インドネシア・1965年:米英の共謀

マーク・カーティス
2002年10月21日


米国当局筋は、当時、この出来事を「テロの支配」と呼び、英国当局筋は「残忍なテロ」と呼んだ。けれども、2001年9月11日の惨劇を実行したテロリストとは異なり、インドネシアにおけるこのテロの責任者 −そしてワシントンとロンドンでこのテロを支援したものたち− を処罰するためになされたことは完全にまったくゼロである。

インドネシアにおける虐殺は、1965年9月30日、当時のスカルノ大統領に忠誠を誓う軍士官の一団が何名かの将軍を暗殺したときから始まった。この士官たちは、これらの将軍がスカルノ転覆クーデターを目論んでいたと思ったのである。これによりもたらされた政局の不安定化は、スハルト将軍率いる別の反スカルノ派将軍たちが大衆の支持を得た強力なインドネシア共産党(PKI)を攻撃する口実を与えることとなった。スハルト率いるインドネシア軍部隊は、PKIに残忍な弾圧を加えた。数ヶ月のうちに、何十万人ものPKI党員と一般市民とが殺され、PKIは破壊された。スハルトは指導者としてのし上がり、1998年まで専制支配体制を敷いた。

機密解除された文書によると、、米国と英国は、この大虐殺に5つの点において共謀していた。

第一に、米国も英国もインドネシア軍の行動を望み、軍に行動を促した。米国の当局筋は、「軍がついに共産主義者に対して効果的な行動を起こす」期待を表明していた。そして「われわれは、いつもと同様、共産主義者を排除しようという軍の希望に共感を抱いており」、また、「PKIを軍が弾圧するにあたって、われわれの全面的支持を軍に示すことが重要である」と別の米国官僚筋は述べていた。

英国も同様に熱狂した。ジャカルタの英国大使アンドリュー・ギルクリスト卿は、1965年10月5日、米国外務省に対して次のように述べている。「私は、インドネシアが変わるためには、ちょっとした銃撃が必要だという私の考えをこれまでいつもあなたがたに表明してきた」。

その翌日、ロンドンの英国外務省は、「将軍たちに、PKIに対する決定的な行動を起こす元気があるかどうかという重要な問題がまだ残っている」と述べた。その後、英国外務省は、「われわれは、むろん、共産主義政権よりも軍政を望む」と述べ、次のように言った。「共産主義者たちに勝利するためには、将軍たちに対して、あまり親西洋的と見なされないかたちで、できる限りの支援を行う必要がある。短期的には、そして現在の混乱が継続する限りでは、密かに将軍たちを支援すれば間違いはまずないだろう」。英国の政策は「将軍たちからなる軍事政権の出現を促す」というものであったと、ある諜報オフィシャルは述べている。

インドネシア軍の行動に対する支援は、最悪の殺害が行われている期間を通して続けられた。米国と英国の当局関係者が、自分たちが何を支援しているか熟知していたことについては疑いの余地はない。米国のマーシャル・グリーン大使は、クーデターの試みが失敗した3週間後、虐殺が始まっている中で、次のように述べている。

「軍はPKIを破壊するために熱心に活動しており、私は、その決定的に重要な任務を果たす軍の決意と統制に敬意を抱いている」。

グリーンは同じケーブルにおいて、「PKI幹部の処刑」にも言及しており、その数は、「ジャカルタ地域だけ」で「数百人」にのぼると述べている。「現在までのところ、軍はPKI攻撃を、予想したよりもはるかに上手く実行している」と。

1965年11月1日、グリーンは、米国国務省に、インドネシア軍は「可能な限り、PKIの絶滅作戦を冷酷に続けるために行動している」と報告している。その3日後には、「大使館と米国政府は、概ね、軍がやっていることに共感し敬意を抱いている」と述べている。その4日後、米国大使館は、軍とその同盟分子が「PKI破壊の体系的活動を北スマトラで継続しており、大規模な殺害が報告されている」と報じている。

11月16日には、メダンの米国領事館が「大規模な無差別殺戮が起きている」と報じている。また、「PKIに対するテロの支配が起きている。このテロでは、PKIの指導者たちと特にイデオロギー上党への忠誠のない一般のPKI党員とをあまり注意深く区別していない」と。ある英国政府官僚は、11月25日、「PKIの男女が大量に処刑されている」と報告している。

12月半ばに、米国国務省は、「インドネシア軍指導者たちによるPKI破壊作戦はとても迅速に円滑に進んでいる」と肯定的評価を与えている。1966年2月14日に、米国大使グリーンは、「向こうしばらくは、政治的勢力としてPKIは破壊され」、「大量虐殺のおかげで共産主義者たちの数は10分の1に減った」と述べることができるまでになった。

英国の資料によると、1966年1月に、米国は死者を15万人と推定していた。一方、インドネシア軍のある連絡士官は、米国の士官に対して、死者の数は50万人と伝えていた。1966年3月に、英国当局は「6カ月にわたる殺戮のあとでどれだけPKIが残っているだろう」と述べ、スマトラだけで20万人以上が殺されたと判断している。4月に、米国大使館は、「実際の死者数が10万人に近いのか100万人に近いのかわからないが、低い見積もりを示すのが賢明であろう。特にメディアに聞かれたときには」と述べている。

1965年の出来事を総括して、メダンの英国領事はインドネシア軍について次のように述べている。「共産主義のテロから国を救うふりをして、軍は自ら残忍なテロを実行した。この恐怖が癒されるには長い年月が必要になるだろう」。別の英国メモはこの出来事を「非常な大規模で行われときに恐るべき残虐行為を伴った作戦」と呼び、また別のメモはただ「血の海」と述べている。

米英の資料は、この虐殺を米英が全面的に支持したことを示している。私は、殺害の規模に憂慮する発言をどこにも見いだすことができなかった。それどころか、軍に対してもっと続けるよう奨励し続けていたのである。テロの標的となったのはPKIの活動家だけではなかった。英国の資料が示しているように、犠牲者の多くはPKIの「単なる一般支持者」であり、こうした人々の多くは軍の手先として活動する「暴力を振るいたくてたまらない血に飢えた暴漢たちに対して闇夜で間違った答えをした混乱した農民たち以外の何者でもなかった」のである。

米国と英国が虐殺を支援した第二の側面は、マラヤとインドネシアの「対立」にかかわる。英国はボルネオを中心に何万人もの兵力を派遣し、領土の主権を主張するインドネシア軍が侵略する可能性に備えてマラヤを防衛しようとしていた。英国の政策は、「ボルネオでの戦闘にインドネシア軍を参加させてPKIへの扱いを混乱させたくない」というものであった。そこで、ギルクリスト英国大使は、「インドネシアの将軍たちに、彼らがPKIを弾圧しているあいだは、われわれはインドネシアを攻撃しないと通達すべき」であると提案した。というのもPKI弾圧は「必要な仕事」だからである。1965年10月に、米国筋を通して、英国はインドネシアの将軍たちに、「後ろからかみつくことはしないという注意深い言葉遣いのメッセージを口頭で通達した」。

米国が10月14日に伝えたこのメッセージは米国の資料から確認できる。次のようになっている。「第一に、われわれは、インドネシアの国内問題に直接間接に介入する意図はないことを確認しておきたい。第二に、われわれは、われわれの同盟国のいずれも、インドネシアに対する攻撃行為を行う意図はないと信ずるに足る十分な理由を手にしている」。このメッセージをインドネシア軍は大歓迎した。インドネシア防衛相補佐官の一人は、「この、われわれが国内で問題を解決しようとしているあいだに別の場所から攻撃されないという確約こそ、われわれに必要なものだった」と述べた。

米英がインドネシアを支援した第三の方法は、米国がインドネシア軍にわたした「ヒットリスト」である。ジャーナリストのキャシー・カダネが暴いたところによると、PKIの地域・市部・地方委員会メンバーおよびPKI関係の大衆組織 −全国労働組合同盟や女性グループ、青年グループなど− の指導者5000名に及ぶ名前を記したリストを、米国はインドネシアの将軍たちに手渡し、その後その多くが殺害された。米国大使館の元職員だったロバート・マーテンスは「それは軍にとって大きな助けとなった」と述べている。「インドネシア軍はおそらくたくさんの人々を殺し、そして、私の手もおそらくは血まみれであろう。けれども、結局のところ、そんなに悪いことではなかった。決定的瞬間に強硬な手段をとらなくてはならないときだったのだ」と。

機密解除された米国資料は、このヒットリスト提供について詳細を記してはいないが、この件を裏付けてはいる。例えば、リストの一つは、1965年12月にインドネシア側に手渡され、「当時PKI指導陣についてほとんど明確な情報をもっていなかったようにみえるインドネシア治安当局により利用されたようである」と述べている。さらに資料は、「インドネシア政府の要請に従い、PKI関係のパルティンドとバプルキの幹部リストもインドネシア政府に手渡された」と述べている。

支援の第四は、プロパガンダ作戦である。1965年10月5日、シンガポールの英国諜報関係のある「政治アドバイザ」は、ロンドンの英国外務省に次のように報告している。「われわれは現在の機会をわれわれに有利なかたちで利用すべきである。インドネシア軍とインドネシアの人々の目にPKIを否定的に映し出すよう秘密裡にできることを躊躇無くすべきである」。

英国外務省は、次のように答えている。「PKIを永遠に弱体化させるためのプロパガンダや心理戦をわからないように実行する可能性はむろん除外していない。勧告に同意する。適切なプロパガンダとしては、武器輸送に対する中国の介入、PKIが外国の共産主義者の手先としてインドネシアを転覆しようとしていることなどがあろう」。

1965年10月9日、この政治アドバイザは、外務省のメモに示された「一般的な指針に従って、出もとの不明な宣伝を配布する手だてを整えた」と述べている。例えば、スカルノ政府に批判的な「宣伝」を「ニュース配信社や新聞やラジオ」に「促し」たりといったもので、ある資料は、「この効果は多大なものであった」としている。

第五の支援策は、装備の提供である。ただし、これについてはまだ不明なことが多い。米国国務省によると、過去の米国によるインドネシア軍への支援は、「軍の指導者たちに、もし支援が必要であれば米国は支援を行うというメッセージをはっきりと植えつけた」。米国の戦略は、「権力闘争に明示的に関与することは避けながら」、「はっきりとけれども秘密裡に、中枢軍士官たちに、米国はできうる限り軍を支援すると示唆する」ことであった。

最初に米国からインドネシア軍に提供されたのは、ラジオ機材であった。英国のギルクリスト大使によると、これは「内部治安を補助し」、将軍たちが「共産主義者を制圧する仕事」を助けるものであった。米国の歴史家ガブリエル・コルコによると、1965年11月に、米国はインドネシアの将軍たちから、「モスリムと愛国主義青年たちをPKI弾圧に利用するために武装させる」ための武器を求める要求を受け取っていた。最近機密解除された資料は、インドネシア側からこうした要請があったことを示している。11月1日、グリーン大使はワシントンに「小火器の提供については、われわれはそれを提供すると軍に述べることには慎重にならなくてはならないが、その可能性を閉ざさないように振る舞わなくてはならない。できれば米国製以外の小火器の入手可能性を追求し、米国政府の表だった関与なしに入手できるようにするのがよい。さらに、必要ならば、インドネシア軍の武器購入を秘密裡に支援できるようなチャネルを検討すべきである」と述べている。

1965年11月9日のCIAメモは、「彼らと米国政府とを困惑させないような秘密の方法があるならば、そうした支援を展開するのに躊躇すべきではない」としている。さらに、「これまでに求められた装備をそれなりの量提供するための」方法は存在しまた造りだすことができると述べている。さらに、「小火器や薬などの求められた品目の買い手と運搬人についても同じことが言える」とある。メモはさらに「現在インドネシア軍にそうした装備が与えられるべきであると提案はしない」が、「もし軍の指導者たちが詳細に需要を正当かできるならば」、「その成功を確実なものにし、今後の米国との共同の基盤を確立するための支援を行うことはありうる」と述べている。また、武器提供を「秘密に実行する手段」を「われわれは手にしている」とも。

インドネシアからの武器提供要求に対して、米国は秘密支援を行うと答え、それを「薬」と呼んだとコルコは述べている。機密解除された資料は「軍は本当に薬を必要としていた」と述べており、また、米国は、「インドネシア軍の行動に賛意する現実的なやりかた」を示そうとしていたとある。資料からどれだけの武器が提供されたかはわからないが、「薬のための費用は米国が得ることができる利益と比べるとまったく問題にならない」とある資料は述べている。ワシントンで1965年12月4日に行われた会議で、「薬」の提供が決定した。

英国もこうした武器提供について知っており、自らも提供を認めた可能性が高い。英国は、当初、マラヤとインドネシアの「対立」に使われる可能性を考慮して米国製武器のインドネシア将軍への提供に消極的だった。それゆえ、英国の資料は、米国国務省が「将軍たちを支援する前にわれわれに相談することになっている」とある。米国がその約束を反故にした可能性もある。けれども、それについてその前に話し合われたところによると、ワシントンの英国大使館の英国官僚は、ワシントンが「「対立」に使われることはありそうにない」と述べていたという。

特に英国の資料は、ジャカルタで米英が非常に緊密な連絡を取っていたことを示している。軍政をうち立て、西洋の経済的・政治的利益に有利な政府をうち立てるための米=英の共同作戦のようなものの存在を示している。米英の共謀による介入には、1953年イランでのモサデク政権の転覆、1965年米軍基地を作るための英領ディエゴ・ガルシア島からの住民追放、米国によるベトナム侵略や中米、グレナダ、パナマ、リビア侵略に対する英国の支援、カンボジアやアフガニスタンでの秘密作戦など様々なものがあるが、その中でもインドネシアにおけるこの作戦は最も血なまぐさいものの一つに数えられる。米英の特別な関係は、現在も、イラクとアフガニスタンにおける共同軍事作戦に見られる。

1960年代中期のインドネシアに対する米英の関心と優先事項は資料に示されている。英国にとって、東南アジアへの関心は、一部には、ゴムやヤシ油、クロム原石といった「必須の商品の主要生産地」であることにより説明できる。「経済的に、東南アジアは原料の主要産地であり、そうした産物の生産減を防衛し、潜在的な敵のアクセスを拒否することは西洋の権力にとって重要である」。インドネシアはまた重要な海路・空路に位置しており、「世界の交通の中枢にある」。さらに、英国は、マラヤとの「対立」を終わらせるようジャカルタの体制変更を求めていた。

当時英国外相マイケル・スチュワートは「インドネシアが英国の輸出業者に大規模な機会を与えていないのはインドネシアの経済的混乱によるものである。インドネシアで取り引きがある際には、行動を起こし、ケーキの一切れをわれわれのものにしなくてはならない」、英国は「共産主義や急進的民族主義」の際限を恐れる、と述べている。

米国に関しては、ジョージ・ボール国務次官が、インドネシアは「南ベトナムよりも米国にとって大切かも知れない」と述べている。ある米国メモは、「かかっているのは」、「一億の人々と大規模な資源と戦略的に重要な諸島なのである」と述べている。米国の関心はベトナムとインドネシアでほとんど同じである。西洋の経済的・政治的利益を脅かし、また、成功する開発モデルとなりうるような、共産主義者やそれに共感する人々を含む独立した民族主義政権の出現を阻むことである。

マレーシアの米国大使は1965年10月の1年前に、ワシントンに大使ケーブルを送り、「インドネシアに対する米国の困難は、米国と英国を東南アジアから除外しようとするインドネシア政府の意図的な戦略から来ている」と述べている。ボールは1965年3月に、「われわれのインドネシアとの関係は崩壊しつつある」と言っている。「アメリカのゴム会社が乗っ取られただけでなく、アメリカの石油会社が国営化される恐れが迫っている」と。

スカルノ政権は、明らかに米英にとって誤った優先事項を設定していた。米国の報告によると、「インドネシア政府は基幹産業と公共施設、国内交通と通信を優先していた」。「私有が廃止され、すべての海外からの投資に対して、ある種の生産利潤分配調整契約がなされる可能性がある」。結局、「インドネシアが明言している目的は、経済開発において、外国特に西洋の影響を受けず、自分たち自身の足で立つこと」である。これらは、すべて米英の戦略 −現在でもこれはそのままである− にとって異端の考えであり、妥当しなくてはならないものである。

PKIに対する敵意は、共産主義にではなく、その民族主義にあった。あるメモは、「PKIの外交政策が、スカルノの外交政策と同様、北京やモスクワや国際共産主義一般の外交的関心にではなく、インドネシアの国家的利益関心に基づいている可能性が高い」と述べている。共産主義インドネシアの真の危険は1965年9月1日の特別国家諜報予測に示されている。そこでは、PKIが「インドネシア民族を活性化し団結させ」る可能性が言及されており、「それが成功したら、インドネシアは低開発世界に対する強力なモデルとなり、共産主義への信頼を強化し、西洋の覇権に対してダメージとなる」としている。コルコやノーム・チョムスキーが様々な国に対する介入を巡って述べたように、問題は、インドネシアが成功しすぎることであり、米国の政策立案者が恐れていたのはこれであった。

資料によると軍自体も、理想的な米国の同盟者ではなかった。というのも、軍も「傾向として民族主義傾向が強く、西洋の経済利益を奪取することを好んでいたからである」。それにもかかわらず、スカルノ・PKIか軍かという選択においては、「軍を支援すべきである」。というのも、長期的には、西洋の助言と援助と投資により、インドネシア経済を、かなりの民族主義的傾向は残るかも知れないが、西洋の投資家にとって機会と利益を提供するようなものに変えることができるからである。特に、腐敗の度合いを増すスハルト大統領の協力を得て。西洋は、30年にわたるスハルトの独裁弾圧政権を支援してきた。1975年の東チモール侵略と虐殺も支持した。1965年と同様、東チモールにおいても、数十万人の死者は米国と英国の当局にとって、何ら問題ではなかったのである。

注や情報源については、出版予定のMarc Curtis, The Web of Deceit: Britain's Real Role in the World, Vintage, 2003を参照。Marc Curtisのメールアドレスはmcurtis30@hotmail.com。彼の著書としてはほかに、The Great Deception: Anglo-American Power and World Order, Pluto, London がある。

注:参照されている米国の資料は昨年、米国政府刊行物局(GPO)から米国の外交政策シリーズとして刊行された。英国のファイルはロンドンの公共情報局によるもの。東チモールについては、ほかにここも参照して下さい。
益岡賢 2003年1月4日

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