Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

1993年[オスロ合意成立]以降の年月が明らかにしたものがあるとすれば、それはパレスチナ紛争についてのシオニストの公式見解は、どれほど啓蒙されたリベラルなものであろうとも(メレツ党のような左派シオニストやシモン・ペレスのような中道左派についても等しくあてはまる)先に述べたようなスキゾ傾向に甘んじる用意があるということである。「もちろんパレスチナ人とは和平を結びたい、だが1948年になさねばならなかったことに非は認められない」というわけだ。真の平和を希求するのであれば、この根本的な矛盾はとうてい維持できない。パレスチナ人は自分の土地にいるというのにユダヤ人より下に置かれるという考えを容認することになるからだ。おまけに、シオニズムと民主主義のあいだの根本的な矛盾も容認することになる(民主的なユダヤ国家と、百万人の非ユダヤ教徒が土地所有や労働においてユダヤ人と同等の権利を与えられていないという現状を、どのように両立させるというのか)。ニュー・ヒストリアンの大きな価値は、彼らの研究が少なくともシオニズムのなかの矛盾を極限まで押し進め、イスラエル人の大半、さらには多数のアラブ人の目にもそれが明らかになるようにしたことである。


新しい歴史、古い観念
New History, Old Ideas
Al-Ahram Weekly 1998年6月21〜27日 No.378

先週わたしは、フランスの月刊誌「ル・モンド」がパリのパレスチナ研究所の季刊誌Revue d'etudes palestiniennes と共同開催した会議に出席し、発言した。この会議は、いわゆるイスラエルの「新しい歴史家」(ニュー・ヒストリアン)とパレスチナ側のそれに相当する人々がはじめて公開で意見交換をするというふれ込みだったが、実際には3度目か4度目のものであった。それでもなお、両サイドの歴史家のあいだで長時間にわたる意見交換ができたのはこれが初めてのことだったので、その点ではこのパリの会議はきわめて目新しいものだった。

パレスチナ側にはエリアス・サンバーとヌール・マサルハとわたし、イスラエル側にはベニー・モリスイラン・パペ、イタマール・ラビノヴィッチ (彼は本来の意味ではニュー・ヒストリアンとは言えない。元労働党顧問、イスラエルの合衆国大使、テルアヴィヴ大学の歴史学教授で専門はシリアであるが、その見解は変わりつつあるようだ)。そして最後にゼエヴ・シュテルンヘルという、ヘブライ大学教授でヨーロッパの右翼大衆運動を専門とするイスラエルの歴史学者がいた。シュテルンヘルは最近、イスラエル社会の神話(イスラエルはリベラルで社会主義、民主主義の国家であるというような)についての非常に重要な著作を出版した。そのような神話を完全に粉砕するように、労働党全般、とりわけイスラエル労働総同盟(HISTADRUT)に顕著な、非リベラル、半ファシスト、根深い反社会主義というイスラエル社会の性格を驚くほど詳細に分析したものだ。

情宣が不足していたため聴衆の数はやや少なかったが、提出された資料の質の高さや数時間にわたる討議ができたことから、発言の一部にムラがあったにもかかわらず、同会議は非常に貴重な体験となった。強く印象に残ったことは、イスラエル側の参加者(決して同一の政治信条の者ばかりだったわけではない)は、超然とした態度、批判者として距離を置くこと、冷静な省察などが歴史研究には重要であると何度も述べたのに対し、新しい歴史が必要だというパレスチナ側の主張には、ずっと深刻でせっぱつまった、感情的とさえ言える響きがあったことである。その理由はもちろん、イスラエルは(ひいては大半のイスラエル人は)この紛争において優勢にたつ側だからだ。彼らはすべての領土を支配下に置き、すべての軍事力を握っているため、ゆっくり時間をかける余裕があり、議論が自然に展開するのを落ち着いて見守るという贅沢が許されているのだ。ただイラン・パペだけは、率直にパレスチナ側の見解への支持を表明し、わたしの見るところイスラエル側では最も因習打破的ですばらしい発言をした。パペはハイファ大学の教授で、社会主義者で反シオニスト歴史学者であることを公然と認めている。それ以外のイスラエル側の参加者は、シオニズムはユダヤ人に必要なものだと程度の差はあれ考えているようだった。例えば、シュテルンヘルは最終セッションで、パレスチナ人に対し重大な不正がなされたことや、シオニズムの本質は征服をめざす運動だということを認めたうえで、それが「避けられぬ」征服であったと述べて私を驚かせた。

イスラエル側の出席者に目立ったことの一つは(ここでもパペは例外だが)、彼らの研究にしみわたっている分裂症すれすれの根源的な矛盾だ。例えばベニー・モリスは、10年前、パレスチナ難民問題の発生についてイスラエル人の著作としては最も重要なものを書いた。モリスはハガナ〔イスラエル軍の前身〕やシオニストの文献によって、ベングリオンが採用し承認した「移送」政策の結果としてパレスチナ人が一斉出国を強要されたことを合理的な疑いの余地のないほどに証明してみせた。モリスの綿密な研究によって、どの地区でも指揮官がパレスチナ人を追い払い、村を焼き、彼らの家や財産を組織的に接収するよう指令を受けていたことが明らかにされた。だが奇妙なことに、同書の最後にいたるまで、モリスは自分の発見した証拠から必然的に導かれる結論を下すことをしぶっているようだった。パレスチナ人は実際には追い払われたのだと言う代わりに、パレスチナ人たちの一部はシオニストの軍隊によって追い払われ、また一部は戦闘の結果として「退避した」と彼は言う。それはあたかも、自分はシオニストなので、そのイデオロギー的解釈──パレスチナ人たちはイスラエルが追い立てるまでもなく自分から退去した──を信じており、シオニストの政策がパレスチナ人の大量出国をもたらしたという自分自身が証明したことも100パーセント受け入れることはできないと言っているようなものだ。同様に、シュテルンヘルは同書の中で、シオニストたちはアラブ人を厄介者と考えたことはないと主張し、その理由として、そうでなかったとするならばシオニストたちは、ユダヤ国家建設計画がパレスチナ人を追い払わぬ限り実現しないことを、公然と認めたはずだと述べている。にもかかわらず、パリの会議では、彼はパレスチナ人の追放は道徳的には過っていたけれども、そうする必要があったのだと主張したのだ。

このような不整合はあったものの、パペやパレスチナ側の出席者に強く迫られると、モリスもシュテルンヘルもためらいをみせたことは印象的だった。彼らの見解がゆれ動く様子は、イスラエル内部に起きているもっと深い変化を示す徴候だとわたしは受け止めている。ここで重要なのは、シオニスト思想の本流に大きな変化が起こるとするならば、それは労働党やリクード党のような公式の政治の主導によってではなく、そのような文脈の外側、すなわち知識人が今日のイスラエルの不安な現実についてもっと自由に思いをめぐらすような場でこそ起こるはずだということだ。それ以外のところで両サイドの知識人が例えばネタニヤフ首相の政策に影響しようとするような試みの難点は、コペンハーゲン・グループ[注2]の例が示すように、政府のずっと狭く短期的な視野に近づきすぎることである。1993年[オスロ合意成立]以降の年月が明らかにしたものがあるとすれば、それはパレスチナ紛争についてのシオニストの公式見解は、どれほど啓蒙されたリベラルなものであろうとも(メレツ党のような左派シオニストやシモン・ペレスのような中道左派についても等しくあてはまる)先に述べたようなスキゾ傾向に甘んじる用意があるということだ。「もちろんパレスチナ人とは和平を結びたい、だが1948年になさねばならなかったことに非は認められない」というわけだ。真の平和を追求するのであれば、この根本的な矛盾はとうてい維持できない。パレスチナ人は自分の土地にいるというのにユダヤ人より下に置かれるという考えを容認することになるからだ。おまけに、シオニズムと民主主義のあいだの根本的な矛盾も容認することになる(民主的なユダヤ国家と、百万人の非ユダヤ教徒が土地所有や労働においてユダヤ人と同等の権利を与えられていないという現状を、どのように両立させるというのか)。ニュー・ヒストリアンの大きな価値は、彼らの研究が少なくともシオニズムのなかの矛盾を極限まで押し進め、イスラエル人の大半、さらには多数のアラブ人の目にもそれが明らかになるようにしたことである。

イスラエルのニュー・ヒストリアンの今日における政治的重要性が、パレスチナ人が(歴史学者に限らず)、民族としての自分たちにイスラエルが何をしたかについて何世代にもわたり主張してきたことを、彼らが確認したことにあるのは間違いない。そしてもちろん彼らはイスラエル人として、ある意味で自分たちの民族や社会の良心の代弁者としてそれを行なったのだ。しかしここで自己批判的に語るならば、わたしはアラブとして、特にパレスチナ人として、自分たちの歴史や神話や家父長的な国民観などについて検討することにも着手せねばならぬと感じている。わたしたちはまだそれに手をつけていない。パリのセミナーでは、パレスチナ人たちはわたしを含め現状について極めて切迫した気持ちをいだいて話していた。なぜなら、いまこの瞬間もパレスチナ人の「ナクバ」[破局]は継続しているからだ。剥奪と追放はいまも続き、わたしたちの権利の否定は新たな、一段と破壊的な形態をとってきている。それでもなお、知識人として、歴史家として、わたしたちには自らの歴史、自らの指導体制や制度の歴史を新たな批判的なまなざしでとらえなおす義務がある。こういうところに、現在わたしたちが直面する民族としての困難を説明してくれるものがあるのではないだろうか。例えば、hamulas とよばれる名家間の対立、伝統的に指導者は民主的に選ばれなかったという事実、世代が代わるごとに腐敗と凡庸が再生産されるらしいという同じく破滅的な事実についてはどうだろう。これらは深刻な、致命的とさえいえる問題であり、国防とか国民の団結とかにかこつけて対処を怠ったり、いつまでも先延ばしにしたりというわけにはいかないものだ。パレスチナ人の武力闘争の歴史についてのYezid Sayegh の新著には、批判的な自己認識の端緒が見られるようだ。だが、わたしたちにはもっと具体性を持った政治的で批判的なこの種の研究、わたしたちの歴史の複雑さやパラドックスを認識することを敬遠しない研究が必要である。

わたしの知る限り、モリスの著作もパペの著作もシュテルンヘルの著作も、どれもまだアラビア語には翻訳されていない。この欠落はただちに満たされるべきである。同じく重要と思われるのは、アラブ知識人が、こうしたニュー・ヒストリアンたちをアラブ系の大学や文化センターや公共フォーラムなどの討議に招待し、彼らと直接の交流をもつことの必要性である。同様に、パレスチナ人として、さらにはアラブ知識人としてのわたしたちのつとめは、イスラエル側の施設にも赴き、公然と、勇敢に、妥協を排して講演を行ない、それを通じてイスラエルの学者や知識人の聴衆をこちらに引き込むことだと考える。イスラエルを相手にすることを長年にわたって拒絶してきたことで、わたしたちはいったい何を得たというのか?皆無である。むしろ自らを弱め、相手方についての自らの認識を弱めただけのことではないか。1948年以来の政治は今や終局を迎え、イスラエルのユダヤ人とパレスチナ人を分離しようとするオスロ・プロセスの破綻の中に埋葬された。それに代わる新しい政治としてわたしがここで語ってきたものの一環として、イスラエルのニュー・ヒストリアンたちとの継続的な交流のなかからすばらしい機会が開けてくることが期待される。

この人たちは、ほんの一握りの存在ではあるが、大きな意義をもつ現象を代表している。彼らの研究は、例えばイスラエルの放送局が建国50周年記念番組として製作した「テクマ」(再生)という22部構成の国家の歴史を描いたテレビ映画にも大きな影響を与えた。このテレビ映画はイスラエルの学校や講演会などでひっぱりだこで、彼らの研究にはヨーロッパでも合衆国でも歴史家やそれ以外の人々の関心が集まっている。この人たちの声が完全には伝わってこない場所のひとつがアラブ世界であるというのは、退行的とはいわぬまでも異常なことと思われる。わたしたちは自分たちの間の人種偏見や現実逃避的な態度を捨てて、情況を変革する努力をしていかなければならない。その時は来ている。


注1 イスラエルでは1980年代になって、建国の由来など従来のシオニスト「神話」に疑問を投げかける一群の人々が歴史学のみならず様々な分野に登場した。彼らを総称してニュー・ヒストリアンとよぶ。

注2 エジプト、イスラエル、ヨルダン、パレスチナのNGOが国際協調によるアラブ・イスラエル和平推進を図ったもの。1999年7月カイロで和平会談を開催した


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