の諸協定への署名も、国連拠出金の支払いさえも拒否しつづけている。それでもブッシュは世界に向けて、あたかも校長先生が一握りの手に負えぬ浮浪児たちに向かってさとすように、なぜアメリカの理想にしたがって行動しなければならないかを説教することができるのだ。

要するに、ヤセル・アラファトや絶えず彼につきまとう仲間たちがアメリカの足元にひれ伏さねばならぬような理由はどこをどう探しても見つけることはできないのだ。一つの民としてのわれわれが希望をつなぐことのできる唯一の道は、われわれにも原則が存在するのだということ、われわれは道徳的に優位にあり、そして今やだれも語らなくなった感のあるイスラエルの不法な占領に対抗して高度に組織された賢い抵抗運動を継続せねばならぬのだということをパレスチナ人が世界に対して示すことである。わたしが提案したいのは、アラファトが世界各地を訪問して回るのはもうやめにして、自分の民(現在の彼の政策を支持すると答えたのは17パーセントにすぎず、かれらはもうほんとうは彼を支持してはいないと訴えつづけている)のもとにかえり、かれらの必要に応えるという、本来の指導者がすべき責務をはたすことだ。イスラエルはこれまでずっとパレスチナのインフラを破壊しつづけてきた。町や学校を破壊し、罪のない人々を殺し、好き放題にパレスチナ人の居住区に侵入してきたのであるが、アラファトはそれを十分な重みをもって受け止めてこなかった。彼こそが、毎時間とまではいわぬ までも毎日のように非暴力の抗議デモを率いるべきなのであり、外国のボランティア・グループにわれわれのすべき仕事を肩代わりさせておいてはならない。

アラファトの指導体制が致命的に欠いているのは、自らの民との人間的で精神的な団結にもとづいた自己犠牲の精神である。残念ながら、この恐ろしい欠損のおかげで、彼と不運で無力なパレスチナ自治政府はいまや完全に存在意義を失ってしまったように思われる。確かに、シャロンの野蛮な行為も、その破滅に大きな役割を果たしてきたのだが、〔第二次〕インティファーダが始まったときにはもうすでに、たいていのパレスチナ人がもっともな理由から信頼を失っていたということを忘れてはならない。アラファトが一度も理解したことがないと思われるのは、われわれは、これまでも現在も、正義と解放の原則を代表し、象徴し、その体現として支持されている一つの運動なのだということだ。このことだけが、イスラエルの占有からみずからを解放することをわたしたちに可能にさせるのであり、アラファトや部下たちを今日まで軽蔑をもって扱ってきた西側の権力の殿堂に入り込み、ひそかな策術を弄することによってではないのだ。ヨルダンでも、レバノンでも、オスロ和平プロセスの期間中もそうだったように、アラファトはいかなるときも自分とその運動が他のアラブ国家とまったく変わらぬもの であるかのようにふるまい、つねに敗北を重ねてきた。パレスチナの人々が望んでいるのは、警察と不正な官僚機構ではなく、解放と正義であるということを、彼がいつの日かようやく理解すれば、そのときはじめてほんとうの指導力を発揮しはじめるだろう。さもなければ、彼はぶざまにもがきまわり、わたしたちに大きな不幸と災難をもたらすことになるだろう。

その一方で──この問題の詳細な展開は次回にゆずり、今回はこれをもって結論としたい──パレスチナ人として、あるいはアラブとして、わたしたちはことばだけの安易な反米主義におちいるようなことがあってはならない。ベイルートやカイロの集会所にたむろしてアメリカの帝国主義(シオニストの植民地支配でもいいのだが)を非難しながら、これらの社会は複雑であり、その政府の愚かな政策や残忍な政策によってつねに本当に代表されるとは限らないということを少しも理解していない、などということは許されない。イスラエルやアメリカの諸潮流のなかには、わたしたちが呼びかけ、最終的に合意を形成すること(重要なことだ)が可能と思われるものもあるのに、これまでそのような働きかけをしてこなかった。この点では、わたしたちは自分たちの抵抗が、危険な無自覚と相手かまわぬ攻撃性のおかげで憎まれ恐れられる現在のような状況を脱し、尊重され理解されるものにしていかなければならないのだ。

それと、もうひとつ。アメリカ在住の少人数の平凡なアラブ人学者たちが、この国のメディアに登場してはイスラムやアラブを非難しているが、同じことをアラビア語で、ワシントンやニューヨークでは気楽にこきおろしてきたアラブの社会や人々に向かって語るだけの勇気ないしは品性を伴わずにそうすることはあまりにも安易というものだろう。おなじく容認できないのは、アラブやムスリムの政府が、国連や西欧一般に対しては自国民の利益を擁護するかのようにふるまいながら、国内では国民のためにほとんどなにもしていないということだ。たいていのアラブ諸国はいま、汚職や非民主的な恐怖政治、いまだ世俗的世界の現実が直視できない致命的に欠陥のある教育システムのなかにどっぷりつかりこんでいる。

だが、ここから先は次回の記事に譲ろう。



Al-Ahram Weekly Online 15 - 21 September 2001 Issue No.560
Suicidal ignorance

Home| Edward SaidNoam ChomskyOthers | LinksLyrics