帝国についてのメモ

レナト・レデントル・コンスタンティノ
2003年12月8日


海賊の皆さん、私たちははっきりと見解を表明しようと思います:私たちは、2001年9月11日の攻撃を計画して実行した人々の野蛮さを拒絶しますが、同時に、あなたたちの奈落につきあう意志はありません。

海賊の連合---尊敬すべきアメリカ合州国、英国、オーストラリアの海賊の皆さん---、私たちはあなたたちの親切な勧告に感謝します。私たちは、テロと専制の影が日増しに長くなっていること、この危機に真剣に取り組まなくてはいけないことについて、あなたたちに同意します。

しかしながら、もたらされると言われている全ての利益にもかかわらず、私たちは、あなたたちが「対テロ戦争」と呼んでいる、この新たな聖戦に参加するよう求めるあなたたちの招待を、謹んで辞退させていただきます。

支援を提供したいというあなたたちの提案には心から感謝します。あなたたちの文書に見られる誘惑が、私たちがあなたたちを必要としているよりも、あなたたちのほうが私たちを必要としているということを示唆しているとしても、です。私たちの、この危機の時に、親交を深めたいというあなたたちの提案はありがたくお聞きしますが、そのお返しに、私たちが中指を立てることでお返事しても、許していただかなくてはなりません。不運な人々の上にあなたたちが積み上げてきた厚意を、そう簡単に忘れ去るわけにはいきませんから。

1972年、フィリピンで軍事戒厳令が布かれたとき、これを「天が送りたもうた救い」と呼んで、独裁者マルコスを祝福した最初のグループは、アメリカ商工会議所と呼ばれるあなたたち海賊連合の一組織でした。

その祝福テレグラムの中で、商工会議所---最近フィリピンに「海外投資家たちは最も歓迎されるところに行くことを忘れないでほしい」と説いたその同じ商工会議所---は、独裁者マルコスに「平和と秩序、ビジネスの信用、経済成長とフィリピンの人々の安寧を回復させるあなたの努力がすべて成功」しますようにと述べていたことを、私たちは思い出します。

私たちは、軍政が敷かれる2年前には、米国の対フィリピン投資額は1630万ドルだったものが、1981年には9億2000万ドルになったことを知っています。私たちは、ジョージ・H・W・ブッシュが、1981年マニラでマルコスと祝杯を挙げたことさえ思い出すことができます。このときジョージ・H・W・ブッシュは「あなたが民主的原則と民主的プロセスを尊重していることを、我々はとても好ましく思っている」と述べたのでした。

海賊、紳士、淑女のみなさん、みなさんの現指導者ジョージ・ブッシュ二世が、「人々に・・・・・・我々の意図は純粋なのだと確実にわかって」欲しいので、今年東南アジアを訪れることにしたと述べたとき、彼はそんなに多くを説明する必要はなかったのです。彼の意図が純粋であることについては、疑われたことなどなかったのですから。

彼が属する集団---あなたたちの集団のことです---がインドネシアの上に積み上げた厚意についても、私たちは忘れていません。

私たちは、バリのリゾート・ホテル近くに埋められた大量墓地のことを忘れていません。この墓地には、1965年から1966年の惨劇で殺害された約8万人の遺体が埋められているのです。この惨劇では、インドネシア全体で100万人の命が奪われました。私たちは、この大量虐殺を、CIAが「20世紀最悪の大量殺戮の一つ」と呼んだこと、そしてこの残虐行為は、スハルトと呼ばれる虐殺者が、西洋民主諸国(尊敬すべきあなたがたの連合の別名です)と呼ばれるところの国々の黙認のもとで行ったことを、思い出します。私たちはまた、マーガレット・サッチャーという著名な海賊がこのスハルトを「我々にとって最上の最も大切な友人の一人」と呼んだという事実も見落としてはいません。

「50万から100万人の共産主義シンパがやっつけられたことで、再教育が行われたと考えてもよいと思う」と述べた1966年当時のオーストラリア首相ハロルド・ホルト氏は、あなたがたの一員ではなかったでしょうか。それは彼だったように思います。

尊敬すべき海賊のみなさん、1975年12月7日に東ティモールがインドネシアに侵略され、スハルトの軍隊にその後20年以上も占領されたときに、沈黙という厚意をみなさんがインドネシアに示してくれたことを私たちが忘れてしまったなどとは思わないで下さい。そして、身の毛のよだつような占領を東ティモールに加えている間のかなりの期間、「スハルトに対する最大の武器と軍事装備提供者は英国だった」という事実を、私たちが無視しているとも考えないで下さい。

私たちはまた、米国のジェラルド・フォード大統領とヘンリー・キッシンジャー国務長官が、東ティモール侵略の前日に、ジャカルタでスハルト大統領と会談していたことを知っています。そして両名ともにこれまで否定していましたが、最近公開された記録文書によれば、フォードとキッシンジャーがスハルトと面会していたときに、スハルトに対して「[東ティモールについて]あなたが行うことは何であれ迅速にやることが大切」だが、「我々が立ち去ったあとで行うのが良い」と助言していたことについては、議論の余地のない事実であることがわかっています。

尊敬すべき海賊のみなさん、私たちは、インドネシアの独裁者スハルトがこの言葉を遵守しようとしたことを覚えています。インドネシアが東ティモール侵略を開始したときには、フォードとキッシンジャーは安全な立場で、マニラでマルコスと会談していました。その年---1975年米国がサイゴンから撤退した年---米国が被った屈辱からどうすれば回復できるかを揚々と計画していたのです。

けれども、海賊たちは、教訓をきちんと学ばなかったようです。そのことについて、私たちは見てきました。

1979年には、米国大統領ジミー・カーターは、ソ連によるアフガニスタン占領に対して戦っているグループに対する「秘密援助の最初の指示」に署名しました---その後大規模な財政的支援となっていく多くの援助の最初のものでした。

それらは、例えば、その後、タリバンとなっていったグループです。また、アブ・サヤフと、そしてジェマー・イスラミヤとなっていったグループです。

うろうろ出かけ回っていたものはまた戻ってきます。

1998年、フランスの新聞で、「世界史でどちらがより重要だろうか?タリバンか、ソ連の崩壊か?ちょっと興奮したムスリムか・・・・・・冷戦の終了か?」と大声で叫んでいたのは、米国国家安全保障顧問ズビグニュー・ブレジンスキーではなかったでしょうか?

3年後の9月11日、ちょっと興奮したムスリムは、ブレジンスキーの興味深い質問に答えようとしました。この邪悪な行為を---そしてこれらの者たちを---誰が忘れることなどできるでしょうか?憎悪の大きさを測ることができないような者たちを。

海賊のみなさん、私たちははっきりと表明しておきたいと思います:私たちは、2001年9月11日の攻撃を計画して実行した人々の野蛮さを拒絶しますが、同時に、あなたたちの奈落につきあう意志はありません。

私たち小さな一人一人は、頑固で、私たち自身の道を歩みたいと思います。



1975年12月7日、スハルト独裁下でインドネシアは、東ティモール(ポルトガル領ティモール)に全面侵攻しました。その後24年にわたる不法占領で殺されたり強制収容キャンプで餓死した人々は20万人。当時の人口の3分の1にのぼります。

インドネシアが進めた「対テロ戦争」ならぬテロ戦争に武器と軍事訓練を与え続けてきたのは、米国でした。1991年米国市民の圧力で議会が軍事援助を禁止すると、それからは英国が大規模に武器を提供しました。日本は、この間、国連をはじめとする様々な外交の場でインドネシアのテロ戦争を支援し、インドネシア最大の援助国であり続けました。

100万人近い人々を虐殺して政権を握った独裁者スハルト。西洋諸国はこの虐殺の後、インドネシアの諸資源を分割する会議を開催し、スハルト専制のもとでの資源掠奪の構図が確立しました[直接関係ありませんが、最近出版されたナオミ・クライン著『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』(はまの出版・松島聖子訳・1600円はお奨めです]。このスハルト大統領が1998年に民主化運動の高まりの中で退陣した際、日本の橋本龍太郎は、スハルトについて、「偉大な業績に感慨を覚える」と言いました。私たちは、それを忘れてはいません。

1999年、インドネシア軍と民兵が破壊と殺戮を進める中、日本政府は侵略者であり虐殺の実行者である「インドネシアに重ねて治安をお願いする」と繰り返し、同時に、米国やオーストラリアがインドネシアとの軍事協力関係を絶つと言った最後の最後まで、「インドネシアへの援助は継続する」と伝えました。殺戮の全面的な支援表明。

ところが、市民の活動で政権交代の瀬戸際にまで立たされたオーストラリアや米国の圧力で、東ティモールで最後の破壊と殺戮を終えたインドネシア軍が撤退することと入れ替えにオーストラリア軍が東ティモールに派遣され、それが国連PKFに取って代わると、日本は、東ティモールに財政援助を使って、「復興支援」のために自衛隊派遣をごり押ししました。

インドネシア軍が撤退し、治安は回復されていたにもかかわらず。派遣された自衛隊は施設大隊であり、道路や橋の復旧に従事したのですが、それならば、民間が行なった方がはるかに費用効率が良かったにもかかわらず。第二次世界大戦中ティモールを日本軍が占領しティモールの人々を強制労働や性奴隷として酷使したことへの謝罪も何もなしに。自衛隊がやってくることを聞いて「大変だ、逃げなくては」と述べた年老いた女性の言葉を聞いたことがあります。

一方で破壊に荷担・黙認しながら、それを「復興する」とゴリ押しして軍隊を派遣した東ティモールへの自衛隊派遣は、今回のイラク侵略戦争への自衛隊派遣の準備段階でした。当時、自分が東ティモールに派遣されることをめぐり、深く悩んでいた自衛隊員もいました。今、小泉政権は、国際法違反の不法侵略と占領を続け、民間人を殺し続けている米軍に協力して自衛隊を派遣しようとしています。

8日のニュースステーションでは、ジャーナリストの綿井健陽氏が、自衛隊を派遣することによりサマワの状態が悪くなる可能性が大きいと言っていました。そのとき横にいた朝日新聞論説委員は、「民間人を派遣して安全を守れるのか」という非論理的な非−質問を繰り返していました。

フセイン政権時代(それはイラクの人々にとっては悪辣な独裁でした)には、日本の民間人は普通にイラクに出入りしていました。何故、今、身の安全が心配されるのか。理由は見ようとする人には簡単にわかります。不法侵略・不法占領と人権侵害・体系的掠奪を行う、米国を筆頭とする外国の過激派勢力がイラクに居座っているからです。

そうした事実的連関に冷静に言及せずに、不法侵略・占領部隊への荷担を前提条件として「民間人を派遣して安全を守れるのか」という非−論理は、文字通り言葉のゴミでしかありません。このような者が、まっとうな人間のような顔をして言葉を話している(気になっている)状況には、捨てぜりふのレトリックではなく、物理的に吐き気を催します。

NHKでは、「サマワでは自衛隊派遣を歓迎」という報道が流れました。これも「日本が来ること」を意図的に自衛隊にすり替えたものです。イラクの多くの人々は、非武装の日本の復興支援が来ることについては拒否していません(歓迎していすようです)が、軍隊は来るな、と明言しています。

少なからぬ日本の報道は、自称「公共放送局」を筆頭に、この国の窓を開けて他の人々の声をできる限り聞き届けなくてはならないときに、かわりに鏡を置いて自らを閉ざすことを選んでいます。幻想の中の存在。「平和ボケ」というのはこのような、戦争と平和、侵略と復興支援の区別もつかない知性状態のことを指すのでしょう。

一方、イラクの民主化指導者アブドルアミール・アル・リカービ氏は、日本は非武装で来るべきだと述べ、また、自衛隊員が正当防衛でイラク人を殺傷する可能性についての質問に、「武装してよその国に来て正当防衛などありえない」と明言していました。他人の家に強盗として入って抵抗され自分が殺されそうになったから相手を武器で殺して「正当防衛」を主張するようなものです。

12月15日(月)17:30分から19時まで、東京の衆議院議員面会所前で、ワールド・ピース・ナウ主催の「国会へ行こう。もうこれ以上、被害者を出さないで、自衛隊派兵基本計画の撤回を要求します、12・15WPN緊急アクション」が予定されています。

場所が離れていたりその時間は都合がつかなくても、抗議のFAXや電話、手紙、メールを出すことができます。連絡先一覧が、ここにあります。マスコミへの抗議については、「おかしな報道には抗議しよう日記」というページが参考になります。

また、環境フォーラムの青山貞一さんが、イラクへの自衛隊派遣撤回を求める声明への署名を集めています。

戦争を支援する企業の製品を買わないことも、長期的には有効だと思います。「イスラエル支援企業リスト」というのがありますが、ここに掲載されている企業の少なからぬものは、一般に戦争やら人権侵害を支援しています。普通の人々が金をわんさともった企業に対して積極的な立場に立てるのは消費の場ですから、それを利用しましょう。
益岡賢 2003年12月10日

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