Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

実際には、アメリカの力を代弁する論客や評論家が想像するよりも問題はずっと根が深く、もっと興味深い。 世界中の人々がみな思考と語彙の革命という苦悩を経験している。そこではアメリカの新自由主義と「プラグマティズム」が、アメリカの政策当局によって普遍的な規準に等しいとされているのだが、実際には(先に触れたイラクの例で見たように)、例えば「リアリズム」や「プラグマティズム」という言葉、あるいは「世俗的」とか「民主主義」というような言葉の使い方に、あらゆる種類のずれやダブルスタンダードがある。これには徹底的な再考と再評価が必要である。「その後に出現するのは、我々におとなしく従う民主的なイラクだ」などという幼稚な処方箋に奉仕するには、現実はあまりにも複雑で多種多様である。こんな論法は、現実というテストに耐えらえない。意味は、一つの文化から別の文化に対して押し付けられるようなものではないし、ある言語やある文化だけがものごとを効率的に処理する秘訣を所有しているなどということも同じくありえない。


夢想と妄想
Dreams and delusions
Al Ahram Weekly 2003年9月21〜27日 No.652

7月末、ワシントンで最も有力な3、4人のひとりと紹介されるのが決まりのトム・ディレイ共和党下院院内総務(テキサス州選出)が、ロードマップと中東和平の今後について意見を表明した 。その内容は、その後に控えていたイスラエルとアラブ諸国の歴訪を睨んだものであり、その訪問のなかでも彼は同じ主旨の発言を行ったと報道されている。ディレイは明瞭な言葉で、ブッシュ政権が推進する「ロードマップ」に自分は反対であると宣言した。とりわけ彼が容認できないのは、パレスチナ国家の実現という条項である。「それはテロリスト国家になるだろう」と彼は断定的に述べた。そこで使われる「テロリスト」という言葉には―─アメリカの当局者の言説では習慣的になったように──それをとりまく状況も、定義も、具体的な特徴も、まったく考慮されていない。おまけに彼は、イスラエルに関する自分の考えの背景にあるのは、「キリスト教シオニスト」 としての信念であると付け加えた。この文句は、イスラエルがなすすべての行為を支持するということと同義であり、そればかりでなく、ユダヤ国家には現在の行ないを続けていく神学上の権利があることを認め、その過程で「テロリスト」とされる数百万人のパレスチナ人が迫害されるかどうかなどはおかまいなしということでもある。

合衆国の南西部では、ディレイと同じような考え方を持つ人々が6千万から7千万人という、たいそうな数にのぼっている。注目すべきは、その中にほかならぬジョージ・W・ブッシュも含まれていることだが、彼はおまけに感化されて信仰に目覚めたキリスト教原理主義者であり、彼らにとって聖書に書いてあることはすべて文字通りに受け取られねばならないのだ 。ブッシュは彼らの指導者であり、2004年の選挙ではまちがいなく彼らの票をあてにするだろう。だが、わたしの意見では彼は勝てない。 そして、彼の大統領の地位が彼の破滅的な国内外での政策のせいであやうくなるがゆえに、彼と選挙運動の策士たちは、さらに多くの右派のキリスト教徒たちを取り込もうと、中西部を中心に他の地方へも働きかける。つまるところ、キリスト教右派《Christian Right》は、熱狂的にイスラエルを支持する新保守主義の思想やロビイイング力と手を携えて、アメリカの国内政治における恐るべき勢力となっているのだ。悲しいことに、アメリカではこの領域で、中東についての論議がなされるのだ。パレスチナとイスラエルは国内問題なのであって、外交問題とはみなされない。そのことは常に忘れてはならない。

ディレイの声明が、もし単なる狂信的な宗教家の個人的な意見だったり、取るに足らぬ夢想家のとりとめない呟きだったというのであれば、そんなものはすぐにナンセンスとして退けられてしまっただろう。だが、彼のことばは権力の言語であり、アメリカではそう簡単にたてつくことはできない。なにしろここではあまりに多くの人々が、自分たちが見たり信じたりすること、時には行動までもが、神によって直接導かれていると信じているのだ。 ジョン・アシュクロフト司法長官 は、毎日の執務をはじめる前に職場で集団礼拝をあげると伝えられている。それも結構、祈祷したい人はいるだろうし、憲法は完全な信仰の自由を保障しているのだから。だが、ディレイの場合は、パレスチナ人という一つの民族全体に対して、彼らが集まれば「テロリスト」国家というもの──現在のアメリカ政府による定義に従えば人類の敵だ──をつくるだろうなどと攻撃的な発言をして、彼らが民族自決を達成するのを大きく妨げ、さらに多くの懲罰と迫害を彼らにもたらすようなことを進めようとする。すべて宗教的な理由からだ。だが、いったいどんな権利があって?

ディレイの立場が示すまったくの非人間性と帝国主義的な傲慢さを考えてみてほしい。1万マイルも離れたところにいる彼のような有力者が、パレスチナに住むアラブ人の実際の生活については月世界の人についての知識ぐらいしかないくせに、彼らの自由を否定し、阻害し、この先まだ何年も抑圧と迫害が続くことを確実にすることができるというのだ。しかもただ、この人々はみなテロリストだと彼が考えるから、彼自身のキリスト教シオニズム──そこでは、証明も理由もたいして重視されない──がそうせよと彼に告げるから、というだけの理由で。 そういうわけで、ここ[アメリカ]のイスラエル・ロビーの活動に加えて(かの地のイスラエル政府はむろんのこと)パレスチナの男や女や子供たちは、自分たちの前途にアメリカ議会が積み上げる障害や邪魔者を、だたひたすら耐え忍ばねばならないというのだ。

ディレイの意見に感じたのは、その無責任さや、安易で野蛮な《uncivilized》(対テロ戦争に関連して、ずいぶん多用されている言葉だ)やり方で、彼にどんな危害を与えたわけでもない何千人もの人々を切り捨てているということばかりではない。それと並んで、その現実性のなさ、アメリカ政府内での中東やアラブ人やイスラムに関する議論(や政策)と共有している、妄想に近い現実性の無さだ。 9月11日の事件以降、これは猛烈な、空虚なまでの、抽象化という新しい水準に到達している。誇張法という、ある状況を記述し、さらに重ねて記述するという行為のために、だんだんに極端な表現を用いていくというテクニックが公共領域を支配している。その筆頭は、むろんブッシュその人だ。彼の抽象的な声明──善と悪、悪の枢軸は、全能の光──と、テロリズムの悪についての際限のない、言わせてもらえばムカつくような放言が、人間の歴史や社会についての言語を、なにか別の、機能不全に陥るほど根拠のない純粋なポレミックへとつくり変えてしまった。 そこに混入しているのが、まじめくさった説教と、他の国々に対して放たれる、もっと実際的《pragmatic》になり、急進主義を避け、文明的で合理的であれという宣言だ。その一方で、アメリカの政策当局は無拘束の執行権によって、あちらでは政権交代、こちらでは侵略、またこちらでは国家の「再建」などというようなことを合法化している。なにもかも、空調の効いた豪華なワシントンの執務室の中から行われるのだ。こんなやり方が、いったい文明的な論議の標準を設定し、民主的な価値観を推進することになるというのだろうか──民主主義という概念そのものも含めて?

19世紀なかば以降、すべてのオリエンタリズムの言説における基本テーマの一つに、アラビア語やアラブ人は現実に対処するには用をなさない精神構造と言語の両方に苦しんでいるというものがある。アラブ人の多くがこの人種差別的なたわごとを信じ、あたかもアラビア語、中国語、英語といったような公用語が、それを使う人間の精神を直接的に表わしているかのように考えるようになっている。この概念は、19世紀に植民地の抑圧を正当化するために使われた同様の思想的な貯蔵兵器の一部だ──「黒人《ニグロ》」はまともなしゃべり方ができないのだから、トマス・カーライルによれば、奴隷のままにとどめられるべきだし、「中国」語は複雑なので、エルネスト・ルナンによれば、中国人は心が曲がっており、押さえつけておかねばならない、等々。こんな考えをまじめに受けとめる人は今日ではだれもいないが、それでもアラブ人とアラビア語とアラブ研究者に対して向けられたときだけは例外なのだ。

「歴史の終わり」というばかげた考えで一時的にもてはやされたフランシス・フクヤマ という右翼思想の大御所は、数年前に書いた論文で、アラブ研究者やアラビア語を話す人間は国務省からすっかり追い払ってやった、なぜなら彼らは言語を学ぶことを通じてアラブ人の「妄想」も学んでしまったのだから、などと述べた。 今日、メディアに登場するいなか哲学者は、トーマス・フリードマンのような識者を含め、だれもかれもが同じ調子でしゃべりちらし、アラブ人についての科学的な解説とされるものに付け足して、アラビア語の中の多々ある妄想のひとつは、「自分たちは一つの民族である」などというアラブ人たちに広まっている「神話」だ、などと放言している。フリードマンやフワード・アジャミーのような権威によれば、アラブ人といわれているのはただの放浪者と旗を持つ部族たちのルーズな集団が、あたかも一つの文化を持った一つの民族であるかのようなふりをしているだけにすぎない。これはオリエンタリズムの妄想による幻覚であり、パレスチナはかつて空っぽの土地で、パレスチナ人などというものはそこにいなかったし、もちろん一つの民族などとはいえなかった、というシオニストの信念と同質のものだと指摘してもよいだろう。恐怖と無知に由来することがこれほどはっきりしている思い込みに対し、いまさらその正当性を否定するために議論する必要もないだろう。

だが、それだけで済んでいるわけではない。アラブは、現実に対処することができず、事実よりもレトリックを好み、冷静に真実を復唱するよりは、自己憐びんと誇大視にふけりがちだといって常に非難される。 最近のはやりは、「アラブがみずからを告発する客観的な」説明として、去年の国連開発計画の報告に言及することである。すでに指摘したことだが、この報告は底が浅く思索の足りない社会科学の大学院生の論文で、その意図はアラブ人にも自分たちについて真実を告げることができるのだと証明することにあり、その水準はイブン・ハルドゥーンから現在にいたるまでの何世紀にもわたるアラブの批判文学の伝統に比べればその足元にも及ばない。だが、そんなことは問題にされない。 同じように、帝国支配の文脈も、わきへ押しやられる。国連開発計画報告書の作成者は平気でそれを無視している。たぶん、彼らの思考がアメリカのプラグマティズム(実用主義)に一致していることを証明しているのだろう。

他の専門家たちはしばしば、アラビア語が言語として不正確であり、ほんとうに正確に何かを表現することができないなどと言う。わたしに言わせれば、そのような意見は論じるに値しない思想的な中傷だ。だが、いったい何がこんな意見を推進するのかを知るために、示唆的な比較として、アメリカのプラグマティズムの大きな成功のひとつを取り上げて、現在の指導層や当局者がどれほどまじめで実際的なやりかたで現実に対処しているかを見てみよう。いま論じていることのアイロニーが、じきに明らかになればよいのだが。わたしの念頭にあるのは、アメリカが戦後のイラクのために計画していることである。 『ファイナンシャル・タイムズ』の八月四日号には、それについての寒気のするような説明がのっていた。ダグラス・ファイス国防次官 とポール・ウォルフォウィツ国防副長官という、選挙で選ばれたわけではない二人の官僚は、ブッシュ政権内タカ派の新保守主義者のなかでも最も有力な人々で、イスラエルとリクード党と異常に親密な結びつきを持っている。記事によれば、彼らが国防総省の中で率いているエキスパートの一団は、「はじめからずっと、これ[イラク戦争と戦後処理]はケーキウォーク[ほとんど努力を要しない手軽な仕事をさすスラング]では済まないだろう。[すべてに]60日から90日で片をつけ、さっとひっくり返した後はチャラビやイラク国民評議会に手渡してやろう。 そうすれば、国防総省はこの問題から手を引いて、さっさと引き上げることができる。円滑かつすみやかに。その後に出現するのは、わたしたちの願いや要求におとなしく従う民主的なイラクであろう。それだけのことだ」と考えていた。

もちろん今では、実際にこのような前提のもとに戦争が遂行され、このまったく信じがたいような帝国主義的な思い込みのもとにイラクが軍事占領されていることを、わたしたちは知っている。情報提供者や銀行家としてのチャラビの記録は、とうみても第一級というわけではない。そして、サダム・フセインが倒れた後のイラクに何が起きているかについては、いまさら指摘してもらう必要など誰にもないだろう。図書館や美術館の略奪(占領軍である米軍が完全に責任を負っている)、社会基盤の完全な機能停止、英米軍に対するイラク人(煎じ詰めれば一つの均質な集団ではない)の敵意、不安と欠乏、とりわけガーナーやブレマー、その手下や兵士たちが人間として(「人間」という言葉に強調をおきたい)並外れて無能なため戦後イラクの諸問題に十分な対処ができないこと──こうしたひどい混乱状態はすべて、アメリカ的な思考の破滅的でみせかけのプラグマティズムと現実主義を証言するものだ。アラブ人のように劣等な擬似民族、おまけに欠陥言語と妄想に浸りきったような人々とは明白な対照を示すとされているのは、こんなものなのだ。実のところ、現実というものは個人の支配下に(どんなに有力であろうが)置けるものではないし、一定の民族やその精神構造に対して他よりも親和性があるということもない。人間がおかれた状況は、経験と解釈で成り立っており、決して力で完全にねじ伏せることはできない。それらはまた、歴史における人類の共通の領域なのだ。ウォルフォウィッツやファイスがおかしたひどい間違いは、抽象的で結局は認識の足りない言語をもって、それよりずっと複雑で扱いにくい現実というものに傲慢にも置き換えようとしたことに帰着する。それがもたらす恐ろしい結果は、まだこれから明らかになる。

言語や現実が、アメリカの力やいわゆる「西洋の視点」の独占所有物であるかのように吹聴する思想的なデマゴギーを容認するのは、もうこの辺でやめようではないか。問題の核心は、もちろん帝国主義であり、正義と進歩の名においてこの世界からサダムのような悪党を除去するという、あの(最終的には陳腐な)勝手な使命感である。イラク侵略とアメリカの対テロ戦争への修正主義的な正当化という、先代の破綻した大英帝国からの最悪の輸入品、言説の粗雑化と事実や歴史の怖いほど流暢な歪曲が、アメリカ在住の英国人ジャーナリストによって公言されている。彼らには、はっきり次のように明言する正直さがない──そうだ、我々は優越しており、世界のどこにおいても原住民が不潔で後進的と映ったときには彼らを叱ってやる権利を持っているのだ。なぜ我々にそんな権利があるのかって?500年にわたって帝国を統治し、いまではアメリカ人に後を継がせようと思っている我々は、その経験を通じて、あのもじゃもじゃ頭の原住民たちが、できそこないだと知っているからだ。彼らは我々の優越した文明を理解することができず、迷信と狂信に浸りきっている。罪深い暴君であり、罰を受けて当然のやつらだ。その仕事は、わたしたちが引き受けねばならない。進歩と文明の名において。移り気なジャーナリズムの曲芸師たち(あんまり多くの主人たちに使えてきたので、もはや道徳的な立場などまったく喪失している)のなかに、マルクスやドイツの学者を引用して──彼らが自認する反マルクス主義や、英語以外の言語や学問についてのひどい無知にもかかわらず──自分の議論に役立てることのできる者がいれば、どれほど今より賢く見えただろう。結局、どんなに飾り立てようが、根本のところでは単なる人種偏見にすぎない。

実際には、アメリカの力を代弁する論客や評論家が想像するよりも問題はずっと根が深く、もっと興味深い。 世界中の人々がみな思考と語彙の革命という苦悩を経験している。そこではアメリカの新自由主義と「プラグマティズム」が、アメリカの政策当局によって普遍的な規準に等しいとされているのだが、実際には(先に触れたイラクの例で見たように)、例えば「リアリズム」や「プラグマティズム」という言葉、あるいは「世俗的」とか「民主主義」というような言葉の使い方に、あらゆる種類のずれやダブルスタンダードがある。これには徹底的な再考と再評価が必要である。「その後に出現するのは、我々におとなしく従う民主的なイラクだ」などという幼稚な処方箋に奉仕するには、現実はあまりにも複雑で多種多様である。こんな論法は、現実というテストに耐えらえない。意味は、一つの文化から別の文化に対して押し付けられるようなものではないし、ある言語やある文化だけがものごとを効率的に処理する秘訣を所有しているなどということも同じくありえない。

アラブ人としても(それは認めよう)アメリカ人としても、わたしたちは「我々」について、議論や交換をこなす「我々の」方法について少数のスローガンが吹聴されるのをあまりに長いあいだ容認しすぎた。今日たいていのアラブや西洋の知識人がおちいる大きな誤りのひとつは、世俗主義や民主主義といったような言葉を、議論も厳格な詮索もせずに、あたかも誰もがその意味を知っているとでもいうように受け入れていることである。アメリカは今日、地球上でもっとも多くの服役者を抱える国である。死刑執行の数も世界のどの国より多い。 大統領に選ばれるためには、一般投票で多数を得る必要はないが、その代わりに2億ドル以上を使わなくてはならない。こうしたことが、どうして「リベラルな民主主義」のテストに合格するというのだろう?

従って、わたしたちは論争を構築するにあたって、「民主主義」とか「リベラリズム」というような少数のいいかげんな用語や、「テロリズム」とか「後進的」とか「急進主義」というようなきちんと検証もされていない用語を、懐疑心も抱かずに中心に据えたりするのはやめて、もっと厳格できびしい議論を要求しなければならない。そこで使う用語は多数の視点から定義され、つねに具体的な歴史的な背景に位置付けられているようにする必要がある。大きな危険は、ウォルフォウィッツ・チェイニー・ブッシュ流のアメリカ型「魔法」思考が、あらゆる民族や言語が従うべき至上の基準として、まかり通っていることである。わたしの意見では、そしてイラクが重要な例となるのであれば、そんなことが積極的な討論や原因究明の分析も経ずにあっさり起こってしまうのを許してはならないし、アメリカ政府の力がそれほど抗し難く、ものすごいものだということを脅しによって信じ込まされてはならない。中東問題ついていえば、論議にはアラブ人とムスリム、イスラエル人とユダヤ人がともに平等な立場で参加できなければならない。わたしが強く勧めたいのは、すべての人々がこれに参加することで、それによって価値観や定義や文化というような側面に、何の異論も出されぬような状態を防ぐことだ。これらは、もちろん少数のワシントン高官の所有物ではないし、中東諸国の少数の統治者たちが責任を負うべきものでもない。人間の活動が生み出され、再生産されていく共通の場というものが存在し、帝国的な大ぼらをどんなに吐き散らそうが、この事実を隠蔽したり、否定することはできないのだ。


注 1 Tom DeLay 2003年春に下院院内総務に就任し共和党議員ではナンバーツーの地位にあるディレイは、ワシントンにおけるキリスト教シオニスト運動の先頭に立っている。ブッシュ政権の「ロードマップ」は、合衆国が強力な指導力を発揮してパレスチナ国家の建設を前提に和平を実現しようというもので、それを強力に推進しているのはパウエル国務長官を中心とする保守本流の人々だ。これをなんとか回避して分離壁の建設を急ぎアパルトヘイト体制を確立したいシャロン政権にとって、ワシントンにおける強力な味方として、従来のユダヤ系アメリカ人たちに加えて浮上してきたのが、キリスト教シオニスト勢力である。その中心であるディレイ議員が、ロードマップ推進派のパウエルと対抗関係になっている。
ブッシュ政権の提案した「ロードマップ」をめぐる推進派(パウエル長官など保守本流)と阻止派(シャロン政権の意向を反映するネオコンやキリスト教シオニストなど)のせめぎあいのなかでディレイの中東訪問が果たした役割については、
NYタイムズの DeLay says Palestinians Bear Burden for Achieving Peace
もっと、わかりやすいのは 
Robert Novak, The 'wall' and the 'messiah'

注 2 上記の動きの背景として、アメリカ南西部を中心に広がるキリスト教原理主義者のあいだに、積極的な政治活動によって自らの宗教的価値観に基づいた社会を実現しようとするグループが台頭してきたことが指摘される。一般に宗教右翼とかクリスチャン・ライトと呼ばれるこの勢力は、一九八九年にテレビ伝導師パット・ロバートソンが創始した「クリスチャン・コアリション」という組織に代表される。CHCは急速に信者を拡大しており、共和党の固定支持層のおよそ三分の一を構成するといわれ、最大の利益集団として今や共和党の政策を左右するほどになっている。しかも、イラク戦争の失態で支持率が下がれば下がるほど、ブッシュは彼らの組織票に依存を強めることになり、ますます譲歩を迫られるという構図になっているのは、サイードが本文中で指摘している通り。
キリスト教原理主義者は聖書を文字通りに解釈して絶対視する急進派の福音派プロテスタントであり、独特の聖書解釈によってイスラエルとアメリカを同一視しており(イギリスからの移住を出エジプトになぞらえ、自分たちは約束の地に神の国を建設するのだという使命感を持つ)、聖書の預言成就のためにはユダヤ人がシオンの地に国を建てることが必要だという理由から、彼らはシオニズム支持者となっている。このような南部の保守的で人種偏見の強い風土から出てきた宗教右翼が、マイノリティー集団(最強だが)であり伝統的にリベラル派の中心となってきたユダヤ系アメリカ人と折り合いよくやっていけるとは思いにくいのだが、政権中枢では新保守主義者たちとの提携の動きがレーガン政権時代からはじまっていたようだ。宗教右翼が共和党への影響力を強めている状況については、Joan Bokaerのサイトがお勧め(英語) 

注 3 born-again Christianは一般的に急進的な福音派をさすが、ジョージ・W・ブッシュは三十代の終わりごろに父親が家に招いたビリー・グラハムという大衆伝導師の教えに強い感化を受け、彼によって改めて信仰に目覚め、飲酒癖などの問題から立ち直ったとみずから告白している。

注 4 John Ashcroft ペンテコスト派の巡回伝導師の家系の出身で、ミズーリ州知事時代から超保守的な政策で名を馳せ、2000年の大統領選挙ではキリスト教右派から多額の献金を受けて共和党の予備選に立候補していた。その後、上院再選を目指す方向に切り替えたが落選、ブッシュ政権の司法長官に任命されて返り咲いた。「アメリカの"自由"は天からさずかったものであり、政府や憲法によって与えられたものではない」と公言する人物が司法の頂点に座ることには当初から批判があったが、9.11以降は市民の「愛国法」(自由を制限し司法当局の権限を強める)の制定などでますます危惧が増大している。

注 5 Francis Fukuyam 政治哲学者レオ・シュトラウスの流れを組む保守派の思想家で、現在はランド研究所の主任研究員ですが、以前は国務省で企画政策部長をつとめていました。引用されている彼の発言にあるように、国務省では80年代以降アラブ研究者やアラビア語ができる人たちを冷遇したので、現在では国務省にアラブ専門家がいなくなってしまい、イラクを占領しても通訳さえいない状況であることは、前回の記事でもほのめかしていましたね。『歴史の終わり』(The End of History and the Last Man, 1989:和訳は1992年 渡辺昇一訳、三笠書房)は、ドイツ観念哲学から英米系の政治哲学までを並べて、リベラル・デモクラシーの優越を説き、「これ以上改善の余地のないほど申し分のないものだ」と主張しています。

注 6 ネット上の原文にはLeithとあるが、前後関係からしてDouglas Faithのことと思われる。


Home| Edward SaidNoam ChomskyOthers | LinksLyrics

Presented by RUR-55, Link free
(=^o^=)/ 連絡先: mailtomakiko@yahoo.com /Last modified: 02/01/1
8