Edward Said Interview




ペンと剣

--自分に本当に選択の余地があったとは思えません。1967年以降のある時点で、僕は自分に召集がかかったと感じました。いちばん身近なレベルでは、友人たちから援助を求められました。何か書いて欲しいとか、署名して欲しいとか、会合に出席して話をして欲しいとか頼まれたのです。断るなんて、とてもできませんでした。やがて、事の全体が意味するものが、ずっと巨大な次元のものとして見えてきたのです。
Culture of Resistance
抵抗の文化

DB:一般講演で、いびるような質問を受けてきたとおっしゃいましたが、それよりもっと深刻なのは、あなたが受けてきた暗殺の脅迫やピケなど、いろんな種類の妨害行為でしょう。そこで質問ですが、あなたは学者としてずっと気楽で快適な生き方を選ぶこともできたのではないですか。そうすれば、もっと多くの著述も可能だったでしょう。音楽や、その他の方面での仕事を充実させることができたはずです。でも、あなたはどこかの時点で、授業や講演活動からはみ出して、実践的な政治という別の領域に足を突っ込んでしまいました。なぜ、そうしたのですか?

自分に本当に選択の余地があったとは思えません。1967年以降のある時点で、僕は自分に召集がかかったと感じました。いちばん身近なレベルでは、友人たちから援助を求められました。何か書いて欲しいとか、署名して欲しいとか、会合に出席して話をして欲しいとか頼まれたのです。断るなんて、とてもできませんでした。やがて、事の全体が意味するものが、ずっと巨大な次元のものとして見えてきたのです。それは単に自分の民族的な背景だけに由来する問題ではないという意識です。自分がパレスチナ人だからということだけの問題ではありませんでした。パレスチナ闘争にかかわることで、僕はパレスチナ人だけでなく他の人々、合衆国のアフリカ系やラテン系の人々の連帯グループや、アフリカ諸国のグループともかかわることになりました。そのような交流を通じて悟ったのは、パレスチナ闘争がこれらの諸運動の中心的役割を担ってきたのは、パレスチナ闘争が正義について問いかけるものだったからだということでした。それは、ほとんど勝算がないにもかかわらず真実を語り続けようとする意志の問題でした。また、それが立ち向かう相手は、人類史上でもまれにみる大量虐殺の犠牲 者として公認された民族だけれども、いまや別の民族の抑圧者になってしまっているという、非常に攻撃しにくい相手でした。

この二つの民族について、いずれの側の経験に対しても公正な態度を貫きながら、同時に語ることができるだろうか−−それを試みることは、知的挑戦であると同時に道徳的な挑戦でもあると思いました。ここからまた別の問題が派生してきます。合衆国のメディアが、一個人の見方を大きく増幅する力を持っていることから−−善し悪しの評価は別として、これは厳然たる事実です−−僕はますます、この挑戦を続けるしかないと感じるようになりました。やがて、むしろそれが快感にさえなりました。それに抵抗し、こちら側の解釈を告げ、常にできる限りの正直さと普遍性を保つよう自分自身に要求し続けることが重要だと思いました。それが知識人として自分に与えられた使命の一部だと思ったのです。

1980年代の中頃まで、僕には大学教授と知識人の区別がつきませんでした。一方が必然的に他方に導くと思っていたのです。僕にとって教授であるということは、母がいつも僕に吹き込もうとしていたような、一つの主題に専念し、その領域においてだけは誰にも負けないという書斎に篭った専門家になることではありませんでした。それよりも、知識人としての使命感が必然的に伴うものだったのです。その具体的な姿を、チョムスキーや友人のイクバール・アフマドのような他の人々の業績や生き方に発見しました。ですから孤独は感じませんでした。それに他のパレスチナ人を見れば、あまりにも多くの人々が僕よりずっと厳しい状況に置かれていました。それに比べれば、僕自身は特権的な環境の産物です。したがって自分にはこれを引き受ける責任があると感じたのです。まあ、ざっとこんな事情でした。ここ何年ものあいだ、このことについて、こんなふうにきちんと整理して考える余裕がありませんでした。でも、それに答えるとすれば、いま話したようなことになると思います。

DB:抵抗の文化とその創造、しかも単なる抵抗では補完物でしかないので、そこにとどまらず、なにか建設的なオルターナティブを創造するということに興味があるのですが。

それが開始されるのは、侵略の初期の時代が過ぎてからのことです。海の向こうからやってきて自分たちの土地を奪い、わがもの顔で居座り自分たちを蹂躪する侵略者たちに包囲されたと感じて、現地の人々は当初、驚愕とパニックに陥っていました。しかし、このような初期の段階が過ぎた後には、侵略者に対する抵抗が始まります。それは常に立ち上がって闘うことを意味していましたが、同時にまた、その過程で現状に対するオルターナティブを模索していくことでもあったのです。

例えばパレスチナ闘争では、運動の非常に早い段階から、自分たちは他と同じような分離主義的ナショナリズムを追求しているのではないと宣言していました。これには大きな感銘を受けました。それは僕がこの運動に参加した頃のことでした。僕らは、自分たちの民族形成のために彼らのナショナリズムに抵抗するという従来のナショナリズムには、関心がなかったのです。彼らに対抗してそっくり同じものを形成しなければならない、彼らシオニズムがあるというなら、僕らもそれに対抗してパレスチナ人のシオニズムを形成しよう、などという考えはありませんでした。そんなことよりも、僕らが関心を注いでいたのは違った道 alternative について語り合うことでした。人種や宗教や民族的な背景をもとに成立するような差別を、いわゆる「解放」によって乗り越える道を模索していたのです。パレスチナ解放機構という名前にも、それが反映されていたわけです。これこそが抵抗の本質なのだと思います。足をドアに突っ込んで強引に押し入ろうとするのではなく、窓を開こうとする発想です。

20世紀の解放運動の歴史のなかで特に残念なことは、独立とか国家建設といった短期的な目的達成のために、解放という目標が裏切られたことでしょう。パレスチナ人の場合は、その段階にさえ届かないうちに迂回してしまいました。これは、普通の一般文化が僕たちに欠けていることによるところが大きいと思います。僕らの拠り所はスローガンばかりだったのです。僕らはアラブ世界の政治に深く巻き込まれていましたが、それは1950年代以来ずっと、堕落、腐敗、少数独裁、従属、暴政という下降スパイラルをたどってきました。僕はずっと、その悪影響の下に置かれてきました。初めのうちは、自由や民主主義や表現の自由や検閲の廃止などについて僕らが最も雄弁だったというのに…。結局、周囲の環境に負けてしまったのだと思います。

特に深刻なのは、最終目標は常に変更していかなければならないという意識です。例えば、ANCやマンデラの場合−−彼らに対して批判的なのがはやりだということは承知していますが−−アパルトヘイトに立ち向かったすべての人々にとって、最終目標であるアパルトヘイトに対するオルターナティブが一人一票制の確立であることは、最後まで疑問の余地のないものでした。パレスチナの場合、僕らも最初はそういう考えだったのですが、時が経つにつれて変化していったのです。最初の目標は民主的な世俗国家でした。それから、パレスチナで解放できる部分だけをもとに国家を建設するということに変わりました。やがて、それは自治ということになりました。さらにその後、制限付き自治ということになり、しまいには事実上、イスラエルという敵方への協力になってしまったのです。抵抗の文化とオルターナティブを堅持することができなければ、こんな風にオルターナティブが季節商品のように取り替えられるバザールになってしまうのです。数年前のアラファトはまるでロシア革命初期の赤軍司令官のような口調でしたが、いまやアメリカ国務省の役人のような口ぶりです。これほど、がっか りさせられるものはありません。

以上のようなことから、アラブ世界にとって、また特にパレスチナ人にとって絶対に必要なのは、抵抗と抵抗の文化という考え方を再構築することだと思います。僕らはいま新しい段階に踏み出しています。イスラエルが望んでいるのはパレスチナを含むアラブ諸国との関係の正常化です。もちろん僕も正常化には賛成です。しかし、真の正常化は対等な者同士のあいだにしか成立しません。保護監督や依存のもとに置かれた状態と、対等な立場の交渉相手として毅然と立つ状態とを峻別できなければなりません。僕らにはそれができていないのです。今後の10年は、これが最も重要な政治課題となるでしょう。

DB:抵抗の文化についての僕の質問をそのままパレスチナと中東の問題にもっていかれましたが、実はアメリカについてお聞きしたかったのです。

今はわかりにくくなっていますね。左翼は−−僕もその一員ですが−−混乱状態に陥っています。ポスト・マルクス主義という風潮があります。ポスト・コロニアリズムがあり、ポスト・モダニズムがあり、どこもかしこも「ポスト」だらけといった状況。その多くは、知的レベルでは支離滅裂だと思います。これらは、社会闘争や複雑な政治問題、またとりわけ経済問題といった今日僕たちが直面する問題に、ほとんどタッチしていません。この状況は大きな地殻変動とでもいうべきものです。アメリカの左翼は手軽なオルターナティブに走り、少数の例外を除いてほとんどがアカデミズムの世界に閉じこもり、社会への干渉や、公的活動から絶縁してしまっています。確かにいまも公的活動を行っている知識人も若干は存在し、チョムスキーなど少数の人々は真実を告げる努力を続けています。しかし、公的空間にはまた、名ばかりになってしまった知識人が溢れかえっています。この人たちは一時は抵抗運動や道義の象徴だったのでしょうが、いまはタレントや講演会のスターになってしまっているのです。

だから、少なくともアメリカの知識人としての立場からは、抵抗についての言説の欠如、一般原則についての言説の欠如、共通の目標、社会的、政治的、経済的、そしてもちろん文化的な言説の欠如には、ほんとうにがっかりしています。また、1960年代に活発に抗議していた多くの運動、エスニック・コミュニティーや女性運動の間には、ある種の偏狭な考え方が目立つようになっています。このような状態はいずれ解消され、普遍的なテーマや関心が再び沸き起こってくると期待することも、たぶん、可能でしょう。しかし、それが近い将来に起こるとは思えません。いまの時点で期待できるのは、こうした問題についての論争を喚起することだけで、僕たちの多くはそれに向かって努力しているのです。

DB:問題にされているのは、いわゆる自己同一性 identity の文化なのでしょうか。

そうです。アイデンティティーの文化のことを言っているのです。ロバート・ヒューズ 〔Robert Hughes:オーストラリア生まれの作家・芸術批評家〕が「不満の文化」と呼んでいるもの、特定グループの利害の上に立った文化のことです。僕ならそれをプロフェッショナリズムの文化と呼びますね。これが、ベトナム反戦など1960年代に活発だった運動のエネルギーのおおかたを吸い上げてしまいました。ここから吸い上げられたエネルギーは、もっとスケールの小さなものに還流されたのです。

合衆国はいまも世界の超大国という地位を保っています。その力が世界中のさまざまな共同体に及ぼす影響は、一貫した方法に基づいた評価と批判にさらされる必要があります。今日では、発言の場を提供するようなメディアは非常に限られています。「ザ・ネイション」 誌 The Nation がその一つです。「Z」誌もそのひとつ。「ザ・プログレッシブ」誌 The Progressive が三番目です。でもこれらは、全体的に均一化された知的状況における、ほんの一握りの例外に過ぎません。

DB:本物の声 authentic voice とか、誰が発言するのかというような問題が、この核心にあるような気がしますが。

あまりにも核心になりすぎてしまったんだと思います。それは、XコミュニティからもYコミュニティーからも代表がなければならないというものでしょう。あるところまでは、それは有用なことだと思います。僕にとっては確かに有用でした。ある時点で、生っ粋のパレスチナ人やアラブ人が生の声で発言することの必要性が痛感されたことがあり、それによって、そのような発言が可能になりました。しかし、それは絶えず乗り超えられなければならないものだと思います。単にそういう役割を引き受けるだけではなく、つねに図式化に挑戦し、公式に挑戦し、状況設定に挑戦し、前後の文脈に挑戦し、背後に隠れているもっと大きな問題へと広げていく努力が必要です。単に、代弁者と本物の声というような問題に留まるものではありません。社会構造の変化に伴う、より大きなスケールの社会問題にもつながっているのです。そのような問題提起が、現状においては欠けているのです。

< 『ペンと剣』(クレイン1998)からの抜粋 :Copyright 1998 Crane>

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