Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

一週間前、わたしはヨーロッパの友人から60人のアメリカ知識人による共同声明についてどう思うかと聞かれて面食らった。この声明はフランス、ドイツ、イタリアなど大陸ヨーロッパの主要各紙に発表されたのだが、合衆国のメディアには全く登場せず、インターネットを通じて少数の人々がそれに気づいただけだったのだ。この声明は、悪とテロリズムに対するアメリカの戦争は「正義」に基いており、アメリカの価値観に沿ったものであるということを大仰に説教するものであり、そこで言うアメリカの価値観とはわたしたちの国を解釈する役割を勝手に引き受けた者たちが定義したものである。これに資金と後援を与えたのはインスディチュート・フォア・アメリカン・ヴァリューとかいう団体で、その主な(そして多額の寄付を集める)目的は、家族や「父親らしさ」・「母親らしさ」や神などを重視する考えを広めることにある。この宣言にはサミュエル・ハンティントン、フランシス・フクヤマ、ダニエル・パトリック・モイニハンをはじめ多数の署名が載せられているが、基本的には保守派フェミニストのジーン・ベスキー・エルシュテインという学者によって書かれたものだ。 その中の「正義の」戦争についての主な議論を吹き込んだのはマイケル・ウォルツァー教授で、社会主義者とされるこの人物はアメリカのイスラエル・ロビーと手を組んでおり、その役割りはどことなく左翼風にひびく信条に訴えてイスラエルのあらゆる行為を正当化することなのだ。この声明への署名によって、ウォルツァーは左翼気取りを返上し、シャロンのように、アメリカはテロや悪と戦う正義の戦士であるとする(疑わしい)解釈と手を結び、それにより一層イスラエルと合衆国は似たような目的を持つ似たような国だという印象を強める役割りを果たしているのだ。・・・・・・・・・つまるところ、アメリカの知識人が彼らのムスリムの同胞に宛てたこの信条と不満の宣言は、真の良心の表明であるようにも、傲慢な力の行使に反対する真の知的批判であるようにも思われない。むしろこれは、アメリカによって布告された新しい冷戦の火蓋を切る一斉射撃のように思われる。
アメリカについての考察
Thoughts about America
Al Ahram Weekly 2002年2月28〜3月6日 No.575号

アラブ系やムスリムのアメリカ人で、自分が敵方に属していると現在感じていないような人物をわたしは一人も知らない。現時点で合衆国に住んでいることは、疎外感と幅広い敵意の対象として名指しされるという不愉快きわまりない経験をわたしたちに与えている。政府当局はイスラム教やイスラム教徒やアラブ人は合衆国の敵ではないとの声明をときおり出してはいるが、それを除く現状のいっさいはまさに正反対のことを訴えている。何百人というアラブ系やムスリムの若い男たちが警察やFBIによって不審尋問のために逮捕され、しかもやたら多くが拘留されている。空港の警備検査では通常、アラブ系やイスラム教徒の名前を持つ者はすべて脇に出されて特別な注意の対象となる。アラブ系の人々に対する差別的な行動がとられた事例は数多く報道されており、人前でアラビア語を話すことはおろかアラビア語の文書を読むことさえ、ありがたくない注目を招く可能性が高い。そしてもちろん、メディアはテロリズムやイスラムやアラブについての「専門家」の意見を不必要に多く取り上げる。彼らがとめどなく反復する単純化されたセリフは、わたしたちの歴史や社会や文化に対する敵意と虚説に満ちており、あたかもメディアそれ自体がアフガニスタンなどで展開する対テロリズム戦争の一つの武器と化したかのようだ。その鉾先は現在、イラクを「始末」するための攻撃と予想されるものに照準を合わせてたところに向かっているようだ。合衆国はすでにフィリピンやソマリアのように大きなムスリム人口を持つ国のいくつかに軍隊を派遣しており、イラクへの対抗手段も引き続き増強している。イスラエルはパレスチナ住民に対するサディスティックな集団懲罰を長期化させている。これらはすべて合衆国の一般世論の大きな賛同を得ているように思われる。


だが、一面の真実はあるものの、それは大きな誤解である。ブッシュやラムズフェルドなどがこれがアメリカだと言うものだけがアメリカではない。ブッシュや彼の顧問たちが一方的にテロリズムのレッテルを貼ったものとの「正義の戦争」に熱中しているというアメリカ像を、わたしが受け入れねばならぬという考えには強い不快感を持つようになっている。この戦争がわたちに割りふった役割は、物言わぬ証人となるか、または合衆国に住めることをありがたく思わなければならない防衛姿勢の移民となるかのどちらかである。だが歴史的な現実はそれとは異なる。アメリカは移民の共和国であり、建国以来ずっとそうであった。この国は法治国家であり、その法は神が定めたものではなく国民が定めたものである。 ほとんど絶滅させられた先住民すなわちアメリカ・インディアンを例外として、現在ここにアメリカ国民として住む者は一人のこらず素性をたどればどこか他所から渡って来た移民であり、ブッシュやラムズフェルドとてそれは同じである。 合衆国憲法にはアメリカ人であることに段階の相違があるとは書かれておらず、「アメリカ人の行動」として許されるものと許されないものなどという規定もない。「非アメリカ的」あるいは「反アメリカ的」言論や態度などと現在呼ばれるようになったものについても同様である。 こういうものは、「アメリカのタリバン」の発明であり、人々の言論や行動を統制したがるその姿はアフガニスタンの誰にも惜しまれなかった前統治者たちを不気味に連想させるものだ。たとえブッシュ氏がアメリカにおける宗教の重要性を強く主張したとしても、彼にはそのような見解を一般市民に押し付ける権限もなければ、皆を代表して発言する(神とアメリカと自分自身について中国などで宣言したように)権限も与えられていない。 憲法ははっきりと教会と国家の分離をうたっている。


もっとひどいものもある。 昨年11月に〔反テロ法の〕パトリオット・アクト(愛国法)を通過させることによって、ブッシュと彼に恭順する議会は合衆国憲法修正条項の第一、第四、第五、第八を圧殺・無効化・制限し、個人がきちんとした弁明や公正な裁判に訴える道を与えず秘密捜査や盗聴や無期限拘留を許すような法手続きを制定した。またグアンタナモ・ベイの囚人〔アルカイーダ兵〕に対する処置をみればわかるように、この法律は合衆国の行政部門が囚人を誘拐して無期限に拘留し、彼らが戦争捕虜であるか否か、ジュネーブ協定が適応されるか否かを一方的に決定することを許している(そのようなことはそもそも個々の国家が決定するものではない)。そのうえ、デニス・クシニッチ下院議員(Dennis Kucinichオハイオ州の民主党議員)が2月17日のすばらしいスピーチで述べたように、大統領とその部下たちは範囲の限定も理由もなしに世界に対して宣戦布告(不朽の自由作戦)する権限は与えられておらず、軍事予算を年間4000億ドル超に拡大するような権限も、権利章典(Bill of Rights)を無効にするような権限も与えられてはいないのだ。 さらに彼は、「我々は、9月11日に亡くなった罪のない人々の血をアフガニスタンの罪のない村人の血で償ってくれと頼んだ覚えはない」と付け加えた──高名な公選議員がこのような発言をしたのは初めてのことだ。クシニッチ下院議員の演説は、アメリカの信条と価値観の最良のものを踏まえたものであり、これが完全な形でアラビア語で出版されることをわたしは強く推奨したい。そうすれば、アメリカはジョージ・ブッシュやディック・チェイニーの都合にあわせてあつらえた一枚岩ではなく、じっさいには数多くの声や思潮が存在しており、この政府はそれを黙らせるか問題とされぬようにしたがっているのだということが、こちら側の世界〔アラブ圏〕の人々にも理解できるようになるからだ。

今日の世界がかかえる問題は、合衆国の空前で比類のない力にどう付き合っていくかということである。合衆国は事実上、ブッシュ周辺の一握りの人々が国益だと考えるものを追求するに際して、他国の協調や承認など必要としないということを隠そうともしない。 中東に関するかぎり、9月11日以降、合衆国の政策がほとんどイスラエル化したような事態が起こっていると思われる。実際のところ、アリエル・シャロンと彼の仲間たちはジョージ・ブッシュがひたすら「テロリズム」に注意を集中しているのをいいことに、それをシニカルに利用してパレスチナ人に対する彼らの破綻した政策の続行を隠蔽している。ここで重要なのはイスラエルは合衆国ではないということ、そして(ありがたいことに)合衆国はイスラエルではないということである。差しあたってはブッシュの支持を自由に享受しているものの、イスラエルのような小国がアラブ・イスラム諸国に囲まれて少数民族国家として存続していくにためには、合衆国への当座の(無制限ではないとしても)依存が必要なだけでなく、むしろ周囲の環境に自分を順応させることの方が肝心である。その逆ではない。シャロンの政策が自滅的であることを最終的にかなり多くのイスラエル人が理解するようになったのはこのためだろう。そしてまた、次第に多くのイスラエル人が軍事占領への奉仕に反対する予備役士官の立場を自分たちのアプローチと抵抗のモデルととらえるようになってきたのもそのためであろう。これはインティファーダから生まれた最良の結果である。これは占領に抵抗するパレスチナ人の勇気と果敢な反抗がついに実を結んだことを証明している。

だが変わっていないのは合衆国の立場である。それはますます抽象的な領域へ向かってエスカレートしており、ブッシュとその配下の者たちは自分たちを(まさしく「不朽の自由」という軍事作戦の名前にあるように)正義、純潔、善、天与の運命と同一視し、外部の敵を同じように絶対的な悪と同一視している。ここ数週間の世界の新聞を読んでいれば誰の目にも明らかなことだが、合衆国の外にいる人々はこの国の政策のあやふやさに当惑すると同時にあきれ返っている。その政策が主張するのは、合衆国は想像によって世界規模の敵をつくり出し、それに戦争を仕掛け、敵についての正確な定義も、明確な目的も、具体的な着地点も、さらにひどいことにはそのような行為の法的根拠さえいいかげんなままにしておく権利をもつということなのだ。 わたしたちの住むような世界で「邪悪なテロリズム」を打倒するというのは、どういう意味なのだ? まさか合衆国にたてつくものは一人残らず抹殺するなどという無限定で異様に掴みどころのない使命を意味するはずはなし、世界地図を合衆国の都合にあわせて変更し、わたしたちが「善良」だと思う人々をサダム・フセインのような悪党に置き換えることであるはずもない。 こういうような極端な単純化はワシントンの高級官僚たちには魅力的なのだ。彼らは完全に理論的な領域を専門としているか、さもなければ国防省に勤務しており、ほどんど敵無しの巨大な合衆国の軍事力の遠く離れた標的としてこの世界を見る傾向がある。もし周知の悪者国家のいずれからも10,000マイルは離れたところに住んでおり、手許には自由に使える莫大な数の軍用機、19隻の航空母艦、何十隻もの潜水艦があり、それに加えて150万人の軍人がみな喜んで国に奉仕(ブッシュやコンドリーザ・ライス〔国家安全保障担当大統領補佐官〕が悪として言及しつづけるものの追跡)しようという気持ちに燃えているという条件が与えられているならば、いつかどこかでその力を全開させてみたくなるのが人情だろう。とりわけ行政府がすでに膨張した軍事予算に何十億ドルもの積み増しを要求しつづけ(そして承認され)ているような場合にはその可能性は高い。

わたしに言わせれば、これらすべての中で最もショッキングなことは、わずかな例外を除いてこの国の著名な知識人や評論家のほとんどがブッシュの計画を大目に見ていることである。大目に見るだけでなく、一部の目に余るようなケースでは、さらにその先をめざし、もっと独善的な詭弁、もっと無批判な自賛、もっと見かけ倒しの議論を提唱するものさえある。こういう人たちが拒絶しているのは、わたしたちが住むこの世界、諸国や諸民族の歴史の世界は、政治によって動かされ、政治によって理解されるものであり、善や悪のような巨大な一般抽象概念を用い、アメリカは常に善、敵はいつも悪と決めつけることによってではないということだ。 トーマス・フリードマンはアラブに対し、もっと自己批判的であるべきだとうんざりしたように説教するが、御本人の言葉にはどこを探しても自己批判のかけらもみられない。彼は9月11日の惨劇によって他者に説教する資格が自分に与えられたと考えているようだが、それではまるで、このような恐ろしい損失を被ったことがあるのは合衆国だけであり、世界の他のところで失われた人命は同じ程度に悲嘆するには値せず、同じように重大な倫理的結論を導くものでもないといわんばかりだ。

同じような矛盾と理解の欠如は、イスラエルの知識人がもっぱら自分たちの悲劇にのみ注目し、国も陸軍も空軍も適切な統率者もない追放された民、すなわちパレスチナ人が味わっているずっと大きな苦しみを、考慮の対象から外していることにも認められる。イスラエルによって加えられるパレスチナ人の苦しみは時々刻々と休むことなく続いているのだ。この種の倫理判断の欠如、罪を犯したものと犯されたもの(こういう倫理的な言葉は大嫌いでふつうは避けるのだが)の相対的な証拠を値ぶみして計りにかける能力の欠如が当世の風潮となっているが、その罠に陥らぬようにすることが──いやむしろ、それに陥ることに反対する運動を積極的に推進することが──批判的な知識人のつとめであるはずだ。すべての人の苦しみは平等であると当たり障りのない発言で済ませておいて、その後は基本的におのれの不幸を嘆き悲しむというようなことでは不充分だ。最強の陣営の所業に目を開き、それを正当化するのではなく疑問視することの方がはるかに重要だ。巨大な権力はそれを抑制し明確化する判断力と相対的な視点をつねに必要としており、知識人はそれに異を唱え、それを批判する声となって、犠牲者が(しばしば起こりがちなように)非難され、強大な権力が意志を通すことが促されることのないようにしなければならない。

一週間前、わたしはヨーロッパの友人から60人のアメリカ知識人による共同声明についてどう思うかと聞かれて面食らった。この声明注1>はフランス、ドイツ、イタリアなど大陸ヨーロッパの主要各紙に発表されたのだが、合衆国のメディアには全く登場せず、インターネットを通じて少数の人々がそれに気づいただけだったのだ。この声明は、悪とテロリズムに対するアメリカの戦争は「正義」に基いており、アメリカの価値観に沿ったものであるということを大仰に説教するものであり、そこで言うアメリカの価値観とはわたしたちの国を解釈する役割を勝手に引き受けた者たちが定義したものである。これに資金と後援を与えたのはインスディチュート・フォア・アメリカン・ヴァリューとかいう団体で、その主な(そして多額の寄付を集める)目的は、家族や「父親らしさ」・「母親らしさ」や神などを重視する考えを広めることにある。この宣言にはサミュエル・ハンティントン、フランシス・フクヤマ、ダニエル・パトリック・モイニハンをはじめ多数の署名が載せられているが、基本的には保守派フェミニストのジーン・ベスキー・エルシュテインという学者によって書かれたものだ。 その中の「正義の」戦争についての主な議論を吹き込んだのはマイケル・ウォルツァー教授で、社会主義者とされるこの人物はアメリカのイスラエル・ロビーと手を組んでおり、その役割りはどことなく左翼風にひびく信条に訴えてイスラエルのあらゆる行為を正当化することなのだ。この声明への署名によって、ウォルツァーは左翼気取りを返上し、シャロンのように、アメリカはテロや悪と戦う正義の戦士であるとする(疑わしい)解釈と手を結び、それにより一層イスラエルと合衆国は似たような目的を持つ似たような国だという印象を強める役割りを果たしているのだ。


これほど真実からかけ離れたことはない。合衆国は間違いなくその市民のための国家でしかないが、イスラエルはそこに住む市民の国家ではなく、ユダヤ人の国家だからである。その上、ウォルツァーは、イスラエルを支持するからには自分は民族・宗教的な原則で組織された国家を支持しているのだと大胆に述べる勇気を持ったことないが、もしそのようなことがこの国で起こり、合衆国は白人とキリスト教徒の国だなどと宣言されたならば彼は反対するはずだ(典型的な偽善だ)。


ウォルツァーの無定見と偽善はさておき、この文書は本当に「わたしたちのムスリムの同胞」に宛てたものであり、ムスリムたちは、アメリカの戦争が敵としているのはイスラムではなく、あらゆる信条に反対する者たちだということを理解するものと期待されている。それに異を唱えることは難しい。人はすべて平等であり、神の名のもとに殺すことは悪いことであり、良心の自由は結構なことで、「社会の基本的な主体は人間としての個人であり、政府の正当な役割は人類が繁栄する条件を守り育むことである」などという信条にだれが反対できようか?


だがこれに続く部分では、アメリカこそが被害者であるということになっている。それが犯した政策上の誤りも一部は手短に(しかも何ひとつ具体的な事例は挙げずに)認められはするものの、合衆国はその独特の信条──例えば、すべての人々は生まれつき道徳的な尊厳と地位を所有している、普遍的な道徳的真理は存在しすべての人々に開かれている、意見の不一致があるときには礼儀を尽くすことが大切だ、良心と信仰の自由は基本的な人間の尊厳の反映であり、普遍的に承認される、など──を遵守しているとして描かれている。結構なことだ。なにしろ、この長たらしい説教の著者たちは、こうした素晴らしい原則が破られることも稀ではないと述べているくせに、そのような違反が実際にいつどこで起こったのか(いつでも起こっているように)、違反される方が遵守されるよりも頻繁なのかどうか、あるいは何もよいからその程度は具体的なことを述べるつもりはないのだから。それにもかかわらず、ウォルツァーと同僚たちは長い脚注をつけて、ムスリムやアラブ人の手によるアメリカ人の「殺害」が何件起こったかというリストを掲げている。そこには1983年のベイルートにおける海兵隊員のケースやその他の軍隊戦闘員のケースも数え上げられている。この種のリストを作成することは徹底したアメリカ擁護者にとっては値打ちがあるのだが、アラブ人やムスリムの殺害 − 合衆国の支援のもとにアメリカ製の武器によってイスラエルに殺された何十万という人々や、合衆国の制裁措置の継続によって殺されたイラクの何十万という無実の一般住民たちを含め− については言及する必要も表にまとめる必要もないというわけだ。 アメリカの共謀と協力のもとにイスラエルがパレスチナ人に屈辱を与えることにどのような尊厳があるというのか?パレスチナ人の子供たちが殺され、何百万というパレスチナ人が包囲され、さらに何百万人ものパレスチナ人が国籍のない難民のままに置かれていることに対し一言も言及しないことのどこに気高さと道義的な判断があるというのか? そのことについては、ベトナムやコロンビアやトルコやインドネシアでアメリカの支援と黙認のもとに殺された何百万の人々についても同じことが言えるのではないのか?


つまるところ、アメリカの知識人が彼らのムスリムの同胞に宛てたこの信条と不満の宣言は、真の良心の表明のようにも、傲慢な力の行使に反対する真の知的批判であるようにも思われない。むしろこれは、アメリカによって布告された新しい冷戦の火蓋を切る一斉射撃のように思われる。それが皮肉な形で完全に同調しているのは「われわれの」戦争は西洋やアメリカとの戦いであると主張しているイスラム主義者たちだ。アメリカにもアラブにもその一員としての資格を持つ人間として、わたしはこの種のハイジャック的なレトリックにきわめて不快なものを感じる。 それは信条の説明と価値観の表明を装いながら、実際にはその正反対を実践している。知ろうとしないことの実践、愛国的なレトリックで本物の政治や本物の歴史や本物の道徳問題を覆い隠すことによって無知を助長し、読者の目をふさごうとするものなのだ。偉大な「信条と価値観」の下品な密売にもかからわらず、この声明文は外国の読者を脅して服従させるための威張りくさったやり方でそれらのものを振り回しただけだ。この文書がアメリカで公表されなかった理由は二つあるのではないかと思う。第一に、公表すればアメリカの読者からこっぴどく批評され、問題外のお笑い種とされてしまうだろうということ、第二に、この文書は、戦争遂行の一環としてプロパガンダを流すという最近発表された国防省の莫大な予算のついた計画の一部として作成されたものであり、したがって外国人に読ませることが目的だということだ。


いずれにせよ、「アメリカの価値観とはなにか?」の公表は、知識人の言説の生産における新たな堕落の時代の前兆となるものだ。 というのも、世界史上最も強力な国の知識人たちが、その権力と紛れもなく手を結び、自制や反省や本物のコミュニケーションと理解を強く要望するどころか、その権力の主張を押し進めるようになったとき、わたしたちはかつての知識階級の反共闘争という不快な体験の時代に戻ることになるからだ。この反共闘争が、いかに多くの妥協と対敵協力とでっち上げを、本来まったく別の役わりを果たすはずの知識人や芸術家のあいだにもたらしたかということは現在では周知のことである。 政府の助成金や寄付を受け(特にCIAは、Encounter のような雑誌に助成金を出し、学問的な研究や旅行、コンサート、展覧会などへの寄付も出している)、1950年代から1960年代の徹底的に無反省で無批判な知識人や芸術家たちは、知的な誠実と共謀という概念全体に破滅的な新側面をもたらした。 というのは、そのような努力に平行して、討論に蓋をし、批評家に脅しをかけ、思想を制限する国内の運動が繰り広げれたからである。 私自身を含め多くのアメリカ人にとって、これはわたしたちの歴史の恥ずべきエピソードである、そのようなものが復活することに対しては警戒を怠らず抵抗しなければならない。


注1 <戻る>「アメリカからの手紙──わたしたちは何のために戦っているのか」は中山元さんのサイトPolygolosに全訳が載っています。
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