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昨年パレスチナを訪問した折、同行メンバーにデヴィという若いユダヤ系アメリカ人の舞台女優がいました。デヴィは反シオニストですが、そのお父さんはホロコーストの生き残りで、いったんはイスラエルに移民したけれど後にアメリカに移ったのだそうです。もともと彼はシオニストではなかったのですが、第二次大戦後のヨーロッパのすさまじい窮状では、イスラエルに移民する以外に選択の余地などなかったらしい。大戦後に大量のユダヤ人難民がパレスチナに移住しましたが、民族の故郷に「帰還」してユダヤ国家の建設に邁進するというプロパガンダとは裏腹に、この人たちは必ずしもそれを望んでいたわけではなかったようです。行き場のない難民たちが、現地アラブ人との紛争を抱える土地にいやいやながら送り込まれたというデヴィの話は、ずっと心にひっかかっていました。この事情を詳しく説明する興味深い本を見つけたので紹介します。

Yosef Grodzinsky, In the Shadow of the Holocaust: The Struggle between Jews and Zionissts in the Aftermath of World War II, Common Courage 2004

著者のヨーゼフ・グロジンスキーはイスラエルのテルアヴィヴ大学とカナダのマッギル大学に籍を置く神経言語学者です。この本では第二次大戦後のヨーロッパの難民キャンプの綿密な調査にもとづき、そこに収容されたホロコーストの生き残りたちが、キャンプに跋扈するシオニスト組織の圧力によって本人の意志にかかわりなくイスラエルに移住させられていった過程を詳述しています。

戦争直後のヨーロッパには数百万人の難民がキャンプに収容されていましたが、そのうち33万人はユダヤ系でした。シオニストはこの人たちを全員パレスチナに移民させようと計画し、それを遂行するため、さまざまな圧力をかけました。それでも実際に移民したのは40%にすぎません。ホロコーストを経てユダヤ国家の建設に対する異論は消滅したという通説にもかかわらず、難民の多くはイスラエル以外のところ、とくにアメリカへの移住を望んでいたのです。当初アメリカは難民の受け入れを拒んでいましたが、48年後半には門戸が開かれ、多くのユダヤ人が移住しました。

ベングリオンのようなシオニスト指導者たちは、ユダヤ人難民の利益よりも自分たちの理念の達成を優先し、そのためには深刻な危険にさらされている難民キャンプの子供たちがイギリスやフランスの安全な環境へと移住する道を閉ざすことも厭いませんでした。パレスチナでのアラブ人との戦いにヨーロッパのユダヤ系難民を動員する努力が払われ、1948年のイスラエル独立戦争ではドイツの難民キャンプのユダヤ人に兵役義務を課し、さまざまな罰則を設けた強制徴用によって7800人が兵士としてパレスチナに送り込まれました。

イスラエルがユダヤ人のナショナル・アイデンティティを勝手に占有し、世界に散らばり多様性をきわめる人々を代表する存在であるかのように振舞い、それによって実際にはそれが代表していると主張しているまさにその人々に害をなしているということを、グロジンスキーは好感の持てる簡潔な文章で論じています。ホロコーストの地獄を生き延びた同胞たちを、彼らが住みたがってもいない未知の土地に無理やり送り込んで、侵略に抵抗する現地人と闘わせたという事実は、シオニズムと一般ユダヤ人の関係、ひいてはナショナリストと一般国民の関係についても、多くを物語っていると思います。以下はこの本の内容にそくして、Znetがおこなったインタビューです。

『ホロコーストの影に怯えて』

ヨーゼフ・グロジンスキーのインタビュー

Original site

by Chris Spannos(Znet)  June 07, 2005

Spannos: シオニズムとそこから生まれたイスラエルという国家が、ユダヤ人アイデンティティの究極の表明であるという考えは、どのような理屈で成り立っているのか簡単に説明してください。いったいそれは、どこからきたのでしょう?

Grodzinsky: ユダヤ人のアイデンティティをめぐるシオニストの議論でよく取り上げられるのは、ディアスポラ(離散)というユダヤ人のありかたについてです──いったい、そんなことが現実に実行可能なことなのかと。ユダヤ人のネイションとしての同一性(national identity)が存続していくことは、定められた領土を持たず、シオニズムと離れたところでも、可能なのでしょうか。国語はいらないのでしょうか(必要だとすれば、それはヘブライ語ということになるのでしょうか)。ユダヤ人はユダヤ教徒でなければならないのでしょうか。こういう問題について、シオニズムの見解はつねに明快そのものでした。ユダヤ人のナショナリズムがシオニズムである。ヘブライ語が国語である。ユダヤ人はユダヤ教の信者である。こうした見解の形成には、フリッツ(イツハク)・ベーアというヘブライ大学のユダヤ史の大家が大きな役割を果たし、やがてそれがシオニズムの指導者層に支持されるようになったのです。べーアは1930年代に次のように論じました。

ヘブライ語のガルート[エグザイルの状態]は、ユダヤ人が自分たちの本来の場所を離れていることを意味しています。自分の本来の場所を離れるものはみな、それによって自然のサポートを失ってしまう──そこに戻るまでは。国々のあいだに広く散らばるというイスラエルの状態は、自然に背いています。ユダヤ人はネイションとしての結束を明示しているのですから(たとえそれが他のどんなネイションより高度な意味においてであったにせよ)、彼らは実際に一つになった状態に戻らなければならない。

ベーアのこうした明瞭な世界観は、シオニズムの指導者や活動家に絶大な影響を与えました。とくにイスラエルの初代首相となったダヴィッド・ベングリオンは、大きな影響を受けました。このような立場はシオニスト運動の起源にさかのぼるものですが、面白いことに、現在のシオニズム思想においても、なにも変わっていません。

Spannos: [イスラエルに住まない]ディアスポラのユダヤ人の多くは、それとはずいぶん違った考えをもっています。ユダヤ人のアイデンティティがどんな形をとるかは、いろいろあっていいんじゃないかと彼らは考えています。こうした見方について、それがどこから起こってきたのかを含めて詳しく説明してください。

Grodzinsky: ディアスポラのユダヤ人、とくに欧米諸国に住んでいて移動の自由がきく人々は、ユダヤ人の今後のあり方について多様な方向性を認めようとする傾向があります。多種多様なユダヤ人の行動方針としてどれもみな妥当なものだと彼らは考えます。彼らの存在そのものが、そうした多様な方向性の追求が実現可能であることの証明なのです。

コロンビア大学のサロ・バロンはアメリカの大学ではじめてユダヤ研究の教授になった人物ですが、彼の見方は同時代のベーアとは大きく違ったものでした。バロンの考えでは、ユダヤ人が持つイデオロギーや戦略は、各自の移民パターンや居住地に応じて変化するものですが、そのことによってユダヤ人がネイションとしての同一性を失なうことはありません。ユダヤ人の歴史におけるひとつの重要な特徴は(今日とくに重要性を増してきたようですが)、ユダヤ人たちが、たがいに隔たった世界に散らばり、ばらばらに生活を営むことを、おおむねふつうの状態としてきたことです。

従ってベーアとバロンの論争の核心にあるのは、ユダヤ人の運命、ユダヤ人の選択、ユダヤ人のアイデンティティというものに統一性を求めるか、多様性を認めるかという問題だということになります。この論争は、残念ながら今ではほとんど名残をとどめていません。その理由のひとつはホロコースト(あとでお話します)の経験ですが、それと同時にシオニストのプロパガンダが驚くべき成功をおさめ、世界中のユダヤ人を自分たちの立場に同調させていることも一因です。ユダヤ人のナショナリズムの究極の表現はイスラエルという国ただひとつしかないという主張に疑問をはさめば、反ユダヤ主義のそしりを浴びる危険があるのです。ユダヤ人がそれをやれば、自己嫌悪症のレッテルを貼られます。

Spannos: ホロコーストは、この論争にどう影響したのでしょう?

Grodzinsky: ホロコーストは、形成期のシオニスト国家とユダヤ人との関係をめぐる大論争に終止符を打ちました。ホロコーストの影への怯えから、よく言われてきたのが、ユダヤ人はもはや彼らの故郷、エレツ・イスラエル以外では安全に暮らせないということでした。この見方によれば、ユダヤ人はパレスチナにあるユダヤ人の民族的故郷に住むか、そうでなければそれを熱烈に支援しなければなりません。なぜならこの場所こそが、万が一恐ろしい事態が起こったときに彼らの頼みの綱になるのですから。

イスラエルが避難所になるというレトリックは、子供のころから聞かされてきました。反対意見はほとんど聞いたことがありません。でもその方が今では妥当だとわたしには思われるのです。イスラエルという国の存在と所業は、実のところ世界のユダヤ人を危機に陥れていると思います。

Spannos: シオニストの組織家は、「良質の人的素材」chomer 'enoshi tovという無神経な表現をよく使いました。シオニストが難民キャンプのユダヤ人をどのようにみていたかについて、この文句はなにを示唆するのでしょう。シオニストにはキャンプの住民がなぜそんなに重要だったのですか。

Grodzinsky: それはわたしの本の主題ですね。ヘブライ語版のタイトルがまさにchomer 'enoshi tovなのです。わたしは危機の時代におけるユダヤ人とシオニストの関係に興味を持ち、戦後のドイツで生き残ったユダヤ人に焦点をあてました。ナチ政権下で迫害された何百万もの民間人を一箇所に集めて面倒をみるため、戦後に米軍や国連が建設した難民キャンプです。ユダヤ人たちは他とは別のキャンプに速やかに収容され、ユダヤ人難民キャンプでみじめな暮らしをすることになりました。これがわたしの話が展開する主な場所です。

わたしは実際にそこをたずね(これらの場所について保存されている資料にあたって)、その頃にはユダヤ人の独立国家を建設する目標の達成を目前にしていたシオニストが、難民キャンプのユダヤ人たちを助けるために実際に何をしたのかを調べました。

エルサレムから、何百人もの経験を積んだ外交使節が戦後のヨーロッパに派遣されました。彼らは何をもくろみ、何をしたのでしょう? 彼らの目標はベングリオンが公然と表明しています──パレスチナに大量のユダヤ人を移住させることです。ここから、生き残りのユダヤ人をすべてパレスチナにつれてくるという大計画が生まれました。そこで、ホロコースト生存者のうちでパレスチナへの移住を求める者たちは「良材」と呼ばれ、それ以外の者たちは軟弱とみなされるようになったのです。例えば、こんなふうです。

「いまキャンプに収容されているのは残り滓ばかりだ。人間として、シオニストとしての自覚を持ったパイオニア的人材は、すでにキャンプを去り、いろんなルートでパレスチナに向かっている。いまだに残っているのは昔の土地にべったりはりついている連中で、鍋底にこびりついた食物の滓みたいに、こそぎ落としてやらねばならない。こいつらには、どんな説得も効き目がない──“祖国が危機に瀕している!”、“家が燃えているというのに息子は助けに行かないのか?”こういう言葉は、彼らの耳には届いても、心までは届かない」。

こういう記録を読んだのは、驚いたことに、ドイツに派遣されたシオニスト外交団がエルサレムの指導部のあいだで交した往復書簡の中なのです。中央シオニスト資料館に所蔵されているものです。こんな表現に出会うと、「人間の残骸」というホロコーストの生き残りに対してパットン将軍が使ったひどい表現を思い出さずにはいられません。そんな表現をしたために、パットンは反ユダヤ主義者として悪名をはせることになり、最終的には1945年夏それを理由にドイツにおける米軍司令官の地位を失うことになったのです。

シオニストの外交団はもちろん反ユダヤ主義ではありませんでしたし、感じの悪い人間たちでもありませんでした。それでも文面に表れているように、ホロコーストの生き残りに対する彼らの態度には、恐ろしい苦しみ、屈辱、搾取、損失をくぐり抜けてきたばかりの人間を尊重するところがありません。パレスチナにおけるシオニストの企てに役立つような者は良材とされ、それ以外の、他の場所で生活を再建したいと望んでいる人々は軽蔑されたのです。

Spannos: 難民キャンプのユダヤ人たちは、ユダヤ国家の創出をどう思っていたのでしょう。彼らが感じていたことと、やがて彼らが実際に移住していった場所とのあいだには、どんなギャップがあったのでしょう。

Grodzinsky: シオニズムの観念には、たいていの生き残ったユダヤ人が魅力を感じました。でもシオニストの計画に参加するとなると、話はぜんぜん別です。シオニストの組織家たちをひどく悔しがらせたのは、ユダヤ系の難民の大半がパレスチナよりはアメリカへの移住に興味を示していたことです。アメリカを有望な土地とみて、生き残りのユダヤ人たちは何十万という単位でアメリカによるドイツ占領地区へと押しかけ、アメリカへの移民ヴィザを取ろうとしました。

わたしが行なった人口統計の調査によれば、ユダヤ系難民のほぼ全員が口ではパレスチナにいきたいと表明しましたが、実際にユダヤ国家に移住したのは40%にすぎませんでした。残りの人々は欧米各地に散っていったのです。もちろん12万人ほどはアメリカに移住しました。1948年後半、この国が難民の移住に門戸を開いてからのことです。

Spannos: あなたはご本の中で、シオニストの利益と難民キャンプのユダヤ人の利益は衝突しており、シオニストの組織家、政策家、活動家たちは、自分たちの利益を優先させてユダヤ系難民たちの幸福を犠牲にしたと書かれています。最初の事例として描かれているのが、1945年の子供たちの事件です。45年に難民キャンプのユダヤ人の子供たちの身に起こったことについて話してください。

Grodzinsky: シオニストが取った立場の背後に、実用主義のロジックがあったことを見抜くことが大切です。最終目標がパレスチナに大量のユダヤ人を住まわせることであったため、弱い立場におかれたユダヤ系住民が標的にされました。強力なコミュニティはパレスチナへの移民に関心を示しにくいからです。アメリカのように居心地のよい(むろん相対的にですが)環境にいる者が、なにを好んで戦場に移民するというのでしょう。ですからシオニストの努力は、ユダヤ人難民キャンプに集中することになりました。ドイツに外交使節団が送られ、25万人のユダヤ人をドイツからパレスチナに移民させようというベングリオンの構想の実現が図られました。

それが目標であるならば、 西に向かうユダヤ人たちには価値がありません。それゆえ戦争直後にユダヤ系の子供たちをドイツから退避させようという動きがあったとき、シオニストたちはそれに反対したのです。これはショッキングな事件です。栄養失調で病気にかかった何千人ものよるべない孤児たちが、いまだに大きな危機に瀕しているというのに、シオニストたちによって難民キャンプにとどまることを強いられたのです。彼らを安全なイギリスやフランスに連れて行こうという計画があったというのにです。この悲劇の顛末については、この本の第4章で詳述しています。

Spannos: シオニストの利己主義がホロコースト後のユダヤ人の苦しみを招いた今ひとつの例として、1948年に難民キャンプのユダヤ人がイスラエル国防軍に強制徴用されたことが挙げられますね。シオニストはいったいどのようにして、難民キャンプにおける強制徴用を実施できたのでしょう。

Grodzinsky: ユダヤ系難民をパレスチナに移住させる動きがピークに達したのは1948年でした。パレスチナではイギリスの委任統治が終了し、イスラエルの建国宣言によって全面戦争(第一次中東戦争)がはじまった年です。深刻な人手不足に陥ったイスラエルは、ドイツの難民キャンプでイスラエル国防軍への志願兵を募るようになりました。ホロコーストの生き残りたちは嫌がりました──「銃火の臭いはもうたくさんだ」、「今度は他の人たちがやればいい」。

志願兵が集まらなかったので、強制徴用ということになりました。公式に実施されたのは48年の4月11日からです。これによって7,800 人が兵士としてパレスチナに送り込まれました。戦闘中の軍隊にとっては大きな助けでした。ドイツのアメリカ占領地区でシオニストが強制徴用を実施したと考えるなんて、正気の沙汰とは思えないかもしれません。でもそれは本当におこったことなのです。ニューヨークとテルアヴィヴで見つけたユダヤ系の難民に関する記録文書の中には、大量に記録されているのです。

アメリカの占領軍政府はとても鷹揚で、難民たちがキャンプをほとんど地方の自治体のように自由に運営することを許しました。シオニストの難民たちがパレスチナから来た使節団と結託して、早い時期からこれらのキャンプの支配権を握っていました。それについては、この本で詳細に記述しました。やがて必要とされる時がくると、彼らはこの支配力を行使して、ホロコーストの生き残りたちを、彼らがそれまで見たこともなかった土地で戦わせるために送り込んだのです。彼らはこの土地の言葉も知らなかったし、かならずしも戦いの目的を支持していたわけでもなかったというのに。

Spannos: シオニストは、時には暴力的な手段に訴えてでも、難民キャンプのユダヤ人を徴兵しようとしたようですね。それはどんなふうだったのですか?

Grodzinsky: そのとおりです。必要ならば暴力も行使されました。徴兵拒否者に対する立ち退き命令や罰金、その他の懲罰の記録を発見したときは、ショックでした。場合によっては殴打が加えられることもあったようです。でも肝心な点は、実際の暴力そのものよりも、強制があったことだと思います。そして、ユダヤ人の解放をもたらすために始まった運動が、いまやユダヤ人のナショナル・アイデンティティを私物化し、その名のもとにこの民の権利を奪い取り、自らの必要を満たすために利用しているというアイロニーです。

ユダヤ国家の創設はアラブ人との領土をめぐる紛争を前提としていましたが、同時にまた、他のユダヤ人との民衆をめぐる紛争も招いたのです。前者については多くが書かれてきましたが、後者についてはあまり語られていません。このギャップを埋める一つの試みとして、わたしの本は国家建設以前のシオニズム運動の行動に批判的な関心を絞っています。

執筆にあたっては、ごくふつうの素朴なユダヤ人たちの声に耳を傾けるよう努力しました。巨大な構想のひき臼にひかれたこの人たちの苦しみについては、めったに語られることがありません。彼らの人生の物語が多彩なユダヤ人のあり方を織り成しているという考えから、一般の人々の運命を大きく取り上げたいと思ったのです。

Spannos: 「問題の重大さを理解し、なおかつそれを今日のわたしたちのあり方に結びつけて考えたいと思うならば、当時のシオニストの目にはヨーロッパのユダヤ人をイスラエル軍に徴兵することがどうして正当なものと映ったのかを理解することが重要だ」と書いてらっしゃいますね。彼らはどのようにそれを正当化していたのでしょう、どうしてそんなことに筋が通っていると思えたのでしょう?

Grodzinsky: たぶんこの会話がはじまったところに戻って、しめくくることになるのでしょうね。シオニストたちのあいだにある、すべてのユダヤ人の運命を自分たちが握っているという気持ちが問題なのです。マイケル・レーナー師がわたしの本のまえがきに書いたように、「シオニストの傲慢は、パレスチナ人に向けたものから始まったわけではない」ということもできるでしょう。

プリーモ・レーヴィは『休戦』(The Truce)という本の中で、彼が戦後にアウシュヴィッツから自宅までの長い道のりを運んでもらった列車に、シオニストたちが一台の車を連結させた事件について語っています。彼らは自分たちの車をつないでもよいものかどうか、誰にもたずねたりしませんでした。ただあっさりと、やってしまったのです。そういうやり方が、よい結果を招くこともよくあります。けれど、いつでもそうとは限りません。

ホロコーストの生き残りの処遇について、シオニストは目的の明瞭な、冷静で一貫性のある計画を持っていました。確かにそれはたいしたことでした。でもそういう自信が(多くの読者には、おなじみのものでしょうが)大きな苦しみと破壊をもたらすことにもなったのです。

Yosef Grodzinsky is professor of Psychology at Tel Aviv University, and Professor and Canada Research chair in NeuroLinguistics at McGill University.

Chris Spannos volunteers for ZNet and is currently working in a shipyard in Bangor, Maine. He can be reached at spannos@gmail.com


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