Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

アメリカは本当にこの大統領の下に、彼の好戦的な外交政策と危険なまでに単純な経済観を支持して団結しているのだろうか? この質問を言い換えれば、アメリカのアイデンティティはこれを限りに永遠に確定してしまったのだろうかということ、またその広域に及ぶ軍事力(現在、米軍は何十カ国にも駐留している)を甘受していかねばならぬ世界の中で、黙っているつもりのない残りの世界が、すべての「アメリカ人」の全面的な支持のもとでそこらじゅうに問題を起こしてまわる固定した存在として対処できるような一枚岩の存在があるのだろうかということである。 わたしが提案しているのは、アメリカに対する別の見方、ほんとうは通常考えられているよりずっと異論に満ちた現実を抱える、悩める国なのだという見方である。アメリカは深刻なアイデンティティの衝突に巻き込まれており、それに対応するものが残りの世界のいたるところで似たような争いとして顕在化していると捉えた方が正確だろう。通俗的な言いまわしにあるように、アメリカは冷戦に勝ったのかもしれない。だが、その勝利が実際にアメリカの中に何をもたらしたのかはまったく明らかになっておらず、闘争はまだ終わってはいない。アメリカの指導者たちが軍事と政治の力を集中させていることにばかり注目すると、内部では弁証法的発展がいまも継続しており、決着に向かう気配はさらさらないという事実を見過ごすことになる。 妊娠中絶の権利や自然進化論を学校で教えることなどについては、いまだに論争は未解決である。


もう一つのアメリカ
The other America
Al Ahram Weekly 2003年3月20〜26日 No.630

もう一つのアメリカ

数日前の小さな新聞記事で、サウジアラビアのイブン・アルワリード王子がカイロのアメリカン大学にアメリカ研究センターを設立するための資金として一千万ドルを寄付したことが伝えられた。 この年若い億万長者が9月11日の爆撃の直後、頼まれもしないのに一千万ドルをニューヨーク市に寄付しようとしたことが思い出される。そこに添えられた手紙には、このたいそうな金額をニューヨークに捧げたいという記述と並んで、合衆国は中東政策を少し考え直してもよいのではないかという提案があった。 明らかに、彼の念頭にあったのはイスラエルに対するアメリカの無条件の全面支持であった。だが丁寧に述べられた彼の提案には、イスラームを中傷する、あるいは少なくとも軽視するようなアメリカの政策全般のこともまた含まれていたようである。

これに激怒した当時のニューヨーク市長(この街は世界のどの都市よりも多くのユダヤ系住民をかかえている)ルドルフ・ジュリアーニは、小切手をアルワリードに突っ返した。そのぶっきらぼうで極端な、わたしに言わせれば人種差別的な軽蔑の態度は、相手を侮辱し、満悦にひたるためのものだった。 ニューヨークのイメージを代弁するように、同市がはっきり行動で示す勇気や外部干渉を排するという信念にもとづく抵抗を、ジュリアーニは個人的に守ってみせた。 これはもちろん、固く結束していると称するユダヤ系選挙民を喜ばせることになった──教育するのではなく。

ジュリアーニの無作法なふるまいは、数年前(オスロ合意からかなり経った1995年)にフィルハーモニック・ホールのコンサートに国連の全員を招待しておきながら、ヤセル・アラファトの入場を拒絶したときのことと軌を一にするものだった。 アメリカの大都市の二流政治家が演じる安っぽい猿芝居の典型で、ニューヨーク市長がこの若いサウジアラビア人からの贈り物に示した対応は完全に予測できるものだった。 この金は、恐ろしい非道に傷ついた都市の人道支援に使われるよう意図されており、また大いに必要とされていたにもかかわらず、アメリカの政治システムとその主要な担い手たちはイスラエルを他のなによりも優先したのだ。イスラエルからたっぷり寄付をもらった活発なロビイストが同じことをしたかどうか、そんなことを待つまでもなく。 もしジュリアーニが金を返さなかったとしたら、どんなことになっていたかは誰にもわからないが、実際に起こったことは、彼は、たっぷり賄賂をもらったイスラエル支持派のロビー活動さえみごとに先取りしてしまったということだ。 著名な小説家ジーョン・ディディオンが最近『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』の記事で書いたように、それはフランクリン・D・ルーズヴェルトがはじめて明瞭に言葉にして以来、ずっと合衆国の主要政策のひとつになってきたものであり、アメリカがあらゆる道理に逆らって、一方ではサウジアラビアの君主制への支持を維持しようとしながら、他方ではイスラエル国家との関係も保とうとしており、その救いがたい矛盾がきわまって、「わたしたちのイスラエルの現政府との関係に少しでも触れる可能性のあることは何も議論できなくなった」(2003年1月16日号 56頁)というところまできている。

アルワリード殿下についてのふたつの物語はぴったりかみ合っており、アラブのアメリカ観にしては非常にめずらしいことに連続性を示している。 少なくとも三世代にわたって、アラブの指導者や政治家たち、また多くはアメリカで教育を受けたその顧問たちは、自国の政策を策定するにあたって、アメリカというものについての ほぼ完全な虚構と空想的な考えを基にしてきた。 論理性にはほど遠く、この考えの根底にあるのは「アメリカ人」が本当はどのようにすべてを動かしているのかということに尽きるのだが、仔細に見ればそこには広範な、ごたまぜにちかいほど多彩な主張が取り込まれている──アメリカはユダヤ人の陰謀だとする説から始まって、アメリカは恵み深い善意と虐げられた人々への援助の無尽の泉であるとする説や、オリンポスの神のように ホワイトハウスに鎮座する比類のない白人の男が一から十まで仕切っているとする説にいたるまで。

わたしはヤセル・アラファトとつきあいの深かった20年のあいだに、彼にわかってもらおうと何度も試みた。アメリカは複雑な社会であり、そこにはあらゆる種類の潮流があり、利権団体や圧力団体があり、対立する歴史を内部に抱えているのだということ、またアメリカの統治構造は例えばシリアなどとはまったく異なったものであり、この異質の権力と権威のモデルは研究されねばならないということを彼に説明した。アラファトの説得には、亡くなった友人のイクバール・アフマドにも加わってもらった。彼はアメリカ社会について専門的知識を持ち、また世界の植民地主義に対抗する民族解放運動についてはおそらく最も優れた理論家であり歴史家であった。他の専門家も動員して、より鋭い、微妙なところに切り込んだモデルを開発し、パレスチナ人が1980年代後期に行われた合衆国政府との予備折衝に役立てることができるようにすべきだと、わたしたちはアラファトに進言した。 アフマドは、1954-62年のアルジェリア独立戦争中にFLN(民族解放戦線)がフランスと持った関係や、1970年代にキッシンジャーと交渉していた時期の北ヴェトナムを緻密に研究していた。

これらの反乱勢力が戦いの相手である本国の社会について持っていた綿密で詳細な知識と、パレスチナ人がアメリカについて持つカリカチュアに近い知識(風聞や「タイム」誌をざっとよんだだけのもの)のあいだの対比は際立っていた。 アラファトがひたすら執着したのは、ホワイトハウスに個人的に迎え入れられて白人のなかの白人ビル・クリントンと話をすることだった。アラファトのものの考え方からすれば、それはエジプトのムバラク大統領あるいはシリアのハーフェス・アル・アサド大統領のような人物と談判してものごとの決着をつけるのと同等のことだったのだろう。 その間にクリントンがアメリカ式の政治手腕の天才ぶりをむき出しにして、彼の魅力と巧みな制度の操りによってパレスチナ人を完全に圧倒し、混乱させることになれば、アラファトと彼の部下たちにとってはそれだけ歩が悪くなる。 だが彼らの単純化されたアメリカ観はみごとなまでに変化せず、今日にいたるもまだ変わっていない。抵抗することや、唯一で無敵の超大国を抱えたこの世界で政治ゲームに参加する方法を知るということについて言えば、状況は半世紀以上も前からちっともかわっていない。 たいていの人々は、失恋でもしたかのように両手を挙げて絶望の身振りをする。アメリカは救いがたい、もう帰るのはごめんだ、と彼らはよく言うが、その一方で、グリーンカード(米国永住権)の取得や子供たちを留学させたいという意欲が大きいことにも気づかずにはおられない。

この話の、もっと明るい側面は、アルワリード殿下が後に方向転換したらしいことである。それにつては憶測でしかないが、ひとつだけはっきりわかっていることは、アメリカの文学や政治に関する少数の講義やセミナーがアラブ世界のあちこちの大学に散在するのを除けば、アメリカについて、国民、社会、歴史などを系統的かつ科学的に分析するための専門研究機関は、これまでまったく存在しなかったということだ。 カイロとベイルートのアメリカン大学のようなアメリカの研究機関にさえ、そういうものはなかった。 このような欠落は、おそらく第三世界全体についても当てはまり、もしかするとヨーロッパ諸国の一部にさえ当てはまるかもしれない。 なにが言いたいかというと、とほうもなく無拘束なこの超大国から逃れられないこの世界で生きていくためには、その渦を巻くダイナミクスについて人知のおよぶかぎりで理解することが絶対に欠かせないということである。 そこにはまた、実際の役に立つ流暢な言語の能力も含まれると思う。これは、ほとんどのアラブの指導者(問題の典型)に欠けているものだ。 確かにアメリカはマクドナルドの国、ハリウッドとブルージーンズとコカコーラとCNNの国である。これらの製品は輸出され、グローバリゼーションと多国籍企業と、簡単で便利な消費への世界的な欲望のおかげで、世界中のどこでも手に入る。 けれども、意識しておく必要があるのは、これらがどこからきたのか、これらの究極的な出所である文化的、社会的プロセスはどのように解釈できるものなのかということだ。とくに、アメリカについての過度の単純化、還元的に静止したものとしてとらえる危険がこれほど明らかになっているときには重要なことである。

今これを書いている最中にも、はなはだ不人気な対イラク戦争に向けてのお膳立てを進めるアメリカによって、世界はむりやりに不承不承の服従(あるいはイタリアやスペインなどのように、まったくの日和見による同盟関係)へと追い込まれている。 だが、いま続いている世界的なデモや抗議行動──完全に民衆レベルで発生したものだ──がなければ、この戦争は対抗者のいない冷笑的な支配による恥知らずな行為でしかなかったろう。 だがこれほど多くのアメリカ人、またヨーロッパやアジアやアフリカやラテンアメリカの人々が街頭に出て、あるいは現地の新聞の紙面で、声高に異議を唱えているということは、合衆国が、いやむしろ現在その政府を支配している少数のユダヤ教徒とキリスト教徒の白人男性たちが、世界制覇にのり出しているという事実が認識され始めていることを、少なくとも示唆している。 ではこれから何をするべきか?

この後の部分では、今日のアメリカの驚くべきパノラマを手短にスケッチしてみよう。アメリカ人として長年ここに心地よく住んできたにもかかわらず、パレスチナ出身であるという理由から相対的な部外者としての視点も持ちつづけ、なおかつ一種の内部者でもあるという人間の目に映った光景である。 わたしの動機は、普通に考えられているような(特にアラブやムスリム世界ではそう考える傾向が強い)一枚岩の存在とは大きく異なるこの国について、理解し、介入し、(この言葉が不適当でなければ)抵抗する方法を提唱したいということに尽きる。 いったい、そこに何が見えてくるだろうか?

アメリカが古典的な帝国と違っているところは、いずれの帝国も自己の完全な独創性と、先行した帝国の度を越した野心はくり返さないという決意を強く主張した点では変わりはないのだが、このたびのものはそれを主張するにあたって、神聖なまでの利他主義と無邪気な善意という驚くべき自己肯定を行っていることだ。 この憂うべき妄想のおかげで、以前は左派やリベラルだった知識人による新たな護衛軍団の出現という、さらに憂慮される事態が起きている。この人たちは従来、アメリカが海外で行う戦争に反対してきたのだが、現在ではよろこんでこの高潔な帝国(孤独な衛兵の姿が使われている)を擁護しようと、愛国的な熱弁から狡猾な皮肉にいたるまでの様々なスタイルを駆使している。 9月11日の出来事がこの方向転換の一因となっているのだが、驚くべきことに、ツインタワーとペンタゴンの爆撃は、恐ろしいものではあったものの、まるでどこからともなくわいてきたとでもいうように、いつのまにやら後ろに引っ込んでしまった。アメリカの干渉やいたる所への進出に怒り心頭に達した海の向こうの世界からきたのではなかったのだろうか。 こう書いたからといって、もちろんイスラムのテロリズムを容赦せよと言っているわけではない。どこをとっても、それは忌まわしい行為である。 言いたかったのは、アメリカのアフガニスタンへの対応や現在のイラクへの対応についてのこれらの偽善的な分析には、歴史や物事のつり合いというものが完全に滑り落ちてしまっているということだ。

だがリベラルのタカ派が特にかたく口をつぐんでいるのは、キリスト教右派(熱狂と正義感ではイスラム急進主義にそっくりだ)の存在と、今日のアメリカにおける彼らの決定的な影響力についてである。 彼らのヴィジョンは主に旧約聖書に根拠を置いて生じたものであり、彼らの緊密な協力者であり相似物であるイスラエルの特性と軌を一にしている。 イスラエルを支持する有力なアメリカの新保守派とキリスト教急進主義者のあいだの同盟が奇妙なのは、後者のシオニズム支持は救世主の再臨にそなえてユダヤ人を聖地に送る手段としてだということだ。再臨のときがくればユダヤ人たちはキリスト教に改宗するか、さもなくば滅ぼされるとされている。 この血なまぐさく過激に反ユダヤ的な目的論はめったに言及されることなく、イスラエル支持派のユダヤ軍団はもちろん堅く口をつぐんでいる。

アメリカは世界でも最もはっきり宗教的であることを自認する国だ。 神への言及が国民生活のすみずみまで浸透しており、貨幣から建築物、さらには一般的な話し言葉にもそれが見出される──In God we trust(我ら神を信頼す:紙幣に刻まれた言葉)、God's Country(神の恵み豊かな国)、God bless America(アメリカに神のご加護あれ)等々。 ジョージ・ブッシュの支持母体になっているのは六千万から七千万人の原理主義キリスト教徒で、彼らは、ブッシュ本人と同様に、自分たちはイエスに会ったことがあり、ここにいるのは神の国において神の仕事を果たすためだと信じている。 社会学者やジャーナリストの中には(フランシス・フクヤマやデイビッド・ブルックスなど)現代のアメリカの宗教は、共同体や遠い昔の安定感を求める気持ちが結実したものだと論じる人たちもいる。人口のおよそ20パーセントが定住していないという事実がその根拠である。 けれども、そのような願望という説明があてはまるのは一定のところまでだ。もっと重要なのは、予言的な啓示による宗教、時には黙示祿的なこともある使命感への固い信念や、細かい事実や複雑な問題は軽視するという態度である。この国が、騒然とした世界から地理的に大きく隔たっていることも要因の一つであり、地続きの隣国カナダとメキシコにはアメリカの熱狂を和らげる能力がほとんどないという事実もまたしかりである。

これらの要素はみな一点に収束し、アメリカの正義、善良さ、自由、経済的な将来性、社会の進歩などという考えを形成している。イデオロギー的に日常生活の構造にしっかり組み込まれているため、イデオロギーであることさえ気づかれず、自然の一部とみなされるようになっているのだ。 アメリカ = 善 = 完全な忠誠と愛。 また同様に、建国の父たちに対する無条件の崇拝があり、憲法に対してもそれがある。すばらしい文書。それは本当だが、それでも人間が作ったものだ。初期アメリカは、アメリカらしさの典拠となるものだ。 国旗を振ることに、これほど重要な図象学的な役割を持たせている国は他に知らない。 タクシーにも、男物ジャケットのラベルにも、住宅の前窓や屋根の上にも、そこらじゅうに旗が翻っている。 それは国民イメージの具現化であり、英雄的な耐性と、価値なき敵との戦いに悩まされているという感覚を表している。 愛国心が今もアメリカの最上の美徳であり、それに結びついているのが宗教、家族、そして正しい行いをすること──自国ばかりか世界中で。 愛国心はまた小売り消費にも表現されているようだ。9/11の出来事の後、アメリカ人は悪いテロリストをものともせずに買い物に励むよう命じられたのだから。こうしたものをすべて活用して、ブッシュとその雇い人ラムズフェルド、パウエル、ライス、アッシュクロフトのような人たちは、7000マイルも離れたところで戦争するために軍を動員した。サダム、とあまねく呼ばれている人物を「しとめる」ためである。 その背景にあるのは、ラディカルな、たぶん不安定化を招くであろう変革の渦中にある資本主義の機構である。 エコノミストのジュリー・ショアは、アメリカ人が30年前に比べてずっと長い時間働くようになっていること、またそれにもかかわらず賃金は相対的に目減りしていることを証明した。 それでもなお、「自由な市場機会」という言葉で表されるドグマには、いまだに重大な、系統的かつ政治的な反論が出てこない。連邦政府と提携した企業の構造が、いまだに多くのアメリカ人に国民皆保険制度と健全な教育を与えることが出来ずにいるというのに、それが変わらねばならぬかどうかなど、まるで誰も気にしていないかのようだ。株式市場ニュースのほうが制度の見直しよりも重要なのだ。

これがアメリカのコンセンサスの大雑把な要約だ。政治家はこれを利用し、スローガンとサウンドバイトへととめどなく単純化しようとする。 けれども、この素晴らしく複雑な社会に見出されるのは、数多くの対抗する潮流やオルターナティブがこのコンセンサスと交錯し、取り巻いていることである。 強まる戦争への抵抗を大統領は基本的に最小限に評価し、知らぬふりをしているが、それはもうひとつのアメリカ、非因習的なアメリカから生じているものだ 。これをメインストリームのメディア(『ニューヨーク・タイムズ』のような有名新聞や全国放送網、大手出版・雑誌)はいつもおおい隠し、押さえ込もうとする。これほどまでに恥知らずな、スキャンダラスなまでの共謀が、TVニュースと戦争を急ぐ政府のあいだに結ばれたことはかつてなかった。CNNあるいは主要ネットワークに登場するふつうのニュースキャスターでさえ、サダムの悪と、なぜ手遅れになる前に「我々」が彼を止めなければならないのかを興奮気味に話す。さらにひどいのは、放送電波が、元軍人や、テロリズム専門家、中東政策アナリストという、関連する言語はひとつも知らず、現地を訪れたことさえなく、およそ何かの専門家になるには教養がなさすぎるような人々であふれていることだ。彼らは異口同音に、丸暗記した専門用語を使って、「我々」はイラクに何かの手を打つ必要があるということ、またそうする一方で、差し迫った毒ガス攻撃に備えてわたしたちの家の窓や車に対処を施さねばならないということを論じている。


管理され、構築されたものであるため、コンセンサスは一種の永遠の現在のなかで稼動する。 そこに歴史は禁物である。一般にみとめられた公的言説のなかでは、「歴史」という言葉は無意味とか取るに足らないというのと同義である。「You're history」(あんたとは終わった)という、馬鹿にしたように相手を切り捨てるアメリカの表現に示されている通りだ。 さもなければ、歴史とは、アメリカについて(残りの世界は、「古く」て、全般的に取り残されているのだから、どうでもよい)アメリカ人なら信じているはずのことである──無批判に、忠実に、そして史実とは関係なしに。 ここには驚くべき両極性が働いている。 大衆の心の中ではアメリカは歴史の上に立つ、あるいはそれを超越した存在である。 その一方で、国中のどこへ行っても目につくのは、小さな地域トピックから世界帝国の広大な領域までのあらゆるものの歴史への、一般の人々が持つ熱烈な興味である。 この微妙なつり合いを保つ二極の両方から多数のカルトが発達し、排他主義的な愛国心から超俗的な心霊主義や霊魂再来説に至るまでの広い範囲をカバーしている。

歴史をめぐる、もう少し現世的な争いの一例は、ここで思い出す価値がある。 10年前、学校ではどんな種類の歴史が教えられるべきかをめぐって、公共の領域で大きな知的論争が繰り広げられた[注1]。 数週間にわたって続いた応酬を通じて明らかになったのは、アメリカの歴史を若者の心に肯定的に響く英雄詩風の国民物語《ナショナル・ナラティブ》に統一すべきだと主張する人々が考えているのは、歴史というものが決定的に重要なのは真実のためだけではなく、イデオロギー的に適切な説明を与え、それによって学生たちを基本的に従順な市民という、一連の基本的なテーマをアメリカの国内や海外との関係における一定不変の要素としてたやすく受け入れるような存在に仕立て上げるためだということだった。 この本質主義者的な観点からは、ポストモダニズムとか不和を助長する歴史(マイノリティー、女性、奴隷制度などの)と呼ばれるような要素は排除されるべきだということになっていた。だが、その結果は、面白いことに、そんなバカらしい規準を押し付けようというもくろみに関するかぎりは不成功に終わった。 リンダ・シムコックスは次のように要約している。「文化についてのリテラシーに対するこのような[新保守主義的な]取り組み方には、相対的に摩擦のない、合意された歴史観を学生たちに植え込もうという魂胆が透けて見えるものであった。 だが、この計画は、まるで違った方向に転がることになった。 初等中等教育の教師たちのための《スタンダード》は、それを実際に書いた社会史や世界史の研究者の手中にあったため、それ自体が多元主義的なものの見方を伝達する手段として、そういうものを潰そうとする政府の意図に対抗するものになったのである。 結局、コンセンサス史観、あるいは文化の再生産・・・は、社会正義や権力の再分配のためにはもっと複雑な過去の説明が必要であると考えた歴史家たちによって異議を突きつけられたのである。」

メインストリームのマスメディアがいろんな意味で君臨している公共圏では、表面上の多様性にもかかわらず、議論に骨組みを与え、出来合いのかたちにまとめ、管理する一連の「ナラテーマ」narratheme (narrate + theme?)とでも呼ぶべきものが存在している。 ここでは、特に鋭く核心に迫っていると思われる少数のものだけを論じよう。 一つは、もちろん、集合的な「we」という言葉の使い方である。国連の場ではわたしたちの大統領や国防長官、砂漠ではわたしたちの軍隊、そしてわたしたちの利害によって、なんの疑念もなく代表されているナショナル・アイデンティティ。わたしたちの利害は、自衛的であり、不純な動機などなく、全体として邪心のないものだとみなされるのが常である。伝統的な女性が邪心なく純粋無垢だとされるのと同じような流儀だ。 いまひとつのnarrathemeは、歴史は無関係であり、正当性のない「関連付け」は承認しないという態度だ。例えば合衆国がかつてサダム・フセインやウサマ・ビンラディンに武器を与えて助成したことや、ヴェトナム(そもそも言及されることがあるならばだが)で起こった特殊な荒廃がこの国に「良くない」ことであった、あるいはジミー・カーターの忘れがたい表現によれば、「一種の《双方による》自己破壊だった」という事実との。 さらにショッキングなのは、二つの途方もなく重要で根本的なアメリカの経験、すなわちアフリカ系アメリカ人の奴隷制度とアメリカ先住民を追放し、ほとんど絶滅させたことに対する、いまも継続している慣習化したとさえ言える無責任である。 これらのことは、いまだにナショナル・コンセンサスの中に、少しでも重みを持って織り込まれたことはない。 (ワシントンDCには大きなホロコースト・ミュージアムがあるというのに、アフリカ系アメリカ人やアメリカ先住民のための記念物は国中のどこを探しても存在しない)。

三番目は、我々の政策への反対意見は「反米主義」であるという根拠のない断定だ。それは《わたしたち》の民主主義や自由や豊かさや偉大さへの嫉妬に基づいたのものであるとされ、あるいは、アメリカのイラク攻撃に抵抗するフランスに対する現在の妄想に示されているように、例によってむかつく外国人の態度にすぎないとされる。この文脈では、ヨーロッパ人はつねに、アメリカが20世紀に二度も助けてやったではないかと注意される。そこに付随しているほのめかしは、アメリカ軍がほんとうの戦いを全部引き受け、たいていのヨーロッパ人は 座って見ていただけだったというものだ。 そして中東やラテンアメリカのように合衆国が少なくとも50年間にわたって特別な巻き込まれ方をしてきたところについては、アメリカは正直な仲介人であり、偏りのない公正な裁定者、完全な善意に基づいた国際的な人助けのための力であるというのがnarrathemeであり、それに競合するような解釈はほとんどない。従ってここで与えられる思考のつながりには、権力や金融上の利益、資源の争奪、エスニック集団のロビー活動、秘密工作による強制的な政権交替(イランやチリで行われたように)などに関する問題が入り込む余地はなく、たまにそういうものを思い出そうとする努力があるだけで、ほとんど乱れることがない。 この種の現実にいちばん近いものが得られるのは、シンクタンクや政府が使うおぞましい婉曲表現の中である。ソフトパワー[経済協力のこと、ハードパワーである先制攻撃と二本立てで使い分けられる ] や予測やアメリカの構想を論じる慣用句だ。 さらに登場する(ほのめかしでさえ)機会が少ないのは、アメリカに直接の責任がある、並外れて残虐で不当な政策である。例えば、パレスチナの市民生活を破壊するシャロンの軍事作戦への支援や、イラクへの経済制裁がもたらした市民生活のひどい犠牲、あるいはトルコやコロンビアの体制の一般市民に対する恐ろしい非人間的な懲罰を支持を与えていることなど。 これらのことは、真剣な「政策」議論のなかでは禁句と考えられている。

最後に挙げられるのは、公的権限を与えられた人物たち(例えばヘンリー・キッシンジャーやデイビッド・ロックフェラー、そして現政権のすべての政府高官)に代表される、文句なしの道徳的な見識というnarrathemeが、たいして疑問に付されることもなく何度も再生産されていることだ。 例えば、ニクソン時代に有罪を宜告された二人の重罪犯(エリオット・アブラムスとジョン・ポインデクスター)が最近、政府の重要な役職を与えられたという事実には、わずかなコメントしか寄せられておらず、反対する意見はさらに少ない。 権威者については過去も現在も、純粋も不純もいっさい区別せずに好意的に評価するという態度は、うやうやしい、卑屈なまでの解説者や識者の話しぶりに始まって、権威者についてはその磨き上げた外見(儀礼にかなったダークスーツ、白いシャツに赤いネクタイなど)以外のものに目をやるのを徹底的に避け、そこから拭い去られた過去の重大な犯罪につながりかねない記録などは決して見ようとしない態度に至るまで、さまざまな形態をとって表れている。 それを強化しているのは、アメリカ人が現実を扱う哲学体系として信奉するプラグマティズムである。この思想は反形而上学的、反歴史的で、奇妙なことに反哲学的でさえある。 これと組み合わさっているのが、すべてを文構造と言語的な前後関係に還元しようとするポストモダンの反唯名論のようなもので、アメリカの大学では分析哲学と並び立つきわめて影響力のあるスタイルだ。 わたしの大学では、例えばヘーゲルやハイデガーのような人物は、文学や芸術史の学科で教えられており、哲学科で教えられることは稀である。

この異様に執拗な一連のマスターストーリーこそが、新たに組織され、動員されたアメリカの情報活動(特にアラブやイスラム世界で)があらゆる手段を使って撒き散らそうとしているものだ。 その過程で故意にぼかされているのは、驚くほど頑強な反対の伝統が──アメリカが移民社会であることに大きく由来する非公認の対抗的な記憶──この一握りのnarrathemeに平行して、あるいはその内側で隆盛を極めていることだ。 残念なことに、国外の評論家のほとんどは、この林立する反対意見の存在に注意を向けない。 革新的なものと退行的なものの両方が存在するこれらの集団は、マスターナラティブのあいだの通常は不明瞭なつながりを提供し、訓練を受けた観察者の目には見えるようにする。 例えば、提唱されているブッシュの対イラク戦争に対するきわめて強い抵抗の構成要素を調べてみれば、とても異なった流動性の高いアメリカの姿が浮かび上がってくるだろう。外国との協力や対話や有意義な行動をずっと素直に受け入れようとするアメリカである。 ここでは取り上げないが、相当な数の人々が、戦争を起こせば人的、物的な被害に加え、すでに相当に弱っている経済に破滅的な悪影響を及ぼすだろうという観点からこれに反対している。 また、アメリカは裏切り者の外国人や国連や神を信ぜぬ共産主義者たちによって中傷されているという、ひどく混乱した右翼の意見についても、ここでは論じない。 また、リバータリアンと孤立主義者の支持基盤は左派と右派の奇妙な組み合わせだが、それについても深入りするつもりはない。膨大な数にのぼる思想的刺激を受けた大学生たちも、ここで触れずにおくカテゴリーに入る。彼らはアメリカの外交政策についてはほとんどすべての形式において深い疑念を抱いており、特に経済的なグローバリゼーションの推進には批判的だ。アメリカの大学キャンパスが過去においてヴェトナム戦争や南アフリカのアパルトヘイトや国内の公民権問題などに鋭い意識を持ち続けたのは、このような節操のある、時には半アナキスト的なグループのおかげであった。

こういうものを除いた後に残るのは、いくつかの重要で、いろんな意味で手ごわい、経験と良識を持つ有権者層である。それらをざっと概観してみよう。 これらの人々は一般的に、ヨーロッパやアジア・アフリカの規準で言えば「左派」に属している。というのも、第二次大戦後のアメリカには、議会に代表を送る左派政党や社会主義運動が本当に存在した時期は一度もなかったからだ。それほど二大政党制の支配が強かったということであるが、民主党は現在、とてもすぐには回復できないような混乱に陥っている。 まずこのグループに含めたいのは、よい意味で影響されておらず今もかなり急進的なアフリカ系アメリカ人のコミュニティの一部である。彼らは都市部を基盤とし、警察の暴力、職業上の差別、住宅や教育の不備などに声高に抗議している。彼らを率いている、あるいは代表しているのは、アル・シャープトン師やコーネル・ウエスト、ムハンマド・アリ、ジェシー・ジャクソン(指導者としては影が薄くなったが)などのような偶像的またはカリスマ的な人物であり、マーティン・ルーサー・キングJRの伝統を引き継ぐものだと自認している人々だ。この運動につながりを持っているのは、 ラティーノ、アメリカ先住民、ムスリムなど無数のほかのエスニック活動家集団で、それぞれの集団はかなりのエネルギーを傾けてメインストリームにすべりこみ、地方や中央政府に重要な政治的役割を割り当てられることや、テレビの一流のトークショーに出演すること、財団や大学や企業の理事会に席を占めることを狙っている。 けれども全体的には、これらの集団の大部分に活力を与えている要因としては不正や差別を受けているという感覚の方が野心よりも強く、従って彼らはまだすぐにアメリカン(主に白人中産階級の)ドリームに完全に参加する用意はない。 例えば、シャープトン[ハーレムの指導者]のような人物、あるいはラルフ・ネーダーと彼のいまだ低迷している緑の党の忠実な支持者たちに関して興味深いことは、彼らは人目に立ちある程度は受け入れられているかもしれないが、それでもいまだ外部者にとどまっているということだ。基本的に根なし草であり、非妥協的に過ぎ、社会が提供する日常的な報酬にたいして十分な興味をもっていない。

女性運動の中に大きな位置を占める、妊娠中絶の権利、職業上の平等、性的虐待やハラスメントなどの問題を積極的に主張するようなグループは、アメリカ社会における反対派の潮流でも重要な資産である。 同様に、通常は静かな、利害や出世優先の専門家集団(医者、弁護士、科学者、また特に学者、労働組合員、環境運動関係者など)も、ここで列挙している反対潮流に力を注ぎ込んでいる。とはいえ、もちろん統合体としての彼らは、社会が整然と機能することや自分たちの課題の推進に大きな関心を持っている。

それからまた、教団組織としての教会も変革や反対意見の温床としては見くびれないものがある。 その会員は、先に言及したような原理主義者やテレビ宣教師運動からははっきり区別されるべきである。 例えば、カトリックの司教、英国聖公会の信徒と牧師、クエーカー教徒、長老派教会は ── カトリックの場合はセックススキャンダル、他の多くは信徒の減少というように、さまざまな悩みの種はかかえているものの──戦争と平和の問題については 驚くほどリベラルな考えを持ち、国際的な人権侵害や軍事予算の桁外れの膨張、1980年代初期から公共圏を台なしにしてきた新自由主義の経済政策などへの反対を躊躇なく公然と表明している。 歴史的には、組織されたユダヤ人共同体が国内外を問わずマイノリティーの権利に関わる進歩的な主張に参画しているのが常だった。しかしレーガン時代以降は、新保守運動の台頭や、イスラエルとアメリカの宗教右派、またイスラエル批判を反ユダヤ主義と同一視させようとするシオニストが推進する熱心な運動、さらにはアメリカにおける新たなアウシュヴィッツへの恐怖さえ加わって、この勢力の肯定的な働きは大幅に低下している。

最後に、集会や抗議を訴える行進や非暴力デモなどに集まった多数の団体や個人。この人々は、9/11以降の精神を圧殺するような愛国心の外側に身を置いている。 これらを結集させているのは、テロリストや愛国法(パトリオット・アクト)によって脅かされている市民的自由(言論の自由や憲法による保証など)の危機である。 死刑反対の訴え、グアンタナモ・ベイの拘置所に代表される人権侵害への抗議、軍当局の文官に対する一般的な不信、人口比では世界一多い囚人(有色人男女の比率が突出している)を収監する刑務所の民営化が進むことへの懸念の高まり──こうした問題がすべて、中産階級中心の社会秩序の内部に拡散し、たえまない撹乱の材料となっている。 これに相関しているのは、サイバースペースにおける乱戦で、当局側とそうでない側のアメリカ人が入り乱れて容赦ない戦いを繰り広げている。 国内景気の明白な急落がもたらした沈滞のなかで、貧富の差の増大、企業経営陣の異常な浪費と不正、ずうずうしく暴利をむさぼる数々の民営化計画によって明白な危機に瀕した社会保障システムなどといった破滅的な問題が、アメリカ式資本主義システムの固く信じられている名高い美徳に大きなダメージを与えつづけている、

アメリカは本当にこの大統領の下に、彼の好戦的な外交政策と危険なまでに単純な経済観を支持して団結しているのだろうか? この質問を言い換えれば、アメリカのアイデンティティはこれを限りに永遠に確定してしまったのかということ、またその広域に及ぶ軍事力(現在、米軍は何十カ国にも駐留している)を甘受していかねばならぬ世界の中で、黙っているつもりのない残りの世界が、すべての「アメリカ人」の全面的な支持のもとでそこらじゅうに問題を起こしてまわる固定した存在として対処できるような一枚岩の存在があるのだろうかということである。 わたしが提案しているのは、アメリカに対する別の見方、ほんとうは通常考えられているよりずっと異論に満ちた現実を抱える、悩める国なのだという見方である。アメリカは深刻なアイデンティティの衝突に巻き込まれており、それに対応するものが残りの世界のいたるところで似たような争いとして顕在化していると捉えた方が正確だろう。通俗的な言いまわしにあるように、アメリカは冷戦に勝ったのかもしれない。だが、その勝利が実際にアメリカの中に何をもたらしたのかはまったく明らかになっておらず、闘争はまだ終わってはいない。アメリカの指導者たちが軍事と政治の力を集中させていることにばかり注目すると、内部では弁証法的発展がいまも継続しており、決着に向かう気配はさらさらないという事実を見過ごすことになる。 妊娠中絶の権利や自然進化論を学校で教えることなどについては、いまだに論争は未解決である。

「歴史の終焉」というフクヤマの主張の大きな欺瞞、あるいはハンティントンの「文明の衝突論」の欺瞞は、どちらも文化の歴史とは明確に限定された境界線をつけることだとか、明確な始まりと中間と終わりを定めることだという誤った想定にたっていることだ。実際には、文化と政治という領域は、アイデンティティ、自己規定、将来の企図などをめぐる闘争の舞台という性格の方がずっと強い。 流動的で動揺しつづける文化というものに、固定した境界と内的な支配秩序という何の現実性もないものを押し付けようとする点で、彼らは原理主義者である。 文化というものは、特にアメリカ文化のように実際には移民の文化では顕著だが、他の文化と重なり合っているものだ。グローバリゼーションのおそらく意図せぬ結果の一つは、人権運動や女性運動や反戦運動などに見られるような、グローバルな利害で結びついた国籍を超えた共同体の出現である。 アメリカは、こういうものから少しも隔離されているわけではないのだが、世界の多くの人々が参加している一連の議論に参加することができるようになるためには、威圧的に結束した表面を掘り崩し、その下に潜んでいるものをあらわにしなければならない。希望と励ましは、そのような観点から得られるだろう。




注1 :1992年、連邦議会と大統領が学校における歴史教育の広い共通認識のための「全国基準」作成をUCLAのゲーリー・ナッシュ教授らの歴史家グループに依託。専門家・教師・一般から6000人がさまざまな形で参加し、1992年秋にアメリカ史の基準と世界史の基準が発表された。この規準をめぐって新聞紙上やテレビで激しい議論が展開された


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