Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

オスロ合意の目的の一つは、この拡張されたアイデンティティの概念を押しつぶすことだった。パレスチナ人をガザと西岸地区の町や村や血縁集団に追い返し、包囲し、押し込めて、身のほどを知らせるためのものだった。それを行なったのは、一方ではイスラエルと合衆国であるが、同時にまた、じつに嘆かわしいことに、パレスチナ人自身の国民代表機関でもあったのだ。このねらいについてはオスロ体制は成功したが、いまや関心の焦点は、追放されたままになっている450万人のパレスチナ人へと移行した。みずからの選択によるアイデンティティを表明しつづける彼らの不屈の粘り強さは、帰還権の主張に象徴されている。これはただの地理的な願望や要求だけではない。それ以上のものが少なくとも五つは含まれている。それは、みずからの居住地を持つ権利である。それは、そこにとどまる権利である。それは、本国に帰還する権利である。それは、補償や損害賠償を受ける権利である。それは、集団的な帰属(わたしたちは、自分の望む場所でパレスチナ人でありたい)と居住の権利である。それは、イスラエルのユダヤ人たちと平等な地位を与えられて共存する権利である。

明らかに、現在のパレスチナ自治政府が象徴しているのは、これらの権利の大部分についての敗北と後退だ。それ以外のわたしたち──ここで言っているのは、生まれついてのパレスチナ人だけではない──に負わされた責任は、抵抗することだ。わたしたちや、わたしたちの思想を、単なる出生と実際に住んでいる場所という、最終的にはイスラエルが裁定する問題へと矮小化しようとする試みに対して。



生まれついてか、選び取ってか

By Birth, or By Choice?
Al Ahram Weekly 1999年10月28〜11月3日 No.453

ジョン・F・ケネディの文句でよく引用されるもののひとつが、1961年、東ドイツが建設した壁で分断されてまもないベルリンを訪問した際の、「イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー」という言葉だ。「わたしはベルリン市民だ」という彼の言葉は、嵐のような喝采にわきかえる聴衆に向けて、また世界中に向けて発せられた。この歪められた都市に暮らす苦難からはほど遠いところにいる男が、自分もこの都市の住民の苦悶を共有しているように思うと述べたことは、連帯を示す、勇敢とさえ言える行為だった。彼がそうする権利に疑問をさしはさむ者はいなかったし、彼はそんなに長くドイツに住んでいたわけではないと言う者もいなかった。同じように、1968年には体制に反抗するパリの学生たちが「わたしたちはみなユダヤ人だ」と高らかに宣言し、ナチによって国外に強制移送され、絶滅させられたユダヤ人たちとの連帯を表明したが、彼らがそのように行動する権利を疑ったものはいなかったし、同じ人間の受難をわが身に引き受けるという倫理的な目的のために彼らが別のアイデンティティーを用いたことを批判した者もいなかったと思う。

同じことは、イスラエルの犠牲となっているパレスチナ人への同情と精神的連帯によって、事実上パレスチナ人になることを選ぶことになった世界中の多くの人々―─アラブ諸国の人々を含め──についても言えよう。故イクバール・アフマドは、インド人として生まれたが、国籍はパキスタンだった。彼はいつも自分のことを「わたしたち」の一員と称していた──パレスチナ人に生まれついたわけではないが、パレスチナ人であることを選びとった者であると。

とはいえ、中東に関する一般の議論はあまりにも歪められた、非難すべきものになっており、欧米シオニストの影響があまりにも強いため、パレスチナ人に生まれたことを認めることには、長いあいだ、社会規範からはみ出た者という烙印、さらには犯罪の臭いまでがつきまとった。自分の場合をふり返ってみても、大学の学部過程を終了して博士課程にとりかかったころ、素性を問われたときには自覚的に自分はアラブであると答えるようにしていたことをはっきり覚えている。つまり、じつは自分はパレスチナ人で、エルサレムの出身なのだと説明し始めると面倒なことになるので、意識的にそれを避けようとしていたのだ。

PLOの永遠の功績としてよろこんで認めたいのは、1968年から1982年までの期間、この組織が出現したことによって、すべてのパレスチナ人がひとつの民族(people)に属していると名のれるようになったことだ。それはすなわち、国を追われ、土地・財産を奪われてはいるけれども、わたしたちは事実上の国民(nation)を形成しているということだった。そしてインティファーダの時代には、あるアイデンティティに属していることに誇りを持ち、それを抹消したり否定しようとするような試みに対しては勇敢に抵抗し、守り抜いていこうという意識が、普遍的な広がりをみせた。プラハでは、一党独裁への抵抗が、デモに参加する若者の着ている「インティファーダTシャツ」によって視覚的に表明されることも稀ではなかった。同じことは、1990年から91年にかけてアパルトヘイトが終焉に向かっていた南アフリカでも起こった。イスラエルの占領兵に反抗するパレスチナ人となることによって、この人種差別に反対する闘争は一段と深く、大きな意義を持つものになったのである。

歴史の皮肉としか言いようがないのは、パレスチナ人の最大の宿敵(シオニズム運動と、さらに好戦的なイデオローグたち)を活性化させたのも、まさに同じ考え方だったということだ。すなわち、ポーランドやロシアやアメリカや英国の市民としておとなしく同化するのではなく、ユダヤ人としてのアイデンティティを強く打ち出すことができる、という考えである。たいていのシオニズム史に記されるところでは、この運動の組織者にとって最大の課題は、世界に離散したユダヤ人に、ユダヤ人として生まれたというアイデンティティだけでは不充分だと信じさせることだった。自己実現のためには、自分たちの発祥の地であるシオンに「帰還する」ユダヤ人という、国民としてのアイデンティティを付加的に身につけなければならないと納得させることである。

これは、近年のパレスチナ人の体験に重なるものだ。1948年以降、どんな国に住みつくことになったにせよ、彼らはそこの文化や人種のるつぼの中に(好むと好まざると)取り込まれることになった。だが、1970年以降は、政治闘争の一環としてパレスチナ人であるという選択を引き受ける機会が与えられるようになる。 これはラシード・ハリーディがパレスチナのアイデンティティについての最近の著作で展開した主張と矛盾するものではない。パレスチナ人固有の国民的アイデンティティは、文化や市民社会や政治的なレトリックのなかに、遠く歴史をさかのぼって明瞭に見つけることができると彼は論じている。それに付言することがあるとすれば、みずからの選択によるアイデンティティとはパレスチナ人であることを政治的な姿勢として貫くことであり、それが意味するのは、独立した国家を建設するということばかりでなく、不正を糾し、現代史の中に位置しうる新しい世俗的アイデンティティを獲得する方向へ、パレスチナ人を解放していく、より重要な運動に積極的に関わっていくことでもある。

そのような選択をすることに対し、現在はそれを阻むような圧力が刻々と積みあがっている。合衆国とイスラエルがあれほど熱烈に褒め称えたオスロ・プロセスの主要目的のひとつは、逆説的なものである。というのは、パレスチナ人のアイデンティティが基本的には狭量なナショナリズムたけに基づくものではないということが、暗黙のうちに受け入れられて(その上で、無効にされて)いるからだ。近年の歴史を振り返れば、70年代と80年代を通じて、パレスチナ人であるということが、いくつもの解放闘争の最前線に立つことだったということがわかる。そのような解放闘争の少なからぬものは、アラブ世界をはるか遠く超えて、南アフリカ、ラテン・アメリカ、アイルランドをはじめ、ヨーロッパやアジアの各地で展開していた。

それを証明するものとして、最近わたしが講演の後で話しかけられたニュージーランドのマオリ系知識人から聞かされた話がある。彼は、パレスチナ人の権利を要求する闘争が、マオリの民族運動に、少なくとも30年ほどにわたって、どれほど大きな意味を持っていたかを詳細に語ってくれた。 インドでも、コリアでも、アイルランドでも、同じような熱意をわたしは見出したことがある。それは決して急進的な議論をする人々のあいだではなく、パレスチナ人のアイデンティティに単なる民族的なナショナリズムよりずっと大きなものを見出すような、市民的自由を擁護する人々、世俗主義者、女性運動といった人々の書いたものや実践活動のなかにあらわれている。それは、宗教的にもとづく反啓蒙主義、性差別、経済的不平等といったものに反対する活動を意味する。

明らかに、このようなパレスチナ人のアイデンティティの影響力が、1982年のイスラエルによるレバノン侵略の背景にあった。この作戦におけるアリエル・シャロンの狙いは、PLOの取るに足らぬような軍事的脅威を取り除くことに限定されるようなものではなかった。シャロンの軍隊が同年9月に西ベイルートに侵攻して最初にやった行為のひとつが、PLOリサーチ・センターに保管された公文書の持ち出しだったことを思い出そう。それは、純粋に知的、精神的な影響力としてパレスチナ人のアイデンティティが到達したものの象徴だった。

オスロ合意の目的の一つは、この拡張されたアイデンティティの概念を押しつぶすことだった。パレスチナ人をガザと西岸地区の町や村や血縁集団に追い返し、包囲し、押し込めて、身のほどを知らせるためのものだった。それを行なったのは、一方ではイスラエルと合衆国であるが、同時にまた、じつに嘆かわしいことに、パレスチナ人自身の国民代表機関でもあったのだ。このねらいについてはオスロ体制は成功したが、いまや関心の焦点は、追放されたままになっている450万人のパレスチナ人へと移行した。みずからの選択によるアイデンティティを表明しつづける彼らの不屈の粘り強さは、帰還権の主張に象徴されている。これはただの地理的な願望や要求だけではない。それ以上のものが少なくとも五つは含まれている。それは、みずからの居住地を持つ権利である。それは、そこにとどまる権利である。それは、本国に帰還する権利である。それは、補償や損害賠償を受ける権利である。それは、集団的な帰属(わたしたちは、自分の望む場所でパレスチナ人でありたい)と居住の権利である。それは、イスラエルのユダヤ人たちと平等な地位を与えられて共存する権利である。

明らかに、現在のパレスチナ自治政府が象徴しているのは、これらの権利の大部分についての敗北と後退だ。それ以外のわたしたち──ここで言っているのは、生まれついてのパレスチナ人だけではない──に負わされた責任は、抵抗することだ。わたしたちや、わたしたちの思想を、単なる出生と実際に住んでいる場所という、最終的にはイスラエルが裁定する問題へと矮小化しようとする試みに対して。パレスチナ難民を移住させようという現在の「国際」計画に、彼らをイラクやカナダや合衆国、さらにはヨルダンにも送り込むこと、またパレスチナ人が大量に住みついている国々(例えば、レバノン)に圧力をかけて、パレスチナ人に市民権を与え、すでに暮らしているところに居住する権利を与えようということが含まれているのは、その延長だ。今日、パレスチナ側の公式のレトリックは帰還権を主張しつづけているが、これまで自治政府が、みずからの規定した原則をどれほど貫いてきたかをみれば、その主張が守られるとはとても確信がもてない。おまけにイスラエルは1948年の建国以来ずっと、ユダヤ人であれば世界のどこに住んでいようが(イスラエルへの)「帰還」と無条件のイスラエル市民権を得る絶対的な権利があると主張する一方、パレスチナ人には帰還権のようなものはいっさい認めてこなかった。

このような状況では、パレスチナ人というアイデンティティを選択することは、オスロ合意に基づく最終地位交渉で提唱されるものに抵抗することを必然的に意味することになる。それは否定的なだけのことではない。それが意味するのは、一つの民族としてのわたしたちが拒まれつづけてきた、国民としての政治的な権利を主張することである。その権利はまずイギリス人によって否定され(1917年のバルフォア宣言は、ユダヤ教徒には一つの国民としての政治的権利を与えたのに対し、パレスチナ人には宗教の自由と公民権を約束しただけだったことを忘れぬように)、後にはイスラエルと合衆国によって(たぶん、アラブ諸国の大半によっても)否定されてきたのだ。それはまた、アイデンティティとは、ただ居住やイスラエルが恵んでくれるものを頂戴することに終始するのではなく、もっと大切な、政治的に民主的なものが含まれるのだという立場を、わたしたちが堅持していくことを意味する。パレスチナ人としてわたしたちが要求するのは、市民として存在する権利であって、オスロ体制に荷担する者たちが、最終的には負ける試合で獲得する点数ではない。

それに加えて、指摘しておきたいのは、イスラエル人にとっても、もし彼らがパレスチナ人とは自治政府に操られた「ホームランド」(自治区)に閉じ込めておくべき被支配民族であるという、けちで狭量な定義を受け入れることになるのであれば、自分たちもまた敗者ということになるだろうということだ。 向こう10年のうちには、歴史的にパレスチナと呼ばれた地域[おおよそ現在のイスラエルとガザ・西岸地区を合わせたもの]において、ユダヤ人とアラブ人の人口が拮抗する。 それを考えれば、わたしたちは、部族対立による羊飼いの戦争と蔑称されるような争いを続けるのを止め、できるだけ早く、二つの国民で構成される(binational)世俗主義の一つの国家に所属する完全な一員としてお互いを受け入れるようにするのが賢明というものだ。そのようなアイデンティティを選択することは、歴史に残ることだ。選択しないならば、消えていくことになる。


『戦争とプロパガンダ 3  イスラエル、イラク、アメリカ』(みすず書房 2003)に収録
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