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文明的なロンドンと「闇の奥」the heart of darknesのあいだの区別が、極限状態においてはまたたくまに崩壊するということ、そしてヨーロッパ文明の絶頂といえども、なんの予行も過渡期間もなしに、いっそくとびに野蛮な風習のきわみへと反転しうるのだということを、コンラッドは、19世紀の終わりにおける彼の読者には想像もできなかったような力強さで理解していた。彼はまた、1907年の小説『密偵』で、テロリストの最終的な道徳的退廃を描くと同時に、「純粋科学」などというような抽象概念(「イスラム」や「西洋」という概念も、その延長上にある)とテロリズムの親近性も描きだしている。

なぜそのようなことが起こるのかというと、表面的には交戦中とうつる諸文明のあいだには、わたしたちの多くが思い込みたがっているよりずっと緊密な関係が存在しているからである。フロイトやニーチェが明らかにしたように、慎重に維持され、警備されているとさえいえる境界線をまたいで、しばしばそら恐ろしいほど簡単に交流が行われているからなのだ。しかし、このような流動的な観念は、わたしたちが拠りどころとしている認識に大きな懐疑を投げかけ多義性で包み込むものであるため、現在わたしたちが直面しているような状況に際しては、それに対処するための適切で実際的なガイドラインはほとんど与えてくれない。 そこで登場したのが、ハンティントンの説くイスラムと西洋の対立という構図から引き出された、いかにも安心できそうな戦闘配置(十字軍、善と悪、自由と恐怖、等々)である。

無知の衝突
Clash of Ignorance
The Nation 2001年10月22日号

「フォーリン・アフェアーズ」1993年夏の号に掲載されたサミュエル・ハンティントンの論文「文明の衝突か?」[1]は、発表されるやいなや驚くほどの注目を集め、大きな反響を呼んだ。この論文の趣旨は冷戦後の国際政治における「新しい段階」についての独自の理論をアメリカ人に提供することだったため、ハンティントンの議論に使われた用語は思わずひき込まれるほどスケールが大きく、大胆かつ空想的とさえ思われた。 彼はライバルとおぼしき政策立案畑の他の論客を明らかにマークしていた。「歴史の終焉」理論を提唱したフランシス・フクヤマのような理論家や、グローバリズム、トライバリズム(同族至上主義)、国家の消失などといった現象の始まりを世に喧伝した一群の人々である。ハンティントンに言わせれば、こうした人々はこの新しい時代について一部の側面のみを理解していたにすぎない。これに対し、「今後の世界政治のあり方」の「鍵をにぎる、まさに中心的な特徴」を明らかにしようというのが彼の狙いだった。よどみなく、彼は次のような議論を展開する

「この新しい世界における紛争の根源となるのはイデオロギー的なものでも経済的なものでもない、というのがわたしの仮説である。 人類を大きく分断し、対立の主要な根源となるのは、文化の相違である。国民国家はひき続き国際政治におけるもっとも強力な行動主体にとどまるであろうが、世界政治における主要な対立は異なる文明圏に属する民族や集団のあいだにもちあがることになるだろう。 文明の衝突が世界の政治を動かすことになる。文明圏のあいだに走る断層が今後の紛争の最前線となるだろう。」

これに続く議論の大半は、ハンティントンが「文明のアイデンティティ」とか「7つか8つ(原文のまま)の主要文明のあいだの相互作用」とか呼ぶあいまいな概念に依拠している。なかでも彼が最大の関心を寄せているのが、イスラムと西洋という二つの文明の対立である。このきわめて好戦的な理論のなかで彼が大きく依存しているのは、オリエンタリスト(東洋学者)の大御所バーナード・ルイス[9]の1990年の論文であるが、「ムスリムの怒りの根源」というその表題をみれば著者の思想的な色合いは明らかである。 どちらの論文においても、「西洋」と「イスラム」と呼ばれる途方もなく大きな存在が、大胆きわまりない断定によって擬人化されている。アイデンティティとか文化といった高度に複雑な問題が、まるで漫画の世界に存在するかのように扱われ、容赦なく殴り合いを続けるポパイとブルートのように、一方がつねに相手方よりも徳が高くつねに優位にある、というような形で描かれている。明らかに、ハンティントンもルイスも、それぞれの文明が内部にかかえるダイナミズムや多元性についてはじゅうぶんな時間を割いていない。また、ほとんどの現代文化における論争の中心になっているのが、それぞれの文化についての定義ないし解釈にかかわるものであるという事実、あるいはまた、ある宗教や社会の全体を代弁しようなどというおこがましい行為にはデマゴギーと無知が大きくかかわっているのではないかという、あまり魅力のない可能性についても、じゅうぶんに目を向けているとは思えない。そんなことにはおかまいなく、西洋は西洋、イスラムはイスラムだというわけだ。

西洋の政策立案者の課題は、西洋の勢力が着実に拡大し、すべての他の勢力、特にイスラムの攻勢をかわすことのできるような手段を講じることである、などとハンティントンは主張する。それにもまして問題なのは、ハンティントンが、通常のしがらみや隠れた忠誠などのいっさいから離れた孤高の位置から世界全体を見わたす自分の視点こそが正しいのだと決めてかかり、他の者たちはみな自分がすでに発見した答えを求めてちょこまか走り回っているのだといわんばかりの態度をとっていることだ。確かに、ハンティントンはイデオローグである。彼は、「文明」や「アイデンティティ」をなにか別のものに作り変えようとしているからだ──人間の歴史に活力を与えてきた無数の潮流ならびに奔流をいっさいそこから取り除いたうえで、それぞれを閉鎖し、封印することによって。しかし、これらの潮流のせめぎ合いがあったればこそ、何世紀にもわたる人間の歴史が宗教や帝国のための征服戦争の連続だけでなく、同時にまた相互の交流や異種交配や共有の歴史でもあるということが可能になってきたのである。はるかに目に見えにくい後者のような歴史は、これが現実であると「文明の衝突か?」が主張 する馬鹿げて圧縮され、刈り込まれた軍事行動を効果的に示すために、さっさと切り捨てられている。1996年、同じ表題で単行本を出版したときにはハンティントンももう少しは緻密な議論を試み、そして膨大な量の脚注を新たにつけ加えている。だが残念ながら、これらの努力も結果的に本人を混乱させるだけにとどまり、彼の書き手としての不器用さ、思想家としてのキレの悪さをさらけだすことになった。西洋とそれ以外の世界の対峙という基本パラダイム(冷戦時代の対立のリニューアルだ)には、まったく修正が加えられなかった。そして、この枠組みこそが、9月11日の惨事が起こって以降の議論に(狡猾に暗黙の前提というかたちをとることが多いが)しつこくつきまとっているものだ。

ひとにぎりの狂った過激分子が病的な動機にもとづいて周到に計画したこの恐るべき自爆攻撃と大量殺戮は、ハンティントンの主張の正しさを裏づけるものへと変えられてしまった。この事件を、そのありのままの姿 −犯罪的な意図で少数の狂信者がばかな計画を考えついた− で見ようとする代わりに、前パキスタン首相ベナジール・ブットからイタリア首相シルヴィオ・ベルルスコーニにいたる国際的な著名人たちは、イスラムの難点について偉そうに講釈をたれる。ベルルスコーニに至っては、ハンティントンの考えを借用して西洋の優越性を説き、「われわれ」にはモーツァルトやミケランジェロがいるのに、彼らにはそういうものが欠落しているというようなことを大げさに吐き散らしている。(ベルルスコーニはその後、「イスラム」を侮辱したことに対し口先だけの謝罪をしている。)

そうする代わりになぜ、破壊力においては見劣りがするとはいえ、ブランチ・ダヴィディアン[2]やガイアナのジム・ジョーンズ師の弟子たちや日本のオウム真理教のようなカルトとの比較において、ウサマ・ビンラディンの一派をとらえてみようとはしないのだろうか。普段はもっと冷静な英国の「エコノミスト」誌でさえも、9月22〜28日号では壮大な一般論に手をのばしたい誘惑に抗しきれず、イスラムについてのハンティントンの「手きびしく大胆だが、それにもかかわらず鋭い」所見にとてつもない賞賛をあたえている。場ちがいにおごそかな調子で同誌が伝えるところでは、ハンティントンは「今日、世界中で10億人にも達するムスリムたちは、みずからの文化の優越性を確信しているが、その一方でまた支配力においては劣勢におかれているという考えにとりつかれている」と述べている。いったい彼は、多様なムスリム集団のそれぞれについてきちんと検証したうえで──たとえば、100人のインドネシア人、200人のモロッコ人、500人のエジプト人、50人のボスニア人について調査したうえで──このような主張をしているのだろうか 。たとえそのような手順を踏んでいたとしても、それはいったいどんな種類のサンプルに基づいているのだろう。

欧米のめぼしい新聞や雑誌はどれをとってみても、この巨大化した終末論的な語彙をさらに増強するような論説であふれている。それらの言葉の使い方ひとつひとつが、読者を啓発するというよりも、「西洋」の一員としての義憤に火をつけ、何をすべきかをたきつけるだけの意図を表している。チャーチル風のレトリックを不当に借用した者たちが、憎悪に満ちて略奪と破壊を企てる敵に対する西洋(とりわけアメリカ)の戦争における戦士を勝手になのっている。そのように単純化された見方をくつがえすような複雑な歴史には、ほとんど注意が払われない。だが、そのような歴史こそが、一つの領土から滲み出して別の領土へ浸透し、わたしたち全員を対立する諸陣営に振り分けるとされる想像上の境界線を、無意味なものにしてしまうのである。

イスラムと西洋というような無益なラベル(標識)の問題点は、ここにある。現実はそもそも無秩序なものであり、そんなにかんたんに整理棚に仕分けしたり、しばりつけておいたりできるようなものではないのだが、そこになんとか筋道を見出そうとする人間の精神につけこんで、このようなラベルは人々を誤った方向に導き、混乱させるのである。ここで思い出されるのは、1994年に西岸地区の大学で講義をしたときのエピソードである。講義が終了すると、聴衆のなかから一人の男がたちあがり、彼の信奉する厳格なイスラム思想に照らして、わたしの考えが「西洋的」であると非難しはじめた。「では、なぜあなたは背広を着てネクタイを締めているのですか?」という反論のが、まっさきに心に浮かんだ。「それだって、西洋のものでしょう?」と切り返すと、男はバツの悪そうな微笑を浮かべて腰をおろした。9月11日の事件を起こしたテロリストについての情報が流れはじめたとき、わたしの心に浮かんだのはこの出来事だった。世界貿易センターや国防省や乗っ取った飛行機に対して凶悪な殺戮を実行するためには技術的な知識が必要であるが、テロリストたちはいかにしてそのような知 識を習得したというのだろう。「西洋」のテクノロジーと(ベルルスコーニが宣言するところでは)「現代」へ仲間入りすることが不可能な「イスラム」とのあいだのどこに境界線を引くというのだ?

もちろん、そんなことは容易にはできない。ラベル付けや、一般化や、文化的な断定は、結局のところきわめて無力なものなのだ。あるレベルにおいては、たとえば原始的な情念と高度な技術情報が一点に集束することにより、強固に守られた境界線の虚構性があばき立てられるということも起こってくるのだ。そのような境界線には、「西洋」と「イスラム」のあいだに引かれたものだけでなく、過去と現在、「われわれ」と「かれら」のあいだの境界も含まれるのである。「アイデンティティ」と「ナショナリティ」という、果てしのない意見の相違と論争のまとになってきた概念のあいだの線引きについては、言うまでもなかろう。一方的な決定により砂の上に境界線を引き、それに基づいて「敵方」に十字軍をしかけ、「かれら」の悪に「われわれ」の善を対置させ、テロリズムを根絶し、(ポール・ウォルフォウィッツ国防副長官のニヒリスティックないいぐさを借りれば)ネイションというものに終止符を打とうとしても[3]、結局のところはそうした線引きによって想定される存在物(entities)が少しでも見えやすくなるわけではない。むしろ、それによって 明らかにされるのは、現実においてわたしたちが直面するもの──「われわれ」も「かれら」も含めたところの数知れぬ人間存在の相互の絡み合い──について思案し、吟味し、整理することに比べて、集団的な激情をあおりたてるために戦闘的な声明を発することが、いかにお手軽なやり方かということだけである。

1999年1月から3月にかけて、パキスタンでもっとも評価の高い週刊誌「ドーン」Dawnに連載された三本の注目すべき論文の中で、故イクバール・アフマド[4]は、ムスリムの読者に向けて、宗教的右派の根源と彼がよぶものを分析している。絶対論者や狂信的な暴君は、個人の行動を規制しようという考えにあまりにも強くとりつかれているため、「イスラムの秩序からヒューマニズムも美学も知的探求も宗教的帰依もことごとく取り払ってしまい、単なる刑法へと矮小化されたもの」を推進するようになり、イスラムの教えを台なしにしていると、彼はこっぴどく非難している。アフマドによれば、このことから必然的に「宗教のなかの、ある一つの、それもたいていは前後の文脈から切り離された一側面だけをとりだして絶対化し、ほかの部分はまったく無視するということがおこってくる。そのような現象は、それが展開するところではかならず、宗教をゆがめ、伝統をいやしめ、政治手続きをわい曲させる。」そのような伝統価値の失墜についての時宜を得た好例として、アフマドは「ジハード」ということばをとりあげている。まず、このことばの含蓄に富み複 雑で多元的な意味を紹介したうえで、彼は、このことばの意味をもっぱら「敵とみなされたものに対する無差別の戦い」のみに限定するような現在の語法を批判する。このような用法に従っていたのでは「イスラムの宗教や社会や文化や歴史や政治を、ムスリムたちが太古の昔から実生活で体験してきたものとして理解する」ことは不可能だと彼は主張する。近代のイスラム主義者たちは、「魂ではなく権力にばかり関心を寄せてきた。政治的な目的を実現するために人々を動員することにばかりかまけていて、困難や理想をみなで分かちあい和らげることには興味がない。彼らが追求するのは、きわめて限定的で時間にしばられた政治課題である」というのが、アフメドの結論だ。事態をいちだんと悪くしているのは、おなじような歪曲と狂信が、「ユダヤ教」や「キリスト教」の世界の言説においても起きることである。

文明的なロンドンと「闇の奥」the heart of darkness [5]のあいだの区別が、極限状態においてはまたたくまに崩壊するということ、そしてヨーロッパ文明の絶頂といえども、なんの予行も過渡期間もなしに、いっそくとびに野蛮な風習のきわみへと反転しうるのだということを、コンラッドは、19世紀の終わりにおける彼の読者には想像もできなかったような力強さで理解していた。彼はまた、1907年の小説『密偵』The Secret Agent[6]で、テロリストの最終的な道徳的退廃を描くと同時に、「純粋科学」などというような抽象概念(「イスラム」や「西洋」という概念も、その延長上にある)とテロリズムの親近性も描きだしている。

なぜそのようなことが起こるのかというと、表面的には交戦中とうつる諸文明のあいだには、わたしたちの多くが思い込みたがっているよりずっと緊密な関係が存在しているからである。フロイトやニーチェが明らかにしたように、慎重に維持され、警備されているとさえいえる境界線をまたいで、しばしばそら恐ろしいほど簡単に交流が行われているからなのだ。しかし、このような流動的な観念は、わたしたちが拠りどころとしている認識に大きな懐疑を投げかけ多義性で包み込むものであるため、現在わたしたちが直面しているような状況に際しては、それに対処するための適切で実際的なガイドラインはほとんど与えてくれない。 そこで登場したのが、ハンティントンの説くイスラムと西洋の対立という構図から引き出された、いかにも安心できそうな対置(十字軍、善と悪、自由と恐怖、等々)である。9月11日の事件が起こった直後の数日、政府の言説にはハンティントンから引いた語彙があふれていた。その後、時間が経つにつれ、そのような言説は顕著にトーンダウンした。しかし、イスラムに対する敵対的な言動はいっこうに収まっておらず、またアラブやムスリムやインド系の人々に対し国中のいたるところで警察が目を光らせているというような報道から察するに、そのような認識の枠組みはいまも居座っているようだ。

そのようなパラダイムがしつこく存続する理由として付け加えられるのは、欧米のいたるところでムスリムの存在が目立つようになってきたことである。今日のフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、英国、アメリカ、さらにはスウェーデンも含め、これらの国々の住民構成について考えてみられるがよい。イスラムがもはや西洋の周辺に位置する存在ではなく、まさにその中心に存在するようになっていることは否定できないであろう。だが、彼らの存在のいったい何がそんなに脅威を与えるというのだろう? 集団的文化のなかに埋もれている記憶は、7世紀に始まったアラブ・イスラム勢力による第一次の大征服という歴史である。ベルギーの優れた歴史家アンリ・ピレンヌが画期的な研究書『マホメッドとシャルルマーニュ』(1939年)[7]のなかで述べているように、このイスラム勢力の拡大によって古典古代期の地中海世界の秩序は決定的に粉砕され、キリスト教=ローマ帝国の統合は崩壊し、それに代わって北方勢力(フランスのカロリング朝を含むゲルマン諸族)が優位に立つ新しい文明が勃興した。この新文明の使命は、歴史的・文化的な敵対者に対する「西洋」の防 衛という役割を引き継ぐことであった、とピレンヌは主張しているようだ。残念ながら、ここでピレンヌが割愛しているのは、この新しい防衛ラインの形成にあたって、西洋はイスラムのヒューマニズム、科学、哲学、社会学、歴史学に多大のものを負っていたという事実である。このときまでには、シャルルマーニュの世界と古典古代のあいだの橋渡しとして、イスラムはすでに西洋世界に深く介入していたのである。イスラムがそもそもの始まりから西洋の内部の存在であることは、マホメッドを目の敵にしていたダンテでさえ認めざるを得ず、この預言者は「地獄編」(『神曲』の第一部)の中心に据えられているのである。

それに加えて、しつこく尾をひいている一神教そのものの遺産、すなわちルイ・マシニョンLouis Massignon が「アブラハムの宗教」〔ユダヤ、キリスト、イスラム〕と、適切な呼称を与えたものの遺産である[8]。 ユダヤ教とキリスト教の関係に始まり、それぞれみずからに先行するものを色濃く継承してきた。ムスリムにとっては、イスラムこそが一連の預言者の系譜を完成し、それに終止符を打つものである。神々のなかでももっとも嫉妬深いこの神を信奉するこれらの三派(どのひとつをとってみても決して一枚岩のように結束した陣営ではない)のあいだの多面的な抗争については、いまだに満足のいくような歴史も書かれておらず、偏見を排した解明もなされていないのが現状だ。とはいえ、三者のあいだの悲惨なまでの妥協不能性については、近代になってパレスチナという土地に収斂されてきた血みどろの抗争が豊富な現世事例を提供している。そういうわけで、ムスリムとキリスト教徒がためらいもなく──どちらも、ユダヤ教の存在を平気で無視して──「十字軍」や「ジハード」などという言葉を口にするのも、べつだん驚くにはあたらない。このような議題は、「伝統と現代性という危険な淵に挟まれて、浅瀬の中途で立ち往生してしまった男や女にとって、とても心強いのだ」とイクバール・アフマドは言う。

けれども、わたしたちは誰もがこの危険な淵で泳いでいるのだ。その点においては西洋人もムスリムも他の者たちもみな同列だ。これらの深みも歴史という大海につらなっているのであり、そこに畝をつけ、柵を立てて分割しようとしても、それは無駄というものである。時局は緊張しているが、わたしたちはあくまでも、有力な共同体と無力な共同体、宗教とは無縁の理性と無知の駆引き、正義と不正という普遍的な原則などを思考の軸にすえなければならない。広漠とした抽象論に走っても、つかの間の充足が得られるだけで、自己認識にいたることや事情を踏まえた分析は望むべくもないのだから。「文明の衝突」理論は、「宇宙戦争」[10]というのと同じようなイカサマの新機軸にすぎない。自己防衛的になった自尊心を補強するには役に立っても、現代の困惑させるような相互依存の現実を批判的に理解するためには使いものにならない。


訳注
1.本文後段にもあるように、この小論文はのちに加筆されてThe Clash of Civilizations and the Remaking of World Order (1996) として出版された。邦訳は『文明の衝突』鈴木 主税 (翻訳) 1998年 集英社 <戻る>

.Barnerd Lewis 英国出身の高齢の中東学者。米国におけるイスラム研究の第一人者でプリンストン大学名誉教授。The Roots of Muslim Rage は The Atlantic Monthly 266 (September 1990) に載った記事。最近も、フォr-リン・アフェアーズ誌に License to Kill (Foreign Affairs 1998 November/December )というすごいタイトルの記事を書いています。  <戻る>

2.Branch Davidian 最終戦争がおきるという教義を説くデイヴィッド・コレシュDavid Koresh(1959年テキサス州生まれ)を指導者とする再臨派集団。1993年4月、FBIによる強制捜査を契機にテキサス州ウェイコの教会にたてこもり二ヶ月近くにわたる銃撃戦の末、信者80人を道づれにして自殺。アメリカの世論では、政府による信教の自由の弾圧という非難も高く、その2年後に起こったオクラホマ・シティ連邦ビル爆破事件は、ウェイコへの強制捜査に抗議するものであったと言われる。
ジム・ジョーンズRev. Jim Jones は米インディアナ州生まれで、終末論を説く「人民寺院」(Pepole's Temple)の教祖。1978年11月、信者900人以上が南米ガイアナで集団自殺。300人以上が他殺だとされている。<戻る>

3.nationには帝国に対するローカルな国家、国民、民族という意味があるが、この文脈ではおそらく、アメリカ一国の覇権を強固なものにすることにより、そのような地域的勢力を無力化するという意味と思われる。<戻る>

4.Eqbal Ahmad (1933−1999)英国植民地時代のインドに生まれ、アメリカで教育を受けた政治学者・活動家。フィリップ・ヒッティのもとで学ぶかたわら、アルジェリア独立運動でFLNに参加しファノンと交友を結ぶ。その後、合衆国のヴェトナム介入に対する反戦運動でも早い時期から活躍した。マサチューセッツのハンプシャー大学に席を得て、パキスタンと米国の両方で教鞭をとり、「ニューヨーク・タイムズ」や「ネイション」、またパキスタンの「ドーン」などに寄稿していた。サイードのインタヴュー集『ペンと剣』の序文も書いている。<戻る>

5.Heart of Darknessはジョセフ・コンラッドによる1899年の小説(邦題『闇の奥』)。アフリカ大陸を舞台にヨーロッパ帝国主義の植民地支配が人間精神を腐敗させるさまを描いたもの。<戻る>

6.The Secret Agent この小説については、Collective Passionのなかに詳述がある。「宗教や道徳における原理主義者の困ったところは、今日の世界では、革命や抵抗運動についての彼ら原始的な観念(殺すことも殺されることも厭わないということを含め)が、高度なテクノロジーや自己満足的な途方もない象徴的蛮行とあまりにも容易に結びつくように思われることである。 (ジョセフ・コンラッドは、驚くべき先見性を発揮して早くも1907年、『密偵』The Secret Agentという小説の中でテロリストの原型を描いている。簡潔に「教授」と呼ばれるこの男は、どのような状況でも作動する完璧な起爆装置の完成のみに関心を持ち、手作りの爆弾を何も知らない哀れな少年に持たせてグリニッジ天文台に送り込み、「純粋科学」への攻撃としてこれを破壊する。)」<戻る>

7.Henri Pirenne, Mohammed and Charlemagne 邦訳『ヨーロッパ世界の誕生−マホメットとシャルルマーニュ−』増田四郎監修、中村宏・佐々木克己訳、創文社、1960<戻る>

8.ルイ・マシンニョン(一八八三〜一九六二年)フランスのイスラーム研究家。アル・ハッラージュを中心とするイスラーム神秘主義の文献学研究で知られ、ポール・クローデル、M・ブーバー、T・E・ロレンスなどとも交流があり、大きな影響力をもった。サイードは『オリエンタリズム』(今井紀子訳 平凡社)第三章でマシニョンをとりあげ、現代における典型的オリエンタリストとして詳細に論じている。マシニョンは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの一神教を、アブラハムという共通の父祖をもつものと考え、現代のパレスチナにおける対立も、このアブラハムの継承者としての地位をめぐる根源的な宗教的対立に還元してとらえようとする

。預言者アブラハムは旧約聖書の創世記に登場するノアの子セムの子孫で、ユダヤ教やキリスト教ではヤーヴェ、イスラム教ではアッラーと呼ばれる神とのあいだに排他的な信仰契約を結び、カナーンの地(パレスチナ)を約束された。ユダヤ教では、アブラハムとサラの子イサクの子孫がユダヤ人であり、自分たちはイサクを通して神との契約を継承しているとする。アブラハムにはエジプト出身の女奴隷ハガルとのあいだにイシュマイルという最初の子があったが、サラの要求で母子ともに荒野に追放された。イスラームの教えでは、このイシュマエルの子孫がアラブ人であり、イサクとその子孫によって神との契約から不当に除外された民族である。剥奪された神との契約を回復することがイスラームの中心課題となる。本文中で語られているのは、このような神話的な背景を現実の対立に投影しようとする傾向だろう。<戻る>

10.The War of the Worlds(1989)火星人が地球に攻めてきて大パニックになるというH.G.ウェルズのSF小説。1938年、これをラジオ番組に脚色したオーソン・ウェルズが、ハロウィンのスペシャル番組として臨時ニュースをよそおって放送したため、ほんとうに火星人の来襲があったものと思いこむ人々が続出、全米でパニックが起きた。<戻る>




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