Edward Said Extra サイード・オンライン

わたしたちは、貧困、無知、文盲、抑圧がわたしたちの社会にはびこるようになったことに対する自分たちの責任について考えはじめなければならない。わたしたちはシオニズムや帝国主義について不満をとなえているにもかかわらず、このような弊害が自分たちの社会に根をはることを許してきたのだ。 例えば、わたしたちのなかの何人が、宗教とは無関係な政治を率直に公然と擁護し、イスラエルや西洋におけるユダヤ教やキリスト教の世論操作を非難するときと同様の真摯で徹底した非難をイスラム世界における宗教の利用に対してぶつけてきただろうか?たとえわたしたしが植民地入植者に略奪され非人道的な集団的懲罰を受けているとしても、わたしたちのなかの何人が、すべての自爆作戦は不道徳であり間違っていると非難したであろうか? わたしたちはもうこれ以上、自分たちになされた不正義を盾にとってその裏に隠れていることはできないし、わたしたちの評判の悪い指導者たちをアメリカが支援しているからといって消極的にそれを嘆いてばかりいることはできない。 新しい非宗教的なアラブの政治を今こそ世に知らしめねばならないが、それに際して一瞬なりとも、無差別な殺戮をいとわぬような人々の戦闘行為(狂気の沙汰である)を容赦したり支持したりするようなことがあってはならない。 この点においては、これ以上曖昧さを許す余地はいささかもない。

今日アラブとしてのわれわれのおもな武器は軍事的なものではなく精神的なものであると、わたしは長年にわたり繰り返してきた。また、イスラエルの圧制をくつがえし自治を獲得しようとするパレスチナ人の闘争が、南アフリカにおける反アパルトヘイト闘争のように世界の人々の想像力に訴えることができない理由のひとつは、わたしたちが自分たちの目標や手段をはっきり自覚しているとは思われないこと、自分たちの目的とするところは他者の排除でもなければ牧歌的な神話の世界への回帰でもなく、「共生」であるということを十分にはっきりと表明してこなかったためであると述べてきた。 われわれは今こそ率直になり、多くのアメリカ人やヨーロッパ人が行っているように、自分たち自身の政策について検討し、さらに検討を重ね、熟考することに直ちに取りかからねばならない
反発と是正
Backlash and Backtrack
Al Ahram 2001年9月27-10月3日号

9月11日の大惨事とそれに対する猛烈な反発をムスリムとして体験してきた七百万のアメリカ人(アラブ系はそのうちの二百万に過ぎない)には、つらく、とりわけ居心地のわるい時期が続いている。アラブやムスリムのなかにもこの残虐行為の巻きぞえをくらった犠牲者は何人も出ているという事実に加え、ひとつの集団としてのかれらに向けられたさまざまな形をとった憎悪がはっきりと感じられるからだ。ジョージ・W・ブッシュはただちにアメリカを神と同列に置いたらしく、この恐ろしい凶行をしでかした「連中」──いまでは、「殺してもいいから捕まえろ」というお尋ね者だ 〔訳注1〕──に対し宣戦を布告した。 これが意味するのは、いまさら確認する必要もないだろうが、ウサマ・ビンラーディンという、おおかたのアメリカ人にとってはイスラームの代名詞となっている神出鬼没の狂信的ムスリムが脚光をあびるようになったということである。この謎めいた(昔は放蕩者だったといわれる)過激主義者について、テレビやラジオは保管してあった写真や履歴をほぼ間断なくたれ流している。同様に、アメリカの悲劇を「祝っている」ところを撮られたパレスチナ人の女性や子供たちの映像も、途切れることなくくり返されている <注1>。

有識者やキャスターたちは、イスラームに対する「われわれの」戦争について息つくまもなく語りつづけ、「ジハード」とか「テロ」といった言葉によって、国中に広がっている無理からぬ恐怖と怒りに油をそそいでいる。憤激した市民により、すでにふたりが(ひとりはシーク教徒だが)殺された。このような暴挙におよんだ人々は、国防省高官ポール・ウォルフォウィッツの発言<注2>などに助長されて、文字通りに「〔テロリストを支援する〕国々の息の根を止め」、われわれの敵に核をぶち込むというような発想に走ったのだろう。 何百人というムスリムやアラブの商店主、学生、ヒジャーブをまとった女性たち、一般市民が、侮辱をあびせられる体験をしており、「おまえらの死は近い」という落書きやはり紙がそこらじゅうに出現している。 最大のアラブ系アメリカ人団体の理事長が今朝わたしに語ったところでは、彼のところには一時間に10通の割合で、侮辱や脅迫や身の毛もよだつような言葉による攻撃のメッセ―ジがとどくそうだ。きのう発表されたギャラップ世論調査によれば、「すべてのアラブは、たとえアメリカ国民であっても、特別な身分証明書を携帯すべきである」という考えに、アメリカ人の49パーセントが賛成している(49パーセントは不賛成)。さらに、「すべてのアラブは、たとえアメリカ国民であっても、特別に設けられた厳重な保安検査を受ける」ことを要求する者は58パーセントに及んでいる(41パーセントは不要としている)。

その後、政府の強硬論は徐々に弱まってきた。ようやくジョージ・Wにも、同盟国は自分ほど抑制を欠いているわけではないということがわかってきたからだ。また、全般的にもっと分別がありそうに見えるコリン・パウエルを筆頭に、大統領顧問のなかの慎重派は、アフガニスタン侵攻はテキサスで州兵を派遣するように簡単なことではないと進言しているに違いない。ブッシュや閣僚たちが直面させられた現実は途方もなく混乱しており、善悪二元対立というこれまで彼が国民に訴えてきたような単純なマニ教的イメージは吹き飛んでしまった。 そういうわけで、事態を収拾する方向で明らかな努力がはじまっている(といっても、アラブやムスリムに対する警察やFBIのいやがらせの事例は、ひきつづき山のように報告されているのだが)。ブッシュはワシントンにあるモスクを訪問し、憎悪を煽るような演説は控えるようにと地域の有力者や議会に要請する。また少なくともレトリックの上では、「われわれの」友人であるアラブやムスリム(ヨルダン、エジプト、サウジアラビアといった常連だ)と、いまだ正体の明かされない「テロリスト」のあいだに区別を設けるよう努めるようになった。 上下両院の合同会議におけるスピーチで、ブッシュはたしかにアメリカはイスラームと戦争しているのではないと言った。しかし、ムスリムやアラブや中近東人らしい風貌の者に対する攻撃が、具体的なものも表現上のものも含め、全国各地に広がっていることに対しては、残念ながらなんの言及もなかった。パウエルは、イスラエルとシャロンが今回の危機を利用してパレスチナ人の抑圧を強化していることに対し、あちらこちらで不快感を表明している。しかし、一般的な印象としてはアメリカの政策はあいかわらず従来どおりの路線を踏襲しているようだ──ただ、現在は大規模な戦争が起こりつつあるらしいというだけのことだ。

おおやけの領域にアラブやイスラームについての肯定的な知識が存在するのであれば、それを頼みにして、極端にネガティブなイメージの横行に対し是正を図ることもできようが、そんなものはほとんど存在しない。貪欲で、執念深く、乱暴で、非理性的で、狂信的な人々というステレオタイプは結局いつまでもついて回るのだ。この国では、ひとつの主義主張としてのパレスチナは人々の想像力をとらえるにいたっていない。とりわけダーバン会議 <注3>の後ではその感が著しい。わたしの所属する大学は、知的な多様性ならびに学生やスタッフの人種・文化的背景の多様性で有名あるが、それでもクルアーン(イスラーム聖典)が教育課程に組み込まれることはまれである。 フィリップ・ヒッティによる『アラブの歴史』は、この主題について英語で書かれた一巻ものの現代書としてはもっとも秀逸なものだが、絶版の状態である。 現在、手に入る文献は、ほとんどが議論を前提とした論争的なものばかりだ。アラブとイスラームは論争の機会を提供するものであって、他のグループのように文化的および宗教的な主題にはならないというわけである。映画やテレビは、おそろしく見ばえの悪い、残忍な性根のアラブ人テロリストであふれかえっている。残念なことに、このような彼らのイメージは、世界貿易センターと国防省を襲ったテロリストたちが飛行機をハイジャックして大量殺戮の道具に変えるという、宗教よりは犯罪病理学の臭いが強い事件が起こる前から、すでにそこにあったのである。

印刷媒体においては、「いまやわれわれはすべてイスラエル人だ」という題目を肝に銘じよというマイナーなキャンペーンがあったようだ。すなわち、パレスチナ人の自爆攻撃としてときどき起こることは、世界貿易センターや国防省への攻撃とまったく同質ものであるという主張である。 もちろん、その過程でいつのまにか、パレスチナ人がこうむってきた土地収奪や抑圧ということは記憶からあっさり抹消されるのである。同時にまた、わたし自身もふくめ多くのパレスチナ人が自爆攻撃を非難していることも消し去られてしまう。 これらの総合的な結果として、9月11日の事件を、アメリカの行動やレトリックもふくめた全体の文脈のなかに位置づけてみようという試みは、テロリストの攻撃に容赦を与えるものであるとして、ことごとく攻撃され、退けられるのである。

知的にも、道徳的にも、政治的にも、このような姿勢は破滅を招くものである。理解することと容赦を与えることを同一視するのは根本的にあやまっており、真実からはほど遠い。 大多数のアメリカ人にとって信じることがむつかしいのは、国家としてのアメリカ合衆国の中東やアラブ世界における行動が深い恨みを買っており、アメリカ国民の名においてなされたとみなされている(けっして見当ちがいではない)ことである──イスラエルに対する無条件の支持、イラクに対する経済制裁によってサダム・フセインは見逃しながら、何十万もの罪のないイラク人を死や病気や栄養失調に追いやったこと、スーダン爆撃 <注4>、1982年のイスラエルによるレバノン侵略(二万人の市民が命を失い、サブラーとシャティーラの両難民キャンプで虐殺が起こった)にアメリカがゴーサインを出したこと、サウジアラビアや湾岸地域全般をアメリカの私領地であるかのように使い、アラブやイスラームの抑圧的な政権を援助してきたこと等々。 平均的なアメリカ市民が認識していることと、海外において(彼や彼女が意識していようがいまいが)推進されるしばしば不正で冷酷な政策とのあいだには、巨大なギャップがあるのだ。 イスラエルの入植推進政策や民間人に対する爆撃などを糾弾する国連安保理決議に対し、アメリカはことごとく拒否権を発動してきた。たしかにアイオワやネブラスカなどの住民にとっては、そんなことはたいした問題ではないとして軽くしりぞけることができるのだろうが、エジプトやパレスチナやレバノンの市民にとっては、はなはだしい屈辱であり、ひとつひとつ克明に記憶されているのだ。

換言すれば、具体的なアメリカの行動と、その結果としてのアメリカに対する態度のあいだには相克が成り立っているのであり、そこにはアメリカの繁栄、自由、世界で一人勝ちしていることなどへの嫉妬や憎悪などはほとんど関係していない。 それどころか、わたしが話したことのあるアラブやムスリムたちは例外なく誰もが困惑を表明している──なぜ、アメリカのように並はずれて豊かでりっぱな国(そして、ひとりひとりは非常に好感の持てるアメリカ人たち)が、国際関係においては弱小民族に対しこのように冷淡で忘れっぽいふるまいをするのだろうか? またアラブやムスリムの多くは、イスラエル・ロビーがアメリカの政策に大きな影響力を持っていることや、『ニュー・リパブリック』や『コメンタリー』のようなイスラエル寄り出版物がひどい人種差別と痛烈な非難をあびせていることはじゅうぶんに認識している。もちろん、チャールズ・クラウサマー、ウィリアム・サファイア、ジョージ・ウィル、ノーマン・ ポドレッツ、A・M・ローゼンタールなどのような攻撃的なコラムニストが、定期的にアラブやムスリムに対する憎悪と敵意をあらわにしていることについては言うまでもない。 しかも、これらは通常だれの目にもふれるようなメインストリームのメディアに堂々と掲載されているのであり(例えば『ワシントン・ポスト』紙の社説欄)、売れない出版物の隅に埋もれているわけではない。

というわけで、わたしたちは一触即発の不穏な空気とひどい気苦労のもとに日々を過ごしており、今後に予想されるいっそうの暴力とテロリズムの激化が意識に重くのしかかっている。とくに、9月11日の悲惨な事件がいまだ人々の意識になまなましく残っているニューヨークとワシントンでは、そういう空気は強い。 わたしは確かにそれを感じるし、まわりの者たちも皆そうである。

しかし一般メディアのひどい報道にもかかわらず、現状に異議を唱える声がゆっくりと表面化してきたことは心強い。平和的な解決や行動を求める請願が提出されており、爆撃や破壊をこのうえさらに重ねるのではなく、別の解決方法を探してみようという相対的には小さな声が、まだ断片的ではあるものの次第に広がっている。 ようやく表面化してきたこの種の思慮深さには、特筆すべきものがあると思われる。

まず第一に、政府が要求している(そして実際に獲得しつつあるように思われる)権限は、市民的自由と個人のプライバシーの後退につながるのではないかという懸念が大きな広がりを見せていることが注目される。電話の盗聴、テロリズムの嫌疑に基づく中東系の人々の逮捕・監禁、さらには人々のあいだに警戒や猜疑を誘発し、一定の方向への支持を煽るような権限を政府に許せば、マッカーシズムに似たパラノイアに発展する可能性があるからだ。読み取り方によっては、どこにでも国旗を掲げたがるアメリカ人の習癖はもちろん愛国的なものと考えられる。しかし愛国心は、不寛容や、(特定集団への)憎悪に基づく犯罪、その他ありとあらゆる不快な集団的熱狂へとつながる可能性があることも否定できない。 多くの解説者がこれについて警告しており、上述のように、ブッシュ大統領でさえも演説のなかで「われわれ」はイスラーム教やムスリムと戦っているのではないと言明している。 とはいえ、その危険はなくなったわけではなく、うれしいことに、そのことは他の解説者たちによっても正しく指摘されている。

第二に、軍事行動という大きな問題をめぐって多くの意見が寄せられ、多くの集会が開かれていることも指摘しておきたい。最近の世論調査によれば、アメリカ人の92パーセントが軍事行動を支持しているらしい。 しかし、この戦争の目的がなんであるのかを政府が正確に規定しておらず(「テロリズムを根絶する」というのは、現実というより抽象的スローガンである)、その手段も、計画も明らかにしていないため、われわれが軍事的にどこへ向かっているのかということについては、ぼんやりしたままである。 とはいえ全般的に、レトリックのうえでは黙示録的なところや宗教的なところが薄れ(十字軍という観念はほぼ完全に抹消された)、「犠牲」とか「比類のない長期戦」などという一般的な言辞の先にある、実際に何が必要になるのかということに主眼が置かれるようになってきた。

大学やカレッジや教会や集会所では、この国がどのような対応をとるべきかということをめぐって活発な議論が重ねられている。まきぞえになった犠牲者の家族が、軍事行動による復讐が適切な対応であるとは思わないという意見を公衆に向けて述べたとも伝えられている。 重要なのは、アメリカがとるべき行動について一般的にかなりの反省がなされていることである。だが残念ながら、中東やイスラーム世界におけるアメリカの政策について批判的な検証がなされるまでには至っていないことも、報告せねばならない。 いずれそのときが来ることをわたしは願っている。

せめてもう少し多くのアメリカ人、またそれ以外の人々が理解していてくれたらと思うのは、この良心と相互理解の共同体こそが、この世界の長期的な希望がおもに宿るところだということである。また、憲法上の権利の擁護においても、アメリカの支配力の犠牲になっている罪のない人々(イラクのように)に手をさし伸べることにおいても、理解と合理的な分析に依拠することにおいても、「われわれ」にはまだまだずっとよい仕事ができるはずだということも、もっと多くの人々に理解してもらいたいものだ。 もちろんそれが直接に、パレスチナに対する政策の変化をもたらすわけではないだろうし、防衛予算の偏りが是正されるわけでも、環境やエネルギー問題への取り組みの姿勢が賢明なものになるわけでもないだろう。しかし、この種のまっとうな方法による行き過ぎの是正をさしおいて、他のどこに希望をつなぐ余地があるというのか? こうした方向の支持層はアメリカにおいては増加するであろう。しかし、ひとりのパレスチナ人としては、アラブやムスリム世界においても類似の層が育ってくれることをわたしは願わずにおれない。 わたしたちは、貧困、無知、文盲、抑圧がわたしたちの社会にはびこるようになったことに対する自分たちの責任について考えはじめなければならない。わたしたちはシオニズムや帝国主義について不満をとなえているにもかかわらず、このような弊害が自分たちの社会に根をはることを許してきたのだ。 例えば、わたしたちのなかの何人が、宗教とは無関係な 〔訳注7〕政治を率直に公然と擁護し、イスラエルや西洋におけるユダヤ教やキリスト教の世論操作を非難するときと同様の真摯で徹底した非難をイスラーム世界における宗教の利用に対しても、ぶつけてきただろうか?たとえわたしたちが植民地入植者に略奪され非人道的な集団懲罰〔訳注8〕を受けているとしても、わたしたちのなかの何人が、自爆作戦はすべて不道徳であり間違っていると非難したであろうか? わたしたちはもうこれ以上、自分たちになされた不正義を盾にとってその裏に隠れていることもできないし、わたしたちの評判の悪い指導者たちをアメリカが支援しているからといって消極的にそれを嘆いてばかりいることはできない。 新しい非宗教的なアラブの政治を今こそ世に知らしめねばならないが、それに際して一瞬なりとも、無差別な殺戮をいとわぬような人々の戦闘行為(狂気の沙汰である)を容赦したり支持したりするようなことがあってはならない。 この点においては、これ以上曖昧さを許す余地はいささかもない。

今日、アラブとしてのわれわれのおもな武器は軍事的なものではなく精神的なものであると、わたしは長年にわたり繰り返してきた。また、イスラエルの圧制をくつがえし自治を獲得しようとするパレスチナ人の闘争が、南アフリカにおける反アパルトヘイト闘争のように世界の人々の想像力に訴えることができない理由のひとつは、わたしたちが自分たちの目標や手段をはっきり自覚しているとは思われないこと、自分たちの目的とするところは他者の排除でもなければ牧歌的な神話の世界への回帰でもなく、「共生」であるということを十分にはっきりと表明してこなかったためであると述べてきた。 われわれは今こそ率直になり、多くのアメリカ人やヨーロッパ人が行っているように、自分たち自身の政策について検討し、さらに検討を重ね、熟考することに直ちに取りかからねばならない。 自分たちに期待することが、他者に期待すること以下であってはならない。 わたしたちの指導者がどこへわたしたちを導こうとしているのか、またいかなる理由にもとづいてそうするのかを、すべての人々に立ち止まって考えてもらいたいものだ。 懐疑的態度や再評価は必需品であって、ぜいたく品ではないのだ。

Backlash and Backtrack
By Edward Said

Al-Ahram Weekly Online 27 Sep. - 3 Oct. 2001 Issue No.553
http://www.ahram.org.eg/weekly/2001/553/op2.htm



★注1
9月11日の事件当日からテレビで繰り返し流れつづけたこの映像については、つぎのような興味深い報告があります。
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★注2 慎重派のパウエル国務長官に対し、ラムズフェルドと並んで国防省タカ派をなすウォルフォヴィッツ国防副長官は、9月14日の国防省ニュース(DoD News)インタヴューで次のように発言している。<戻る>
Q: The president had said that the United States intends to find those who are responsible for these attacks and hold them accountable. But he and others, including you today, have also spoken about a much broader campaign that would seem to go beyond, in terms of targets, beyond those that may have been responsible for this particular attack. How should we look at that?

Wolfowitz: Well, I think the president's words are pretty good, so let me say, these people try to hide, but they won't be able to hide forever. They think their harbors are safe, but they won't be safe forever. I think one has to say it's not just simply a matter of capturing people and holding them accountable, but removing the sanctuaries, removing the support systems, ending states who sponsor terrorism. And that's why it has to be a broad and sustained campaign. It's not going to stop if a few criminals are taken care of.

★注3: Durban Conference
南アフリカのダーバンで2001年8月31日から約一週間の日程で開かれた国連主催の「世界人種差別撤廃会議」。人種差別をはじめあらゆるかたちの差別の撤廃をめざす同会議の開催は1978年と83年に続いて三度目にあたり、百数十カ国の政府代表や非政府組織(NGO)代表ら約一万二千人が集まり、説得力のある宣言と有効な行動計画の採択が期待されていた。しかし、かつての奴隷貿易と植民地支配への謝罪と補償をめぐるアフリカ諸国と欧米先進国の対立とならんで、アラブ諸国が提起したイスラエルのシオニズム(ユダヤ民族主義)批判の扱いという二つの問題で会議は終盤になって大きく紛糾。合衆国とイスラエルは、イスラエルがパレスチナ住民を弾圧しているとの文言を採択文書から削除できない見通しであることを理由に会議から引き揚げた。この事件は、地球温暖化防止のための京都議定書や包括的核実験禁止条約(CTBT)への参加を拒否するなどブッシュ政権の誕生以来つづいてきた一連のunilateralism(一方的外交)の流れに連なるものであり、この話題も冷めぬうちに9・11の事件が起こった。<戻る

★注4; Sudan Bombing
1998年8月7日に発生したケニヤとタンザニアの米大使館爆破事件への報復措置として、アメリカ(クリントン政権)は8月20日アフガニスタンとスーダンに対し巡航ミサイル・トマホーク100発程度を発射、計7カ所を攻撃した。スーダンではハルツーム郊外にある「アルシファ薬品工場」が爆撃された。アメリカは化学兵器(毒ガスのVX原料)製造の疑いがあったと主張しているが、その根拠はなにも提示されていない。この医薬品工場は子供用ワクチンをはじめ同国の医薬品の50%、マラリヤ治療薬などおもだった薬品の90%を供給していたため、基本的な医薬品の供給が長期にわたって停止したことによる人命の喪失は膨大なものにのぼると推察される。この事件については、たとえばチョムスキーが9/11日のテロ事件に匹敵するどころか、それを大きくしのぐ「アメリカによる残虐行為」と批判している。http://www.counterpunch.org/chomskyhitch.html (10/01/2001)<戻る


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