Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

パレスチナの人々は、オスロ合意に対しあまりにも高価な、法外な代償を支払っている。十年におよぶ交渉の果てに彼らが手にしたものは、まとまりのないばらばらに断片化された土地、イスラエルへの卑屈な奉仕を保証するよう仕組まれた保安機構、ユダヤ国家の繁栄と成長のために貧困化させられるような生活である。むなしい努力ではあったが、この10年間にわたしたちの一部の者は、合衆国とイスラエルが発する「和平」言語と現場での恐ろしい実態のあいだの距離は決して埋まらないということ、埋めようという意図さえも存在しないのだと確かに警告を発した。「和平プロセス」とか「テロリズム」というような語句は、どのような現実の指示対象を示すこともなしに定着した。土地の没収は見逃されるか、さもなければ「双務交渉」と呼ばれたが、一方の当事者は手段を選ばず欲しい領土の確保を強化しようとする一国家であったのに対し、他方は情報にうとい凡庸な交渉者の一団で、自分たちが交渉している土地についての信頼できる地図を手に入れるだけで(使いこなすのはもとより)4年間も費やしたような人々なのだ。


オスロになんの値うちがある?
What price Oslo?
Al Ahram Weekly 2002年3月14〜20日 No.577号

アルジャジーラのテレビ映像は燃え立つように鮮明だった。そこにはパレスチナの勇気がはっきりと映し出されており、それによってこれがこの時代を代表する「きわめつけ」の物語になっている。合衆国が気前よく無制限に供給する陸海空の軍事力が総力をあげて破壊しているのは、西岸地区の18パーセントとガザの60パーセントという、イスラエルおよび合衆国との10年にわたる交渉のはてにパレスチナ人に残された部分である。パレスチナの病院や学校や難民キャンプや一般住居が、武装ヘリコプターやF-16戦闘機やメルカバ戦車のなかに身を寄せたイスラエル軍の無情で犯罪的な襲撃の標的になってきた。それでもこの貧弱な武装のレジスタンス戦士たちは、この途方も無く力の勝った敵にもひるむことなく不屈の意地を見せて受けて立つ。合衆国ではCNNやNYタイムズのような新聞が、恥知らずにも、「暴力行使」が一方的なものであることを指摘するのを怠っており、本当は二者が対立しているのではなく、一つの国がその強大な軍事力を全開させて、武器も真の指導部も奪われた無国籍で難民化を繰り返す追放の民を壊滅させるために猛攻撃を加えている(「手ひどい一撃を食らわせる」というのが、イスラエルを率いる戦争犯罪人の恥知らずな言い草だ)のだという真相が示されることは決してない。シャロンの錯乱がどこまで嵩じたかを示す指標として、3月5日「ハーレツ」紙に彼が述べた言葉を引用してみよう。「パレスチナ自治政府がテロの黒幕だ。どこもかしこもテロまみれだ。アラファトが影でテロを操っている。我々が圧力をかけるのはテロを終わらせるためだ。アラファトがテロに対抗処置を取るなどと期待してはいけない。彼らのあいだに甚大な死傷を出してやらねばならない。そうすることではじめて彼らもテロを続けながら政治目的を達成することはできないと知るだろう。」


破壊志向と純然たる憎悪にとり憑かれた病的な精神の働きをさらけ出す一方、シャロンの言葉はまた、昨年9月以降世界に放たれた理屈や批判が破綻したことも示している。確かにテロリストによる非道な行為はあった。だが、すべてがテロに尽きるわけではない──政治や闘争や歴史や不正や抵抗も存在するし、国家テロも見落としてはならない。アメリカの大学教授たちやインテリ階級から不平の声がほとんど上がらぬまま、わたしたちはみな言語や意味のごたまぜの濫用に押し流されている。わたしたちの好まぬものはすべてテロとされ、わたしたちの行為は純然たる善──どれほど財や生命や破壊が要求されようと断固テロと戦うことが──ということになる。学生や市民の教育に際しての指針となる啓蒙主義の戒めは一掃され、復讐心と独善的な怒りの異常な馬鹿騒ぎ(富と力に恵まれたものだけに許されるようなたぐいのものだ)に取って代わられた。さすればシャロンのような四等品の悪党が、自分の行動にはそうする権利があると(模倣と類推によって)考えるようになるのも無理はない。なにしろこの世で最高の民主主義国において、テロとテロリズムを追求するなかで、法律も、憲法上の諸権利も、人身保護令も、さらには道理そのものまでもがごみ箱に行ったのだから。こんなふうに自分たちを煙にまくことを許し、4千万の人々が健康保険さえ持てずにいるというのに防衛予算が4千億ドルまで跳ね上がったことに公衆の議論を盛り上げることさえしなかったことによって、わたしたちは教育者として、市民としての自分の使命を裏切ったのだ。


イスラエル人、アラブ人、アメリカ人は、愛国心にかけてこれこれ出費やこれこれの破壊を我慢せよ、なぜなら正義がかかっているのだから、と告げられる。ばからしい。かかっているのは実際的な利害であり、それによって支配者は権力にとどまり、企業は利益を生みつづけ、人々は捏造された合意の中にとどめおかれるのだ──彼らがある朝目覚め、この技術を駆使した爆撃と殺りくの狂騒がわたしたちをどこに導くのかと問い始めない限りは。


イスラエルは今や紛れもなく一般市民に戦争をしかけているのだが、合衆国でそのように表現されるのを聞くことはないだろう。これは人種差別の戦争であり、戦略や戦術からは植民地戦争でもある。人々が殺され、一方的に大きな被害をこうむっているのは、彼らがユダヤ教徒ではないからだ。なんというアイロニーだ。それでもCNNは決して「占領」地とは言わない(代わりに「イスラエルでの暴力行使」と呼ばれるのが常だが、それではまるで主戦場はテルアビブのコンサートホールやカフェであるかのような印象を与え、本当は、すでに150カ所もの違法なイスラエル入植地に取り囲まれたパレスチナ人のゲットーや包囲された難民キャンプが戦場なのだという事実が見えてこない)。 過去10年間、オスロ合意という壮大な欺瞞が合衆国によって世界に押し付けられてきた。そこで返還の対象にされているのは西岸地区のわずか18パーセント、ガザ地区の60パーセントのみだということは、ほとんど認識されていない。地理的配置を知る者はいないし、知らないほうがよいのだ。なぜなら、口先の誇大宣伝や自画自賛に照らして、現地の実情はあまりにも驚くべきものだから。


そしてあのエセ識者──耐えがたいほど自惚れの強いトーマス・フリードマン──はいまだに、「アラブのテレビ」は偏った描写をするなどと、ずうずうしい発言をする。まるで「アラブのテレビ」がCNNの例に倣ってイスラエル側の視点からものごとを報道しなければならず、イスラエルがゲットーや難民キャンプのパレスチナ人にしかけている民族浄化にも「中東の暴力」などという何とでもとれるような言葉を使うべきだといわんばかりだ。フリードマンは(この点に関してはCNNでもいいのだが)これまで一度なりとも 、35年も占拠してきた地域の住民に植民地戦争をしかけている侵略軍と、その虐殺からわが身を守ろうと抵抗する人々との相違を指摘しようとしたことがあるだろうか? もちろん、ありはしない。パレスチナ側の占領地などは存在せず、パレスチナ側のF-16戦闘機、アパッチ攻撃ヘリ、小型砲艦、メルカバ戦車などというものもなく、要するにパレスチナ人がイスラエルを占領しているのではないのだということを、フリードマンがわざわざ正直に認める理由など、どこにもありはしないのだから。合衆国の見解を説明することにもアラブやパレスチナ人の大義を理解することにも率直に言って完全に失敗したフリードマンの正直な解説者・記者としての資格は、この程度のものなのだ。いったい彼には、自分自身と自分の記事がすでに問題の一部なのだということがわからないのだろうか。そのだらだらとした自己弁護と、他人には威張りくさって要求し続ける「自己批判」の痕跡すらうかがえぬ不誠実なやりかたによって、彼は無知と誤解を減少させるどころか実際にはいっそう助長しているのだ。ジャーナリストとしても教育者としても情けない代物だ、この男は。


ここ(合衆国)で与えられる状況説明では、イスラエル人が戦っているのは自分たちの生命を守るためであり、パレスチナの占領地にある自分たちの入植地と軍事基地を守るためではないということになる。アメリカのメディアではここ何カ月も、地図というものがまったく放映されていない。3月8日は、これまでのところ16カ月におよぶインティファーダで最も流血の激しかった日であるが、CNNの主力イブニング・ニュースは40人の「人々」の死亡を特定したもののそれ以上の具体性はなく、負傷者のところに向かう救急車が途中でイスラエルの戦車に阻止され、数人の赤新月社の職員が死亡したことさえ触れられなかった。 だだの「人々」であり、この人たちが35年にわたる軍事占領下で体験してきた生き地獄については何も描かれない。ツルカームは徹底的な包囲攻撃を受けている──24時間の外出禁止令、電気水道の遮断、組織的な一斉検挙と800人の若者の連行、難民住居の理不尽な破壊、不動産の一斉撤去(ナイトクラブやスポーツ施設のことを言っているのではない。二度も追い立てを食らった難民たちに最低限の棲家を提供していた掘建て小屋や下屋などのことだ)。丸腰で無防備の一般市民に対する嗜虐的な虐待の例はとどまるところを知らない。虐げられ殴られて出血したまま放置されて死亡する人々、イスラエル軍の道路封鎖で不必要に待たされている間に死産してしまう女たち、わたしの払った税金で賄われたM−16軽機関銃を振り回す18歳のガムを噛む若造の命ずるままに、衣服も靴も脱がされて裸足で歩かされる老人たち。 ベツレヘムでは、立派なF-16戦闘機(これもわたしが支払ったものだ)を快調に操る果敢なイスラエル兵によって5,000フィートの上空から爆撃され、タウンセンターも大学も跡形無く破壊された。バラタ難民キャンプ、アイダとデヘイシェ、アッザ(ベイト・ジブリン)難民キャンプ、Khadr やフサムのような小村などは、すべて瓦礫の山になるまで破壊されたが、それについて合衆国の新聞には一言の言及もなく、各紙のニューヨーク編集員たちは明らかに何の問題も感じていない(ほんの僅かな例外がときおり散見されるだけだ)。 数も確認されぬ死者と負傷者が埋葬もされず援助もないまま放置されており、もちろんその他にも何十万もの人々が、身体を損なわれ、歪められ、故意に加えられた被害に打ちのめされている。これを命じているのは現場から安全な距離を置いた緑あふれる閑静な西エルサレムにいる男たちで、彼らにとっては西岸やガザは遠く離れたネズミの穴であり、そこにうじゃうじゃ巣くっている虫やげっ歯類は「征伐」して駆除しなければならないというわけだ。火曜日には一連の攻撃でも最大のものとして、ラーマッラーが侵略された。140台のイスラエル戦車が町を荒らしまわっており、これによってイスラエルはすでに占拠したパレスチナ領土の再征服を完了した。


パレスチナの人々は、オスロ合意に対しあまりにも高価な、法外な代償を支払っている。十年におよぶ交渉の果てに彼らが手にしたものは、まとまりのないばらばらに断片化された土地、イスラエルへの卑屈な奉仕を保証するよう仕組まれた保安機構、ユダヤ国家の繁栄と成長をもたらすために貧困化させられるような生活である。むなしい努力ではあったが、この10年間にわたしたちの一部の者は、合衆国とイスラエルが発する「和平」言語と現場での恐ろしい実態のあいだの距離は決して埋まらないということ、埋めようという意図さえも存在しないのだと確かに警告を発した。「和平プロセス」とか「テロリズム」というような語句は、どのような現実の指示対象を示すこともなしに定着した。土地の没収は見逃されるか、さもなければ「双務交渉」と呼ばれたが、一方の当事者は手段を選ばず欲しい領土の確保を強化しようとする一国家であったのに対し、他方は情報にうとい凡庸な交渉者の一団で、自分たちが交渉している土地についての信頼できる地図を手に入れるだけで(使いこなすのはもとより)4年間も費やしたような人々なのだ。歪曲のなかでも最悪なのは、1948年以降の54年間を通じて、パレスチナ人の勇気と苦難を語るナラティブ(物語)が決して出現を許されなかったことだ。 わたしたち全員が、乱暴な狂信的過激主義者とされ、ジョージ・ブッシュとその一味が、当惑し系統的に誤情報を与えられた国民の意識に植え付けたテロリスト像とほとんど大差のないものとされている。これを助長し無批判に煽ったのは解説者やマスコミのスターたちの大群だ − (ウルフ)ブリッツァー、(ポーラ)ザーン、(ジム)レーラー、(ダン)ラザー、(トム)ブロウコウ、(ティム)ラサートなどや[いずれも米主要ネットワークのニュース・ショー花形アンカー]その同類。このような忠実な門徒がいそいそと付き従ってくるのなら、イスラエル・ロビーはほとんど必要ないくらいだ。


とはいえ、サウジアラビアの平和提案が論議の的、また希望の的になった現在、これをその本当の(そうであると考えられているものではなく)文脈に入れて考察することが必要だろう。 第一に、これは1982年のレーガン・プラン、1983年のファド・ブラン、1991年のマドリード・プランなどの焼き直しである。言い換えれば、これまで何度も提出されていながら結局はイスラエルと合衆国の両方が実施を拒否しただけでなく積極的に妨害した一連の計画に連なるものだ。 私の見るところ、唯一話し合う値打ちがあるのはイスラエルの完全撤退の段階についての交渉であり、オスロがそうであったように、イスラエルがきわめて不承不承ながらもどの土地の断片なら放棄する用意があるかというような交渉に引き込まれるべきではない。合衆国という偏向をきわめた「正直な」ブローカーが仲介するオスロ流儀の交渉を本格的に復活させるためには、あまりに多くのパレスチナの血が流され、あまりにも多くのイスラエルの侮蔑と人種差別に基づく暴力が放出されてしまった。しかし、誰もが気付いていることだが、おなじみのパレスチナ側の交渉者たちは、彼らの夢と幻想を断念してはおらず、占領地の急襲や爆撃が起こっているあいだにも平行して会合がもたれていた。けれども、わたしたちの家屋を取壊し人々を殺したようなやりかたでパレスチナ人の権利を踏みにじったイスラエル政府に不当な地位を与えるような交渉に入る前に、イスラエルの破壊的な政策によって引き起こされた数十年にわたるパレスチナ人の苦しみと実際の人的被害について当然与えられるべき重要性が認められなければならない。アラブとイスラエルの交渉は、これまでの歴史をカウントしない限り(この仕事のために良心ある歴史家と経済学者と地理学者によるチームが必要だ)進める値打ちはない。また同時にパレスチナ人は現在の不幸な出来事から何かを救済するという期待のもとに新しい交渉者や代表者の一団を選出しなければならない。


要するに、イスラエルとパレスチナ代表者の間にどのような話し合いがもたれるにせよ、そこでは、わたしたちの同胞に対するイスラエルの略奪行為のひどさに注意が向けられねばならず、過去においてよくあったように、それがあっさり無視されてしまうようなことではいけないのだ。 オスロは、結果的に占領を容認し、それ以前の25年間の占領で起こった建物と人命の破壊に容赦を与えた。その後さらにこれほどの大きな被害が追加された現在、イスラエルはその所業を償わねばならないという修辞的な要求さえ出さぬままに、同国に容赦を与え交渉の席を離れることを許すわけにはいかない。
政治とは、何が望ましいかではなく、何が可能であるかを問題にするものだ、わたしたちはイスラエルが若干の撤退を実施するだけでもありがたく思わなければならないと、わたしを諭す声が聞こえてきそうだ。 だが、それには強く反対したい。交渉は、イスラエルが何パーセントを返還するかということではなく、「いつ」完全な撤退が起こるのについて以外にはありえない。征服者や心なき破壊者には何一つ譲歩するものなどない。取り上げたものを返却し、自分に責任のある虐待について賠償を行うだけしうかないのだ。ちょうどサダム・フセインがクウェートの占領に対して責任を取るべきであり、実際にそうしたように。そのような目標の達成までには、まだだいぶ距離があるが、その一方で、ガザ地区と西岸地区のパレスチナ人全員が示した驚くべき不屈の勇気が、結果的にシャロンを政治的にも道義的にも打ち負かした。シャロンは遠からず首相の座を失うことになる。だが20年にわたり、シャロンの軍隊がアラブの都市を好き勝手に侵略し殺人と破壊を撒き散らしてきたというのに、集合的なアラブからの不平の声が上がることがなかったという事実が、アラブ世界の指導者たちの資質について多くを物語っている。


最後に、パレスチナがテレビで冒涜されているというのに自発的に口をつぐんでいる様々なアラブの統治者たちは、自分たちのしていることをどう思っているのだろう?わたしにはわからないが、想像するに、彼らも心の奥深くでは少なからず恥と不名誉を感じているはずだ。 軍事的にも政治的にも経済的にも、またとりわけ道徳的にも非力な彼らは、アメリカとイスラエルのチェス盤に乗った従順なポーン(歩兵)であることを除けば、信用も低く真の名声も得ていない。たぶん彼らは我慢大会をしているとでも思っているのだろう。たぶん。だが彼らは(アラファトやその部下たちと同じように)アラブはみな好戦的で過激主義者でテロリストの狂信者だと思っている人々の猛攻撃から自国民を守る方法として、システマティックに情報を撒き散らすことが大きな威力を持つということを学んでいない。明るい材料としては、この種の無責任で侮べつに値する行動が許される時間は、非常に短いということだ。だが新しい世代は少しはうまくやるだろうか?


わたしたちは集団として再び混乱と汚職と凡庸に陥るのだろうか、それともついに一つのネイションを形成することができるのだろうか?その答えを決めるのは、世俗教育に向けたまったく新しい態度である。

Al-Ahram Weekly Online 14 - 20 March 2002 Issue No.577


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