Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

最後にくるのが、ようやくパレスチナ人のあいだに起こってきた、改革と選挙を要求する当然の叫びである。わたしの意見では、この民衆の叫びこそが、これまで見てきた6つの声のなかでただ一つ正統なものである。アラファトの現行政府も立法評議会も、ともに本来の任期を超えて居座っているという事実を指摘するのは重要だ。両者とも1999年に新たな総選挙が行なわれると同時に辞職・解散するはずだったのだ。さらに言えば、1996年に行なわれた前回総選挙が根拠としていたのは、オスロ合意であった。その実際の効用は、アラファトとその一党に西岸地区とガザ地区をイスラエルのために統治するライセンスを与えることに他ならなかった。それは、イスラエルが国境も治安も土地も(入植地は二倍から三倍にまで増加した)水も空気も管理するという、ほんとうの主権も安全も与えられない政権であった。これを別の角度から見れば、従来の選挙と改革の根拠となったもの、つまりオスロ体制は、いまやまったく無効なものになったということだ。この種の政治綱領をこのまま進めようとする試みは、浪費の多い計略にすぎず、改革も本当の選挙も生み出すことはないだろう。すべてのパレスチナ人をいたるところで無念さと苦い苛立ちに陥れている現在の混乱は、このような状況を背景にしている。


もしパレスチナの正統性の根拠として従来あったものが、もはやほんとうには存在しないというのならば、いったい何がなされねばならないのか? 


パレスチナの選挙が浮上
Palestinean election now
Al Ahram Weekly 2002年6月13〜19日号 No.590

パレスチナの改革と選挙を求める声が、少なくとも6つは上がっている。そのうち5つは、パレスチナ人の目的からすれば、役に立たない的はずれなものだ。

一、シャロンが求める改革は、パレスチナの国民生活をさらに阻害するためのものである。絶え間ない干渉と破壊という彼の失敗した政策の延長上にあるものだ。シャロンの望みは、ヤセル・アラファトを追い払い、西岸地区を細切れの小区域に分割して柵で囲い、占領統治を復活させ(できれば一部のパレスチナ人の協力のもとに)、入植活動を継続し、これまで通りの手法でイスラエルの安全を維持することである。シャロンは自らのイデオロギー的な幻覚と妄想に目がくらんでしまっているため、そのようなことは和平も安全ももたらさず、ましてや本人がさかんに駄弁を弄している「平穏」にはもちろん繋がらないといういうことが分からない。シャロンの計画にあるようなパレスチナの選挙はまったく意味がない。

二、合衆国が改革を望むのは、なによりも「テロリズム」に対する戦いの一環としてである。この「テロリズム」という言葉は万能の効用を持ち、歴史や前後関係や社会背景などはなにひとつ考慮されない。ジョージ・ブッシュはアラファトに本能的な嫌悪を抱いており、パレスチナの状況をまったく理解していない。ブッシュとその締りのない政府が何かを「望む」などと言うことは、ただの激高や発作的な行動、撤回、公然の非難、まったく矛盾した声明、様々な政府高官のむだな派遣、180度の方向転換などの連続に過ぎないものに、総体としての願望(そんなものは、もちろん存在しない)であるかのような地位を与え、威厳をそえることに他ならない。イスラエル・ロビーとキリスト教右派(いまやブッシュが宗教指導者だ)が圧力をかけたり重要案件だとするものを除いては支離滅裂なブッシュの政策は、実際には次の三つの要求で成り立っている──1)アラファトがテロリズムを根絶させること、2)だれかが、どこかで、なんらかの方法で、パレスチナ国家と大会議を成立させること、3)イスラエルが引き続き合衆国の全面的で無条件の支持(アラファトの引き降ろしも含まれる可能性が高い)享受すること。そこから先はなにも方針がなく、合衆国の政策は、だれかが、どこかで、なんらかの方法で、決めてくれるのを待っている。だが常に忘れてはならないことは、中東政策はアメリカでは国外でなく国内の問題であり、社会内部のダイナミクスという予測の難しいものに左右されるということだ。

これはみなイスラエルの要求に完璧にマッチしている。イスラエルが望んでいるのは、パレスチナ人の生活を集団的にもっと惨めで耐えがたいものにすることだけだ。その手段は軍事侵攻でもよいし、パレスチナ人を永遠に一掃するというシャロンの強烈な強迫観念に適うような耐えがたい政治状況によってでもよい。もちろん、パレスチナ人に国家を持たせ、これと共存していこうというイスラエル人もいるし、同じような考えの人たちはアメリカのユダヤ人のなかにもいる。けれども、どちらのグループも今のところ決定を左右するような力は持っていない。シャロンとブッシュ政権がすべてを仕切っているのだ。

三、アラブの指導者たちの要求は、わたしの判断するかぎり、いくつかの要素が組み合わさったものであるが、そのうちのどれひとつ直接パレスチナ人を利するものはない。一番目の要素は、自国民への恐れである。アラブの民衆は、イスラエルがパレスチナの領土で大規模な破壊行為をほとんど抵抗らしいものも受けずに行なっているというのに、アラブ側からは真剣な介入も阻止しようという試みもまったくなされないのを目の当たりにしてきた。ベイルート中東首脳会談の和平案がイスラエルに提示しているのは、「領土と平和の交換」という、シャロンが拒絶してきたまさにそのものである。この提案には厳格な条項がなにもなく、期限設定についてはさらに骨抜きだ。これを公式記録に残してイスラエルのむきだしの好戦性に対置させるのは悪いことではないだろうが、その真の意図について幻想を持つべきではない。パレスチナの改革を要求するのと同様に、形だけの提案を行なうことによって、自分たちの統治者の無策無能に愛想を尽かしているアラブの民衆をなだめようとしているだけだ。二つ目は、もちろん、パレスチナ問題に大方のアラブ政権がうんざりしていることだ。イスラエルが、明確な国境も宣言しないユダヤ国家としてエルサレムとガザと西岸地区を35年間にわたって占領していることにも、パレスチナ人の追放に対しても、アラブ諸政府はなにもイデオロギーの問題を感じていないらしい。アラファトと彼の統治下の人々がおとなしくするか、あるいは黙って消えてくれさえすれば、彼らはこうしたひどい不正にもよろこんで順応する用意があるのだ。三つ目は、もちろん、合衆国に取り入りたいというアラブ指導者たちの長年の望みである。アラブで最も重要な同盟国という地位をかけて彼らは競い合っている。彼らは、たいていのアメリカ人がどれほど自分たちを軽蔑しているかに気づいておらず、自分たちの文化的な地位や政治的な地位がアメリカではどれほど理解されていないかについての自覚がないだけなのだろう。

四、改革を求める大合唱の4番目のものは、ヨーロッパ人の声である。しかし彼らは、あたふたと特使を派遣してシャロンやアラファトに会い、ブリュッセルで派手な宣言を発し、二つ三つの計画に出資しただけで、後はもうそのくらいにしておこうということになった。それほどに合衆国の権威が彼らに大きくのしかかっているのだ。

五、ヤセル・アラファトと仲間内の人々は、民主主義や改革の長所(少なくとも理論的な)を突然発見したらしい。わたしは自分が闘争現場から遠く離れたところで話していることは自覚しているし、包囲されたアラファトがイスラエルの侵略へのパレスチナ人の抵抗のシンボルとして効用があるという議論もよく承知している。それでも、ここへ来てわたしは、そういうものはもはや何の意味も持たないと考えるに至った。アラファトはわが身を救うことにしか関心がない。彼は十年近くにわたり小王国を運営する自由を享受した。その結果はやはり、不面目と嘲笑を我が身と仲間に招いただけだった。「自治政府」は、野蛮と独裁と想像を絶する汚職の代名詞になった。この期におよんでも、彼になにか別のことをやる能力があるとか、減量した新内閣(敗北と無能を象徴する毎度おなじみの顔ぶれだ)が実際の改革を推進するだろうとか、そういうことを一瞬なりとも信じろというなら、それは理性への挑戦だ。アラファトは長年苦しんできた民族の指導者であり、ここ一年ほどは許しがたい苦痛と困難を味わってきた。それはみな、彼の戦略的計画の欠如と、オスロ体制を通じてイスラエルと合衆国のお情けにすがるという許しがたい隷属とのコンビネーションによるものだ。独立運動や解放運動の指導者たちには、武器を持たない同胞たちをシャロンのような戦争犯罪人の蛮行にさらすような権利はない。シャロンに対処するための十分な防衛や予防措置はまったくとられていないのだ。戦争を遂行する軍事力もなければ、終結させる外交手段もないというのに、罪のない人々がおもに犠牲になるような戦争をはじめる根拠がどこにあるというのか?すでにこれを三度も繰り返した(ヨルダン、レバノン、西岸地区)アラファトに、四度目の大惨事を引き起こす機会を与えるべきではない。

彼は2003年の早い時期に総選挙を実施すると発表しているが、ほんとうに関心を注いでいるのは治安組織を再編することだ。このコラムでずっと以前から指摘してきたように、アラファトの治安機構はいつも彼自身とイスラエルに奉仕することを第一目的として組織されている。なぜなら、オスロ諸協定は、アラファトがイスラエルの軍事占領と取引したという事実に基づいているからだ。イスラエルが問題にしているのは自国の安全だけであり、それを守る責任をアラファトに負わせたのだ(彼は、早くも1992年に喜んでこの地位を受け入れている)。その間に、アラファトは正確な数は知らないが15から19ほどのグループを登用して相互に張り合わせた。これは彼がファカハニFakahani (西ベイルートの一画で、70年代からPLOの本部が置かれた)で磨き上げた戦術だが[訳注1]、全体の利益ということを考えれば明らかな愚策だ。アラファトは、ハマスやイスラム聖戦機構を決してほんとうに押さえ込むようなことはなかったが、それはイスラエルの望むところだった。いわゆる「殉教者」の(無思慮な)自爆攻撃を理由にパレスチナ人全体をさらに貶め、懲らしめるための、おあつらえむきの口実を提供したのだ。アラファトの破滅的な体制と並んで、他にもわたしたちに大きな厄災をもたらしたものがあったとすれば、それはこのイスラエルの民間人を殺すという不幸な政策である。わたしたちは事実テロリストであり、道義に背く運動であると、このうえ世界に向けて証明しているようなものだ。そんなことをしてなんの益があるのか、ちゃんと言えるものは誰もいない。

オスロ合意で占領体制と取引してしまったため、アラファトはもはや占領を終了させる運動を率いる立場にはないのだ。皮肉なことに、彼は今また次の取引を試みている。みずからの延命を図ると同時に、合衆国やイスラエルや他のアラブ人に自分がいま一度の機会を与えられるに値すると証明したいのだ。わたしとしては、ブッシュやアラブの指導者たちやシャロンが何を言おうが少しも気にならないが、一つの民族としてのわたしたちが自分たちの指導者をどう考えているかには関心がある。ここのところでは、アラファトの提示する改革、選挙、政府や治安機構の再編という計画をわたしたちは丸ごときっぱり拒絶しなければならないと私は考える。アラファトが次の機会に向けてまたもや延命を図るには、これまでの失敗の記録はあまりにもぶざまであり、指導力は衰え果てて使い物にならない。

六、最後にくるのが、ようやくパレスチナ人のあいだに起こってきた、改革と選挙を要求する当然の叫びである。わたしの意見では、この民衆の叫びこそが、これまで見てきた6つの声のなかでただ一つ正統なものである。アラファトの現行政府も立法評議会も、ともに本来の任期を超えて居座っているという事実は、だいじなことである。両者とも1999年に新たな総選挙が行なわれると同時に辞職・解散するはずだったのだ。さらに言えば、1996年に行なわれた前回総選挙が根拠としていたのは、オスロ合意であった。その実際の効用は、アラファトとその一党に西岸地区とガザ地区をイスラエルのために統治するライセンスを与えることに他ならなかった。それは、イスラエルが国境も治安も土地も(入植地は二倍から三倍にまで増加した)水も空気も管理するという、ほんとうの主権も安全も与えられない政権であった。これを別の角度から見れば、従来の選挙と改革の根拠となったもの、つまりオスロ体制は、いまやまったく無効なものになったということだ。この種の政治綱領をこのまま進めようとする試みは、浪費の多い計略にすぎず、改革も本当の選挙も生み出すことはないだろう。すべてのパレスチナ人をいたるところで無念さと苦い苛立ちに陥れている現在の混乱は、このような状況を背景にしている。

もしパレスチナの正統性の根拠として従来あったものが、もはやほんとうには存在しないというのならば、いったい何がなされねばならないのか? もちろん、オスロへの復帰はありえないし、それはヨルダンやイスラエルの法秩序への復帰がありえないのと同じである。重要な歴史上の変革期を研究する者として、わたしは次のことを指摘したい。過去からの大きな断絶が起こったときには(フランス革命で王制が廃止された直後の時期や、南アフリカにおけるアパルトヘイト廃止から一九九四年の選挙までのあいだの時期のように)、新しい正統性の根拠が作り出されねばならないが、それをするのは唯一かつ究極的な権威の源泉、すなわち民衆自身である。パレスチナ社会における主要な事業、すなわち労働組合から医療労働者、教師、農民、弁護士、医者、その他すべてのNGOにいたるまでの、社会生活を担っているすべての権益集団を基盤として、そのうえにパレスチナの改革が(イスラエルの侵略と占領にもかかわらず)築かれなくてはならない。アラファト、あるいはヨーロッパ、あるいは合衆国、あるいはアラブ諸国がそれをやってくれるのを待っていても空しいとわたしには思われる。それは絶対にパレスチナ自身の手によって、パレスチナ社会の主要な構成要素をすべて含んだ立憲議会の開催を通じて、達成されねばならない。瓦礫の山から社会をふたたび組織していくことに成功する期待がもてるのは、オスロ体制の残党や、信用を失ったアラファト自治政府の擦り切れた破片ではなく、このように民衆自身で構成されたグループだけである。実際、現状は破滅的にまとまりのない状態である。そのような議会の基本的な役割りは、次の2つの目的を持った緊急体制を確立することだ。(1)パレスチナの生活が秩序あるかたちで続行し、すべての当事者が完全参加できるようにする。(2)緊急執行委員を選出し、占領について交渉するのではなく、占領を終了させるための権限を委任する。 軍事的には、わたしたちがイスラエルの敵ではないことは明白である。力のバランスがこれほどまでに一方に偏っているときには、カラシニコフ[旧ソ連製の自動小銃]は効果的な武器ではない。 必要なのは創造的な闘争手段をあみだして、すべての人的資源を我々のもとに結集してイスラエルの占領の重要側面(入植地、入植地道路、道路封鎖と家屋破壊など)を際立たせ、孤立させ、徐々に支持できないようにしていくことだ。アラファトの現在の取り巻きは、このような戦略を考える(実効はもとより)には絶望的に無能である。あまりにも枯渇し、堕落した利己的習慣に染まり、過去の失敗の重荷を引きすり過ぎている。

そのようなパレスチナ人の戦略が効果をあげるためには、イスラエル側の要素を取り込むことが不可欠である。占領に反対して共闘を組めるような(いや組まねばならない)イスラエルの個人や団体を巻き込む必要がある。南アフリカの闘争の偉大な教訓は、次のようなものだ──この闘争は多民族社会というヴィジョンを提示したが、その目標からは、個人も、グループも、指導者たちも決して目をそらされることはなかった。今日のイスラエルが発信する唯一のヴィジョンは暴力と強制的分離、そしてユダヤ人至上主義にパレスチナ人を引き続き従属させることである。もちろん、すべてのイスラエル人がこういうことを信じているわけではない。だが、二つの国家が主権と平等にもとづいた自然な関係を持って共存するという考えを生み出すのはわたしたちの責任に違いない。主流派シオニズムはいまだにそのようなヴィジョンを生み出せずにいる。したがって、それが出てくるのはパレスチナ人とその新しい指導者たちからのはずだ。新指導者たちの新たな正統性は、全てのものが崩れ去り、だれもが自分のイメージする、自分の考えに基づいたパレスチナの再建を切望している今このときにこそ、築き上げられなくてはならない。

わたしたちは、これほどひどい状態になったことはかつてないが、同時にこれほど独創性を秘めた瞬間もはじめてである。アラブの秩序は完全な混乱にある。合衆国政府は実質的にキリスト教右派とイスラエル・ロビーに操られている(ジョージ・ブッシュがムバラク・エジプト大統領と合意したはずのことは、シャロンの訪米によって24時間のうちにすべて覆された)。わたしたちの社会は、お粗末な指導体制と自爆攻撃がイスラム教パレスチナ国家の建設に直接つながるという馬鹿げた考えによって、ほとんど破綻している。未来への希望はいつでも存在するが、ふさわしい場所にそれを求め、見つけ出す能力が必要だ。合衆国ではパレスチナやアラブに関する重要な情報が欠乏しているので(特に下院では)、パウエルとブッシュがパレスチナ再生のための真の課題を提示するなどという幻想には一瞬たりともとらわれてはならない。 だからこそ、そのような努力はわたしたちのあいだから、わたしたち自身によって、わたしたちのために、出てこなければならないと言いつづけているのだ。少なくとも異なった道からのアプローチをわたしは示唆しようとしている。パレスチナ人のほかの誰に、パレスチナ人を統治するための正統性をつくりあげることができるだろうか。罪のない人々を殺傷し、わたしたちへの支持をかつてないほど損なうものとは異なる武器によって占領に抵抗するためには、そのような正統性が必要なのだ。正義の主張であっても、手段が悪辣であったり、不適切であったり、不正であったりすれば、簡単に堕落する。それが実現されるのが早ければ早いほど、現状の袋小路をわたしたち自身の手で抜け出すことのできる可能性が高くなる。


注1 ファカハーニーはレバノン内戦期にPLO本部が置かれた西ベイルートの一画。ここから、PLOが支配したレバノンの広範な地域をさして「ファカハーニー共和国」と呼ぶようになり、武装派閥集団が入り乱れて争いあう無秩序なこの時期を「ファカハーニー時代」と呼ぶようになった。

Al-Ahram Weekly Online 13 - 19 June 2002 Issue No.590


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