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この種の意図的な誤情報をジョージ・オーウェルは「ニュースピーク」とか「二重思考」 と呼んだ。犯罪的な行為、とくに不正な人殺しを覆い隠すために、うわっつらだけの正当化や理由づけを用いようとすることだ。イスラエルの場合には、パレスチナ人から土地を略奪するにあたって、彼らを黙らせたり、目につかないようにしておきたいという意図が常に働いており、その結果として、事実がまるごと、あるいは大きな部分において隠蔽され、大掛かりな歴史の捏造が行われることになるのだ。過去数ヶ月にわたってイスラエルが世界に対して証明したいと望み、それに成功してきたのは、イスラエルこそがパレスチナ人の暴力行為とテロによる罪のない被害者なのであって、アラブやムスリムはただユダヤ人に対する手のつけられないほど不合理な憎しみのためだけにイスラエルと対立しているのだということだ。それ以上でも以下でもない。

そしてこのキャンペーンをこれほど効果的にしているのは、西側が自らの反ユダヤ主義に対して持つ積年の罪悪感だ。この罪の責任を別の民、すなわちアラブ人に転嫁してしまうことほど、都合のよい手が他にあるだろうか。そうすれば、自己を正当化できるだけでなく、ひどく中傷され傷つけられてきた民のために、何かいいことをしたのだと救いを感じることもできる。


プロパガンダと戦争
Propaganda and War
Al-Ahram Weekly Online 30 August - 5 September 2001 No.549

アル=アクサ・インティファーダのときほど、メディアが戦争の方向の決定において影響力を持ったことはない。この闘争は、西側のメディアに関するかぎりは、本質的にイメージと観念をめぐる争いとなってしまった。イスラエルはすでに何億ドルもの大金をヘブライ語で「ハスバラー」と呼ばれる外の世界に向けた情報活動(つまりプロパガンダ)につぎ込んできた。

ここにはあらゆる領域の努力が含まれている。有力ジャーナリストに昼食や招待旅行をふるまうこともあるし、ユダヤ系の学生たちを人里離れた田舎の合宿に集めて1週間ほどトレーニングし、キャンパスの中でイスラエルを「擁護する」ための予備知識を注入するセミナーもある。下院議員たちを招待や訪問やパンフレット送付で攻めまくり、とどめに選挙運動資金を提供すること、現在もつづいているインティファーダを取材する写真家や作家たちを指導して(必要ならば嫌がらせをしてでも)一定のイメージをつくりだし、邪魔なものは排除すること、著名なイスラエル人をつかって講演やコンサート・ツアーを行い、評論家を訓練してホロコーストや今日のイスラエルの苦境について頻繁に言及させるようにすること、アラブを攻撃しイスラエルを褒め称える新聞広告を大量に打つこと、等々。メディアや出版業界の有力者の多くがイスラエルの強烈な支持者であるという事実が、この仕事を大幅にやりやすくしている。

こうしたことは、すべての近代国家が、民主的であろうがなかろうが、1930年代から1940年代にかけての時期いらい、目的遂行の手段として用いてきたさまざまな仕掛け──ニュースの受け手のあいだに合意と承認をつくり出すこと──のほんの一部にすぎないが、これらの方策をアメリカにおいてこれほどまでに効果的かつ長期にわたって使いこなしてきた国家や圧力団体は、イスラエルのものをおいて他にない。

この種の意図的な誤情報をジョージ・オーウェルは「ニュースピーク」とか「二重思考」 と呼んだ。犯罪的な行為、とくに不正な人殺しを覆い隠すために、うわっつらだけの正当化や理由づけを用いようとすることだ。イスラエルの場合には、パレスチナ人から土地を略奪するにあたって、彼らを黙らせたり、目につかないようにしておきたいという意図が常に働いており、その結果として、事実がまるごと、あるいは大きな部分において隠蔽され、大掛かりな歴史の捏造が行われることになるのだ。過去数ヶ月にわたってイスラエルが世界に対して証明したいと望み、それに成功してきたのは、イスラエルこそがパレスチナ人の暴力行為とテロによる罪のない被害者なのであって、アラブやムスリムはただユダヤ人に対する手のつけられないほど不合理な憎しみのためだけにイスラエルと対立しているのだということだ。それ以上でも以下でもない。

そしてこのキャンペーンをこれほど効果的にしているのは、西側が自らの反ユダヤ主義に対して持つ積年の罪悪感だ。この罪の責任を別の民、すなわちアラブ人に転嫁してしまうことほど、都合のよい手が他にあるだろうか。そうすれば、自己を正当化できるだけでなく、ひどく中傷され傷つけられてきた民のために、何かいいことをしたのだと救いを感じることもできる。どんな犠牲を払ってもイスラエルを擁護すること──パレスチナ人の土地を軍事占領下におき、強大な軍事力を持ち、イスラエル人1人に対し4人から5人の比率でパレスチナ人を殺傷しているのはイスラエルなのだが──が、プロパガンダの目標である。加えて、イスラエルがいままでどおりの所業をつづけながら、それでも犠牲者とみられることに何ら変わりはないようにすることだ。

だが、この比類のない不道徳なたくらみが途方もない成功を収めている大きな理由は、このキャンペーンが細部まで綿密に計画され、実行されているということもさりながら、アラブ側がほとんど存在しないに等しかったという事実によるところが大きいことは間違いない。アラブの歴史家がイスラエルが誕生してからの最初の50年を振り返るとき、逃れようもない巨大な歴史的責任を負わされるのはアラブ諸国の指導者たちだろう。彼らは犯罪的にも──犯罪的だとも──こんなことがつづくのを許し、最小限のおざなりの対応さえしてこなかったのだ。その代わりに、彼らはそれぞれにお互いをみな敵対視し、アメリカ政府に取り入れば(アメリカのクライアントになることさえ辞さない)、それがアラブの利益になるかどうかは別として、みずからの権力の安泰は保障されるという、救いがたく身勝手な理屈に走ったのである。

こうした考えはあまりに根深く浸透しているため、パレスチナの指導部でさえもそれに染まっている。そしてその結果、インティファーダが展開しているというのに、一般のアメリカ人たちは、パレスチナ人にも少なくともイスラエルの建国まで遡る苦しみと追放の物語が存在するということに、少しも気づくことがなくなってしまったのだ。一方アラブの指導者たちはワシントンに駆け込んで、アメリカの保護を求めている。彼らには、アメリカ人は3世代にわたってイスラエルのプロパガンダのもとに成長し、アラブはうそつきのテロリストであり、取引する相手にはふさわしくなく、保護するなんてもってのほかだと信じているということが、まるでわかっていないのだ。

1948年以降、アラブの指導者たちがアメリカでイスラエルのプロパガンダにあえて立ち向かおうとしたことは一度もない。軍事支出に投入された(最初はソ連製、後には西側の武器を購入した)膨大なアラブ・マネーはすべて水泡に帰した。アラブ側の努力には情報活動による援護がなく、忍耐強く秩序立てて説明されることもなかったからだ。その結果、文字通り何十万というアラブ人の死が無駄になった。まったくの犬死である。世界にひとつしかない超大国の市民は、アラブ人というものはやることなすことすべてが浪費的で、乱暴で、狂信的で、反ユダヤ的だと信じ込まされるに至った。イスラエルだけが「わたしたち」の同盟国だ。だからこそ、1967年以降で920億ドルにも達する援助が疑問をはさまれることもなくアメリカの納税者からユダヤ国家へと支払われてきたのだ。先に述べたように、アメリカの政治的、文化的な領域に働きかけようとする計画や思考がアラブ側にまったく欠落していたことが、1948年このかた、驚くべき規模に達するアラブの土地と生命がイスラエルによって(アメリカの援助のもとで)奪われたことに、かなりの(だが全てではない)の責任を負っている。この大きな政治的犯罪については、アラブの指導者たちがいつの日か責任をとってくれることに期待したい。

ここで思い出されるのは1982年、ベイルートの包囲戦の最中に、成功したパレスチナ人の実業家や著名な知識人たちによる大きな民間公益団体がロンドンで会合を開き、パレスチナ人をあらゆる方面から支援するための基金を設立したことだ。PLOはベイルートに閉じ込められて、身動きがとれない状態になっていたため、こうしたかたちの動員はわたしたちの自助努力の助けになるだろうと思われた。資金は迅速に集められ、かなりの議論を経た後に、資金のちょうど半分は西側における情報活動に使われるということが決定された。例によって、パレスチナ人がイスラエルによって弾圧されているというのに、西側では犠牲者を支援する声がほとんどあがっていなかったので、資金を投じて広告やテレビ番組や巡回講演などを通じた宣伝活動を行い、ぞれによってパレスチナ人を殺したり、弾圧しても不満の声も上がらず、気づかれることさえないという状況に歯止めをかけ、そんなことをするのが少しは難しくなるようにすることが急務であると考えられたのだ。

とりわけアメリカにおいてはこれが重要であると、わたしたちは考えた。この国の納税者の金が、イスラエルの非合法な戦争、入植地、征服に対する助成金として使われていたからだ。およそ2年間、この方針は堅持された。だがその後は、わたしにはいまだによくわからない理由から、アメリカにおけるパレスチナ人の支援という努力は唐突に打ち切られた。わたしがその理由を尋ねると、湾岸地域の事業で財をなしたパレスチナ人の紳士から、アメリカに「金をばら撒く」のは浪費であると告げられた。今では慈善事業は占領地とレバノンだけに活動を絞っている。そこではこの団体もよくやってはいるのだが、欧州連合や無数のアメリカの基金が出資するプロジェクトに比べれば、その効果はきわめて小さなものにとどまっている。

数週間前、アメリカン=アラブ差別防止委員会(American-Arab Anti-Discrimination Committee: ADC)というアメリカのアラブ系アメリカ人組織の中では飛びぬけて大きく影響力のある団体が、アメリカ人はいまパレスチナ・イスラエル紛争をどうみているかという意識調査を外部に委託した。ひじょうに広範囲にわたる幅の広い住民が抽出されて意見を問われ、そこからじつに驚くべき、がっくりするとも言えるような結果がまとめられた。イスラエルの指導者たちはあまり好感をもたれていなかったものの、イスラエル人はいまだに先駆者的で民主的な国民であると考えられている。アメリカ人の73パーセントがパレスチナの国家という考えを容認しているというのは、驚くべき結果である。

この統計値を解釈すれば、テレビを見、エリート紙を読む教養あるアメリカ人に、「独立と自由をめざすパレスチナ人の闘争に共感しますか」と尋ねれば、答えはたいがい「イエス」であるということだ。けれども同じ人物に「パレスチナ人についてどう思うか」と訊いたならば、答えはほとんどいつもネガティヴだ──暴力とテロリズムである。パレスチナ人のイメージは、非妥協的で攻撃的な「エイリアン」、すなわち「わたしたち」とは違っている、というものだろう。投石する若者たちは、わたしたちにとっては巨人ゴリアテに立ち向かう少年ダヴィデだが、たいていのアメリカ人がそこに見るのはヒロイズムよりも攻撃性だ。アメリカ人はいまだにパレスチナ人は和平プロセスを妨害していると非難する。その最たるものがキャンプ・デーヴィッドだ。自爆攻撃は「人間らしくない」ことだと見られていて、どこへいっても非難される。

アメリカ人がイスラエル人について考えていることが、これよりずっとましなわけではない。だが彼らに対しては、人間としてもっと大きな共感がある。いちばん気になるのは、質問されたアメリカ人のほとんどがパレスチナ人の来歴について何も知らず、1948年のことについても、イスラエルが非合法に34年にわたって軍事占領をつづけていることについても、まったく知っていなかったということだ。アメリカ人の考えに支配的な影響を及ぼしている主な語りのモデルは、いまだにレオン・ユリスの1950年の小説『エクソダス』 であるらしい。それと同じくらい気になることだが、世論調査の結果で最もネガティヴなのが、ヤーセル・アラファートについての意識だ。彼の軍服(不必要に好戦的に見える)、彼のスピーチ、彼の存在について、アメリカ人が思っていることや、言ったことは概ね否定的だ。

以上のことを総合すると、パレスチナ人は、彼ら自身の物語を通して理解されることもなければ、だれもが共感できるような人間的なイメージにそって理解されるわけでもないということになる。イスラエルのプロパガンダがあまりにも奏効してきたため、パレスチナ人について肯定的な意味合いが付随することはほとんどないようだ。彼らはほぼ完全に非人間化されている。

50年にもわたってイスラエルがアメリカで繰り広げるプロパガンダがなんの反論も受けずにまかり通ってきた結果、わたしたちはこんなところに来てしまったのだ。こうしてひどくゆがめられて伝えられていることに対して、わたしたちがちっとも自分自身のイメージやメッセージを伝えて意味のある抵抗や反論をしてこなかったため、いまではわたしたちの生命が何千と失われ、わたしたちの土地が何千エーカーも奪われているというのに、誰の良心を痛ませることもない。『インディペンデント』のフィル・リーヴズ記者は本日づけ(2001年8月27日)の記事で、パレスチナ人がイスラエルによって叩きのめされ、死んでいくのに、世界は黙って傍観していると、憤慨して書いている。

この沈黙を破るかどうかは、アラブや各地のパレスチナ人の責任だ。それは理性的に、組織だった効果的な方法でなされなければならず、銃を発射したり、泣きわめいたり、不平を言うことによってではない。そういうことを全部やってもいい理由がわたしたちには十分にあることは神様がご存知だが、ここでは冷徹なロジックが必要だ。アメリカ人の心には、南アフリカの解放闘争や、アメリカ先住民の恐ろしい運命との類似性は、まず絶対に浮かんでこないが、わたしたちは、こういうアナロジーを用いてわたしたちのことを説明しなければならない。そのためには何よりも、わたしたち自身を人間らしくみせ、それによって、チャールズ・クラウサマーやジョージ・ウィルのようなアメリカのコラムニストがパレスチナ人をもっと殺し、もっと爆撃せよとあつかましく要求するような(パレスチナ人以外にはどんな民に対しても、そんな提言はとうていできない)、冷笑的で醜悪なプロセスを反転させることが必要だ。なぜわたしたちは、シャロンというアメリカ人の後ろ盾を受けた戦争犯罪人が、わたしたちの仲間をもう少し始末してやろうと思いついたときにはいつでも理不尽に殺されるという、まるでハエや蚊のような運命を甘受しなければならないというのか。

うれしいことに、そういう目的からADCがメディアを通じて前例のないような広報キャンペーンに乗り出すということを、会長のザイアド・アサーリーから知らされた。これによってバランスを回復し、パレスチナ人を人間として描き出す──そもそもそんな努力画必要だということ自体の、すさまじいアイロニーがおわかりになるだろうか──というものだ。母親であると同時に教師であったり医者であったりする女性として、畑で働いていたり、核関連の技術者だったりする男性として、長年にわたる軍事占領を体験しながら、今も抵抗の戦いをつづけている人々として。(ついでながら、世論調査の結果によって判明した驚くべき事実は、そもそもイスラエルの占領という事実について少しでも知っている者は、サンプル全体のわずか3〜4パーセント以下だったということだ。つまり、パレスチナ人の存在の中心的な事実でさえもイスラエルのプロパガンダによってごまかされているのだ。)このような努力は、アメリカではこれまで1度もなされてこなかった。50年にわたる沈黙が、今ようやく破られようとしているのだ。

ささやかなものではあるけれど、発表されたADCのキャンペーンは大きな一歩前進である。アラブ世界は道徳的にも、政治的にも、まひ状態に陥っており、指導者たちはイスラエルや(より重要な)アメリカとの関係がしがらみになっており、民衆は不安と抑圧の中にとどめおかれていることを考えてみよう。パレスチナ人や彼らと共闘した勇敢なレバノン人が1982年に19,000人がイスラエルの軍事力の犠牲になったときのように、ガザや西岸地区のパレスチナ人が殺されている。その理由はイスラエルが何のとがめも受けずに軍事力を行使できるためだけではない。現代史上はじめて、イスラエルやその支持者が考案した西側のプロパガンダと軍事力の積極的な協力が、毎年イスラエルに援助される50億ドルのアメリカ人の税金によってパレスチナ人の集団懲罰が継続するという事態を可能にしたこともその大きな理由だ。歴史も人間らしさも取り除き、メディアはパレスチナ人の姿を、攻撃的で石を投げる乱暴な人たちとしてだけ提示する。これによって頭は悪いが政治的には抜け目がないジョージ・W・ブッシュがパレスチナ人の暴力行使を非難することが可能になっている。

この新しいADCのキャンペーンは、パレスチナ人に歴史と人間らしさを回復させる、彼らは「わたしたちのような」人間であり(これまでもずっとそうだったように)、自由に生き、子供たちを育て、平和に死んでいく権利のために戦っているのだということを示すことを目指している。この物語わずかな片鱗でさえも、アメリカ人の意識に浸透するようになれば、イスラエルが現実を覆い隠している悪悪質なプロパガンダの巨大な雲も真実の力が散らし始めるであろうと望みたい。もちろんメディアのキャンペーンにできるのはそこまでであり、その先に期待されるのは、アラブ系アメリカ人がそれによって自信をつけ、アメリカで政治闘争に乗り出し、アメリカの政策をイスラエルべったりのものにしているリンクを断ち切り、修正し、解きほぐすことである。そうして再び、わたしたちは希望をもつことができる。

『アル=アフラーム』、2001年8月30日〜9月5日

* Newspeak ジョージ・オーウェルの『1948年』に登場する空想言語。既存の権力構造を強化するために、意図的に曖昧で矛盾した言葉を用いて真実を隠蔽し、大衆を惑わし、思いどおりに操る言語操作のこと。小説の中では全体主義国家が大衆を操作するために発明した言語で、従来の英語(オールドスピーク)を基にしながらも語彙や文法はひどく切り詰めて単純化されており、人々が物騒な考えを持ったり、話したりすることを不可能にする。「自由」や「正義」などという言葉は、そもそも存在しない。

* doublethink「二つの矛盾する信念を同時に奉じ、ともに受け入れる能力・・・・・・意図的にウソをつきながら、それを本気で信じること。不都合になった事実はすべて忘れ去り、ふたたび必要になることがあれば忘却の淵からすくい上げ、必要なあいだだけとどめおくこと」(オーウェル) すなわち二重思考とは、思考体系における矛盾に故意に目をつぶる後天的な能力のことで、たとえば政府に不都合な事実を公的な記録から抹消しながら、みずからの手で書いた新しい歴史を本気で信じることができるようになる。

独裁政党が権力を確実に握りつづけるためには、国民を堕落させ、つねにプロパガンダにさらすことが不可欠だが、その横暴さや欺瞞を自覚すれば、自己嫌悪によって党そのものが内部から崩壊しかねない。そこで、「現実管理」とよばれる複雑なシステムが開発される。その根底にあるのは、民衆を管理して操るために必要なのは、「監視」よりむしろ日常の言語と思考を変えてしまうことだという発想である。「ニュー・スピーク」(注80参照)が言語を通じた現実管理であるのに対し、「二重思考」は直接の思考操作を通じた現実管理といえよう。二重思考の実践により、政府は国民を爆撃しておきながらそれは敵からの攻撃だと偽るばかりか、職員に本気でそれを信じさせることができるようになる。

*3『エクソダス』Exodus(『エクソダス──栄光への脱出』犬養道子訳 河出書房1961)はレオン・ユリスLeon Uris 1924-2003)が1958年に発表した小説。第2次大戦後、ヨーロッパのホロコーストを生きのびてキプロスの難民キャンプに収容された子供たちが、エクソダス号という船に乗ってイギリス委任統治領のパレスチナに移住する話。モーゼの「出エジプト」という聖書の余韻、東欧でのユダヤ人迫害やナチによるジェノサイドなどの歴史的なエピソードなどを通して、20世紀半ばのイスラエル建国にいたる経過がシオニストの立場から語られている。この本は世界的なベストセラーとなり、イスラエル建国に一定のイメージを定着させることに貢献した。60年にはポール・ニューマン主演で映画化された。


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