女性と紛争:全国公聴会報告

2003年4月28・29日
東チモール受容・真実・和解委員会


益岡が、チモール・ロロサエ情報ページのために訳したもので、既に、ロロサエ・ページにはアップされているものですが、このページにアクセスして下さる方にも、ぜひ、ぜひ目を通していただきたいと思い、ここに再掲するものです。

1965年に大規模な虐殺とクーデターでインドネシアの政権を握った軍人スハルト。スハルト独裁政権下のインドネシアは、1975年、ポルトガルからの独立の動きが進む東チモールを不安定化し、さらに、フォード大統領とキッシンジャー国務長官の支持のもと、東チモールに全面侵攻しました。その後、1999年までの24年にわたるインドネシア軍による東チモール不法占領。その中で、人口60万人程の小さな島で、20万人もの人々が、虐殺や飢餓、病気で命を失いました。この間、米国は大規模な軍事援助をスハルト軍事独裁政権に提供し続け、日本は、ODAを通した大規模な経済援助と政治的支援を続けました。背景情報について詳しく知りたいかたは、ロロサエ・ページをご覧下さい。とりあえずのところをざっと知りたい場合は、ここをご覧下さい。

受容・真実・和解委員会は、東チモールの過去の人権侵害について真実を明らかにし、国民の和解をすすめることを目的とする委員会で、2002年4月から具体的な活動を開始しています。南アフリカの真実和解委員会をモデルとしており。7人の東ティモール人全国委員と多数の地方委員から構成され、現在は東チモール13県にチームを擁して活動しています。 活動期間は2年の予定で、必要と判断されれば半年延長できるものです。



「強姦されない日は一日たりともなかった」(オルガ・ダ・シルバ・アマラル)

チモール人女性は、4月28・29日に、1974年から1999年の間の25年にわたる政治紛争の中で、東チモールの女性に対して犯された人権侵害を明らかにする2日間のワークショップを終えた。受容・真実・和解委員会(CAVR)が行った全国公聴会で、東チモールの歴史上始めて、女性に、自分の経験を語る舞台が提供されたことになる。

この2日間の公聴会で、7名の全国委員(委員長は著名な人権弁護士アニセト・グテレス・ロペス)のもとにあるCAVRは、自ら人権侵害の犠牲となった犠牲者女性14名と、他の人々に対する人権侵害による犠牲を被ったりそれを目撃した人々の話しを聞いた。さらに、CAVRは、多数の専門家参考証人の話しを聞いた。

1982年から1992年まで、インドネシアの占領下で東チモールの「州知事」を務めたマリオ・カラスカラン氏は、宣誓証言を行った。これは、CAVRがインドネシア支配時代の上級メンバーから証言を聞いた最初の機会であった。また、ジャカルタから使節団を公聴会に送ったインドネシアの「女性への暴力に反対する全国委員会」(コムナス・プレムプアン)、東チモール女性団体のコンソーシアム、1999年の大規模な移送の後に西チモールの74の難民キャンプを調査した西チモールのインドネシアNGO調査団、1983年から1999年まで東チモールでインドネシア政府の家族計画プログラムを適用した元インドネシア公務員が、発言を行った。

こうした状況で、2日間の公聴会は、ときに深く感情的で、深刻な、女性からの直接経験にもとづく証言と、女性への暴力の背後にある中核的な組織や政策、実践に関するよりよい調査に基づく情報との双方を含むものとなった。ディリ中で、家庭や市場、職場で、人々は公聴会の様子をテレビで見、また、全国的に、人々は、ラジオの生放送を耳にした。公聴会の2日目にマリアナ地方にいたある外国の記者は、「マリアナの全員が、そのラジオ放送を聞いていたようだった」と述べている。

この2日間で最も長く残された印象は、証言をした女性たちの威厳と内的な強さである。繰り返し繰り返し、これらの女性たちは、人生で最も恐ろしい時を再経験し、涙を流し、平静を取り戻すために一時休止をしなくてはならなかった。繰り返し繰り返し、彼女たちは、話しを続けたいと主張し、自分の話しを語ることは自分たちにとって重要であると述べ、この問題に関する沈黙の時は終わったと語った。

「私の住む小さな村は、車を運転してくることもできない山の上にある。これまで指導者たちは誰も私たちに会いにこなかった。けれども、今日、神のおかげで、CAVRが、私たち女性に、会議に出席し、全国に私たちの経験を語る機会を提供してくれた」とオルガ・ダ・シルバ・アマラルは、公聴会の初日に行った証言の冒頭で述べた。

いずれかの証言に焦点を当てることは難しい。いずれもが重要であり、いずれもが、東チモール女性が経験した異なる苦難を示しているからである。公聴会の証言のために女性を選ぶ際、CAVRは、CAVRの権限範囲である25年間の中で、異なる暴力と、それらの中で様々に異なる状況について幅広い理解を促すように試みた。

1975年の内戦の際、女性が暴力の標的になったのは、その家族メンバーが反対政党の党員であると見なされたためであった。例えば、証拠によると、フレテリンの党員が、UDTの党員に関係する女性を侵害したり、逆の事態があったことがわかっている。初日の朝、リタ・ダ・シルバが1975年にフレテリンの党員に強姦されたことを語ったときは、劇的な瞬間だった。彼女が証言を中断しているとき、証言を待つ別の女性ビクトリア・エンリケが立ち上がって講堂の前に進み出、次のように述べた。「私の妹はフレテリンの党員に強姦された。一方、フレテリンの党員だった私は、UDTのメンバーに強姦された。私たちは、男の手によって、同じ犠牲となったのだ」。ビクトリアは演台の上にたち、泣きながらリタ・ダ・シルバを抱擁した。「私たちは独立を達成した。私たちは旗のために苦痛を強いられた(彼女自身東チモールの旗を身にまとっていた)。私たちは姉妹だ」。そして、チモールの政治指導者たちに、こうしたことが二度と起こらないようにするよう求めた。彼女は、独立は全てのチモール人のものであると述べ、政治指導者たちに、彼女とリタの経験を理解するよう求めた。満員の聴衆も泣き、拍手をした。

CAVRの副委員長であるジョビト・アラウジョ・ド・レゴ神父は、このセッションのまとめとして、この苦痛に満ちた証言は、戦士の文化を持つことが勇敢だと考えるようなチモール人男性に対して、紛争が引き起こす結果を思い出させるものであると述べた。

他の女性たちは、1975年12月のインドネシア軍による全面侵略後の時期について証言をした。聴衆たちは、家族が山に逃げ込んだこと、女性が、国を守るために武器を手にとった男性たちとしばしば離ればなれになったことを聞いた。また、女性たちは、家族特に子供が、山の中で食べ物や薬がなく死亡したことを証言した。

痩せた50代の女性マリア・カルドソは、夫がインドネシア軍の拘留所を出たり入ったりし、ついにカブラキ中央山岳地帯で姿を消す1982年まで、家族を一つに保とうとした努力について語った。夫が失踪したあと、彼女がインドネシア軍の拘留所に連れて行かれたときに、寒気のするような出来事が起きた。10人の兵士たちが彼女を処刑するために川に連れていったことを回想しながら、彼女は、「外国の兵士たち」が、彼女に、地面にひれ伏し死を待つよう大声で命令したと語った。「10丁の銃を突きつけられて私は地面に伏せた。10丁の銃が私を取り囲み、私に狙いを付けた。私は、「まだ殺すな。祈りをあげる時間を与えろ」と述べた。そして少し土をとり、額を拭いて、十字を切り、次のように祈った。「神よ、私の夫はこの土地のために闘った。今私の身を欲するならば、どうかそうして欲しい。けれども、もし本当にあなたが全能ならば、どうか私の胸や頭に、この銃弾が当たらないようにして欲しい」と。祈った後、兵士たちは私に向かって3回引き金を引いたが、銃弾は発射されなかった。兵士たちは私を家に連れ戻した」。

マリア・カルドソは、CAVRの責任期間である25年間に、3回自宅を焼かれている。1974年にUDTのメンバーが彼女の家に火を付け、持ち物を全て奪っていった。1980年代にはインドネシア軍が彼女の家を焼き、1999年にマヒディ民兵が彼女の家を燃やした。

「これらの経験すべてにより、私たちはとても苦しんだ。毎日の生活の費用を稼ぐのはとても大変で、子供たちを学校にやるお金を手に入れるのも大変だった。私は小さな商品を売ることしかできなかった。けれども、このわずかな収入で、子供たちを学校にやり、大学に送ることができた。子供たちが、国を作るために優秀で有用に働くことができるために。東チモールという自由な国のために」。

1980年代、インドネシア軍が地方の村レベルで組織体制を確立したときの経験を語った女性たちもいた。オルガ・ダ・シルバ・アマラルの話しは、講堂全体を涙させた。彼女は、自分の村における恐ろしい人権侵害の日々を回想した。こうした経験は、彼女の地域の多くの女性が共有しているという。オルガは遠く離れた中部の山岳部のマウシガという村に住んでいる。現在でも車で入ることはできない村である。1982年、彼女の村の男性たちは、インドネシア軍によって、大規模な軍事作戦の後、アタウロ島の監獄に送られた。これによりマウシガの女性たちはとりわけ弱い立場に立たされた。オルガは、数カ月にわたって続いた悪夢について語った。

「当時、ダレのインドネシア軍ポストに拘留されていたのは女性だけだった。私たちは、一人ずつ、ABRI(インドネシア軍)とハンシップ(インドネシア軍の司令官にある民兵自警団)に拷問された。私は、強姦される前に、男たちに、頭から血が出るまで木製の椅子で殴られた。また、胸をライフルの柄で怪我をするまで殴られ、歩けなくなるまでインドネシア軍の軍靴で背中をけ飛ばされた。それでも拷問は続けられた。私は耳と手と足に電気ショックをかけられ、血の流れが止まって何の力もなくなるほど体の上を踏みつけられた。彼らが私を強姦したのは、それからである。彼らは、私を、1カ月にわたって、このように拷問した」。

「このとき、ABRI(インドネシア軍)は、「学校」と称する建物を建て、夫たちがアアウロに連れて行かれた妻たちを拘留した。女性たちは兵士と住むよう命令された。毎日、私は尋問され、拷問を受け、強姦された。妊娠した女性たちや乳児を抱える女性たちも強姦された。子供たちは泣いたが、インドネシア軍兵士たちは、全く意に介さなかった」。

オルガはさらに、3カ月、トイレに閉じこめられ、そこで、拷問と性的攻撃を受け続けたと語った。「強姦されない日は一日たりとてなかった」と彼女は述べる。彼女は、1983年4月に解放され、その年の後半にアタウロから戻った夫と再会した。

ベアトリス・ミランダ・グテレスは、1983年クララス虐殺のあと、妊娠2カ月だった彼女は家族と山に逃げたが、インドネシア軍の襲撃で降伏したと述べた。証言の中で、ベアトリスは、その後の10年間、3人の異なるインドネシア軍兵士と暮らすことを強要されたと述べた。いずれの場合にも、彼女は妊娠し、いずれの場合にも、インドネシア軍兵士は彼女と子供を後に残してインドネシアに戻った。二人目の兵士と強制的に暮らさせられたとき、彼女は自分に言った。「オーケー。私は自分を二つに切り分ける。下の半分を彼にやろう。けれども、上の半分は、私の土地、東チモールの土地のものだ」。ベアトリスは現在、子供たちと村に暮らしている。時に、村の人々は「兵士の妻」として彼女のことを酷く扱ったが、現在では、コミュニティは、彼女と子供たちとを受け入れていると語った。

CAVRはまた、1999年の暴力が女性に及ぼしたインパクトについても証言を聞いた。

フェリシアナ・カルドソは1999年9月6日スアイ教会虐殺の現場にいた。彼女は、民兵のメンバーたちが、フランシスコ神父をまず銃で撃ち、次いで刺し殺すのを目撃した。それから、彼女の夫が殺される場面も目撃した。「夫の腕はイエス・キリストのように広げられ」、民兵の兵士により刀で切り刻まれた。他の女性や子供たちとともに、彼女は軍の駐屯所に無理矢理連れていかれ、それから民兵とインドネシア警察により国境を越えて西チモールに連れていかれた。彼女は西チモールのベトゥンにある警察署に2カ月拘留された後、逃げ出して、1999年11月に東チモールに戻ってきた。

エルメラ出身で、UNAMETの東チモール人スタッフだったアナ・レモスの母親であるイネス・デ・コンセイカン・レモスは、苦悩に満ちた証言を行った。イネスは、娘の恐ろしい人生最後の日について証言した。インドネシア軍と現地の民兵ダラ・メラが、隣人の家の前庭で、娘を拷問し、強姦し、それから、どこかに連れて行って殺害した。アナの服は、「エルメラの森の中にある無名の墓地から」イネスのもとに返された。

女性たちの証言一つ一つが終わるたびに、CAVRの全国委員たちは、証言者たちに、東チモールの指導者たちや政府職員、全国の人々に対してメッセージがあるかどうか訊ねた。メッセージのために女性たちが考えをまとめようと言葉を止めるときにはいつも、驚くことが起きた。深いトラウマを刻む個人的な経験を回想した後に、女性たちは平静を取り戻し、国の指導者たちに、自分たちと同様に苦痛な体験をした全国の女性たちのことを考えるよう求めた。

「新しい大きな車を運転して回ったり、海外を飛び回ったりするだけではいけない。13の県全ての村々に、非常に沢山の寡婦や孤児がいる。こうした人々の日々の生活を支援するために何かをしてもらいたい」と、リキサ出身のビクトリア・エンリケは語る。

全国に報道されたこうしたメッセージは、女性たちからの直接の個人的な、全国に向けたメッセージとなった。こうした女性たちは、村の会合においてさえ、これまで、自分の意見を聞いてもらうことが難しかった人々である。今回の公聴会は、非常に基本的な点において、民主的な精神を育むものでもあった。

女性たちによる、心に響く証言の他に、CAVRは、2日間にわたって、重要な専門家の見解も受け取った。東チモールにおけるインドネシア占領下でインドネシア行政の上級メンバーだった人物からの初めての聞き取りにおいて、元「州知事」だったマリオ・カラスカランは2時間にわたって証言を行った。カラスカランはポルトガル語で書かれた証言を読み上げ、それをテトゥン語で説明した。彼はとても生き生きとしており、インドネシア体制下のチモール人としての彼の経験を、とても率直に語った。

カラスカランは色々な点について証言を行い、インドネシアの占領下で続いた女性に対する侵害の様々な面に光を当てた。彼は、1989年まで、東チモールが完全に軍事行政下に置かれていたと述べた。「インテル(インドネシア軍の諜報オフィサ)が、至る所にいた」。カラスカランは、1989年以前、東チモールの文民行政当局の権力は極めて限られており、軍の人権侵害について責任を追及するよう求めることはできなかったと語った。また、東チモールは、その間、国際社会から完全に遮断されていた、とも。

「東チモールは、閉ざされた土地で、嘘と幻想の場所でした。ここに来た人々は、何をすることもできたのです。全てが秘密だったのです」。カラスカランは、インドネシア軍は、女性に対する侵害を体系的に行っていたのであり、決して、偶発的な出来事ではなかったと述べ、軍のやり方について、多くの例をあげた。また、低いランクにいるインドネシア軍人が、若い東チモール人女性を上級の兵士に提供することにより、自分の昇進を図ったと証言した。

「上級の将校たちは、設備であるかのように、女性を提供された」。

彼はまた、インドネシア軍がよくダンスパーティーを開催し、若いチモール人女性を強制的にそれに参加させて兵士を楽しませ、それから、性的に侵害したと述べた。特に、チモール人の母とポルトガル人の父との間に生まれた混血の女性が、しばしばそうした性的侵害の標的とされたと述べた。カラスカランは、ファリンティル兵士の妻たちが、しばしばインドネシア軍により、性奴隷化されたと述べた。

インドネシア政府の家族計画プログラム(KB)について、彼は、原則的には、東チモールのプログラムはインドネシアの他の場所のプログラムを同じであったと言う。それは、東チモールだけのプログラムではなく、インドネシア全体のプログラムであると。けれども、東チモールは戦争状態にあり、軍事化されていたので、そのプログラムは適切に適用されなかった。村々では、人々はこのプログラムに立腹し、教会の指示を仰いだが、プログラムは教会の政策に反したものであった。カラスカランはまた、何千人もの子供たちが、戦争で死亡したと述べた。東チモールの人々は、東チモール人が子供を作ることは禁じられる一方で、チモール人以外の人々が、インドネシアの移民政策により東チモールに連れてこられるのは何故かを疑問に考えていた。彼はまた、東チモールにおける家族計画プログラムの問題の一つ---それによりインドネシアの他の場所と東チモールで、このプログラムが異なるものとなった---は、プログラムを巡る秘密主義にあったと言う。このプログラムに参加させられた人々は、その説明も受けず、同意もしていなかったと。

カラスカランはまた、1983年のクララス虐殺についても説明した。クララスは東チモール東部にあるビケケ県の町で、この虐殺では何百人もの人々が殺された。「我々は、この村を寡婦の村と呼んだ」。この虐殺の中心人物として、カラスカランは、スハルトの娘婿であるプラボウォの名前を挙げ、特にムルダニ将軍との間の、インドネシア軍内の権力闘争に関係していたと述べた。

証言の中で、カラスカランは、陰鬱な数字をあげた。1985年に「州知事」として、東チモール全土で調査を行い、その当時、4万人の孤児がいることがわかった。ジャカルタの政府からは、これらの孤児のうち、5000人分の補助金を得ることができただけだった。また、インドネシアによる侵略の前半と、1974年の教会の人口調査との比較も提示している。1974年に東チモールのカトリック教会は、人口を64万人と推定しているが、1980年の推定人口は50万人だった。

まとめの段階で、CAVRの座長が、カラスカランに、東チモールの「州知事」だったことを後悔しているか、と訊ねた。「私が東チモール州知事だったとき、私はインドネシアの法律を決して破らなかった。人々の生活を改善するために法律を利用しようとした」とカラスカランは述べ、多くの人々が、拍手をした。「1991年11月12日の虐殺が起きたとき、私は初めて泣いた。そして、1992年、州知事を辞任した」。CAVRの座長に、女性に対する暴力の目的は何だったと思うかと問われたカラスカランは、「女性に対する暴力の目的は、抵抗運動の力を弱めることだった」と答えた。

カラスカランの発言の次に、インドネシア公務員のジョン・フェルナンデスが証言を行った。彼は、1983年から1999年まで、東チモール南部の海岸のマヌファヒで、家族計画プログラムを担当した人物である。彼は、この家族計画プログラムが、村レベルで、軍と文民が共同して適用したこと、この共同プログラムが「軍司令官によって直接開発されたものである」こと、「毎年継続的に実施された」ことを語った。

「私見では、家族計画プログラムは、インドネシア人をもっと東チモールに連れてくることができるようにするための、インドネシア政府による政治的戦略であった。間接的に、このプログラムもまた、東チモールのもともとの人々を殺害した。というのも、家族計画プログラムに用いられた薬の副作用を治療するための特別な薬があったのだが、病院の看護婦たちは、この薬をインドネシア人の妻たちにだけ処方し、東チモールの人々は副作用に苦しむがままにさせておいた」。「家族計画プログラムは「無理矢理課された」ものということができる。というのも、これは上から計画され規制されたものだからだ」。

公聴会初日に、CAVRは、東チモール女性のグループから証言を受けた。この女性たちは、紛争前から東チモールに存在していた男女間の力の不平等さが、紛争によって悪化したと述べた。この報告では、1975年の東チモール政党間の紛争以来の、1975年のインドネシアによる侵略、山岳部での抵抗とその後のインドネシア軍による占領、そして1999年の国連が組織した住民投票までの女性の経験を検討した。

このグループは、チモール人女性が、強姦や強制結婚、性奴隷といった、特定の暴力を経験していると結論した。女性は、暴力の輪の中に捕らえられ、犠牲者がさらに、侵害を受けた後で、家族やコミュニティからの差別の犠牲となる。一連の勧告の中で、このグループは、女性犠牲者のリハビリと治療を支援する必要性を述べた。

公聴会初日の終わりとして、CAVRは、インドネシアの女性に対する暴力全国委員会(コムナス・プレムプアン)の証言を聞いた。このグループは、1998年に、スハルト退陣の際、中国系の女性に対して加えられたショッキングな暴力の後で結成された。コムナス・プレムプアンの使節には、アチェと西パプアからのメンバーも含まれており、これらの人々は、特に参加者に歓迎された。

CAVRへの証言の中で、使節団の団員は、東チモールの女性に対して行使されたと同様の暴力パターンが、アチェと西パプアで今も犯されていると述べた。彼女たちの証言は、この公聴会が、今もインドネシアの各地で人権侵害に苦しむ女性たちの危急の存在に関連していることを改めて意識させるものであった。

コムナス・プレムプアンの委員長サムシダル自身もアチェ出身で、1994年から1998年の間に行われたインドネシア軍の作戦で、女性が非常に苦しんだことを話した。「私は、アチェにある、強姦の家を思い出した。この家で、女性は毎日強姦され、体は犯された。女性たちは、兵士のために掃除と料理を強いられた。そして、家のあらゆる部屋では、いつも、強姦が行われていた。私たちが直面しているのは、人々を守る責任があるはずの軍により、強姦が当たり前に受け入れられているという状況だ」。

「新秩序のもとで、軍事作戦を含むこうした作戦が行われている中、女性は土地のように使われた。どういう意味か?女性は、人権侵害が犯される場所のようだった。こうした状況で、女性たちは、もはや自ら人類の一部であると感じなくなる。侵害されるのは、自分が誰であるかという意識、恐怖なしに生きる可能性である。こうした侵害は、とりわけ、アチェや西パプア、東チモールといった、特別軍作戦地域で犯された」。

「紛争があるときにはいつも、東チモールでも、アチェでも、パプアでも、女性が搾取された」。サムシダルは、また、女性に対する暴力が持つ、より広い社会文化的含意についても語った。「我々の文化では、女性たちは家族生活に責任を負っている。女性が侵害されると、それは家族に対する侵害となる。女性はコミュニティの道徳性を象徴しており、女性が強姦され犯されると、コミュニティの道徳基盤も侵害される」。

CAVRの委員長であるアニセト・グテレス・ロペスは、使節団に対して、こうした侵害に対する組織的責任を確立するためにCAVRは何が出来るかと訊ねた。カマラ・チャンドラキラナは次のように答えた。「制度的責任を確立する努力は、新たな進展である。インドネシアでは、実質的な不処罰状態にある。政治的な意志がないというためだけでなく、法制度が極めて未発達だから。例えば、強姦事件で証拠を集めることはほとんど不可能である」。

「私たちはまた、村の責任者たちとあらゆる宗教の指導者たちとともに、女性に対する暴力にどのように向き合うかについての対話を開こうとしている」。「インドネシアでは、私たちは、今も、不処罰のサイクルの中で生きている。私たちは、アチェとパプアの事件を法的に扱おうと活動しているが、法制度の限界を認識してもいるので、文化的・政治的レベルでも活動している」。

使節の一人イタ・ナディアは、地域的・全国的組織と共に働く必要性を述べた。女性の犠牲者たちが、社会に含まれることを確実にするためである。「正義は犠牲者の声からやってくる。新たな国では、犠牲者たちをこの新たな社会の礎の一部として包容することができるならば、コミュニティとして発展することができる」。

イタはまた、全ての国家的機関、法律と政策における、女性に対する暴力を防止するための共通の基盤が必要であることを強調し、また、コムナス・プレムプアンの「体と心が、平和と正義を求めて活動している東チモール女性犠牲者への連帯に開かれている」と語った。

2日間にわたる公聴の最後の証言は、西チモール人道チーム(TKTB)により行われた。TKTBは、2000年に、西チモール中の難民キャンプでの調査を取りまとめた。調査団は45名の女性メンバーからなっており、西チモールの74箇所の難民キャンプで調査を行った。彼女たちは、キャンプの緊迫した環境と、キャンプに入って調査を行うときの困難について述べた。そして、キャンプにおける女性の状況が、東チモールで多くの女性が犠牲となった暴力の延長であると述べた。

調査団は、キャンプが、同心円状に社会組織化されていると述べた。一番外側が、全体を統制する層で、インドネシア軍がそこにいた。その一つ内側には民兵がいて、その内側には公務員がいて、一番真ん中に一般の人々が置かれていた。

キャンプに暮らす人々は、キャンプに来たときから現在まで、暴力のサイクルの中で暮らしている。家庭内暴力、賭博、アルコール中毒、ストレスが、蔓延していた。キャンプで民兵にリクルートされたメンバーによる攻撃も多数見られた。多くの男性が、政治的葛藤をキャンプ内の女性に対する暴力で晴らしていた。西チモール人道チームは、民兵のメンバーたちが、インドネシア軍が用いていた暴力をまねしたことは明らかであると述べた。

証言は、開始の際と同様に、シスター・エストチアによる祈りで幕を閉じた。彼女は、自ら西チモール人道チームに随伴した。これ自身、このプロセスが促した、人々と人々との間の和解と連帯を示すものである。

以下の抜粋は、CAVR全国委員の一人、オランディーナ・カエイロが、最後のまとめとして語ったことである。

「この二日間の独別な時を経験した今、チモール人であること、そして女性であることを、私がどんなに誇りに思っていることか。私たちに心を開くことで、姉妹たちは、私たちが想像することしかできない暗闇の旅へと私たちを導いてくれた。同時に、生き延びるにあたってのその強さと性格、連帯という最も明るい光も見せてくれた」。

「大きな勇気を持って私たちに証言をしに来てくれた女性の一人一人が、自分自身のためだけに話したのではなく、何百人もの代表として、実際、何千人という、同じような恐怖と侵害を経験した女性たちの代表として、話をした。東チモールとインドネシア、そして世界は、東チモールで何が起きたのかを知るべきだ。東チモールでも、他の場所でも、同じことが二度と起こらないように」。

「今日東チモールでしばしば提起される質問は、誰が独立の便益を得るに値するのか?というものである。私たちの自由のために、誰が闘い、最も多くの犠牲を払ったのか?こうした議論の中で、女性の役割は、それに値する場所を与えられたことがなかった。誰が、私たちの独立の所有者なのか?これに答えるためには、女性の大きな地位を考慮する必要がある。私たちはそれを忘れてはならない」。

「この2日間は、多くの人にとって苦痛に満ちた経験だった。けれども、未来を築くために過去と折り合いを付けることを学ぶことができるよう、この苦痛をくぐりぬけなくてはならない。ここで話をした人々の声は、一点においてはっきりしている。つまり、犠牲者たちは、私たちのコミュニティの、政治的な指導者たち、そして宗教の指導者たちに、女性に対する過去の巨大な人権侵害に向き合うよう東チモールの人々を助けるべきだと求めていることである。そして、また、将来が恐怖のないものであり、対立なく、繁栄をもたらすことができるよう、女性に対する巨大な暴力から学ぶことを。それを達成するためには、私たちは、女性への暴力が黙認されるという価値体系を代える必要がある。実行者の責任が問われ、女性の体と心に対する侵害は、罪を問われなくてはならない。犠牲者には、最も高い名誉が与えられなくてはならず、実行者の悪辣な振舞いのために、非難されることなど、決して、二度と決してあってはならない。私たちの苦痛に満ちた過去から、本当の花を育てようではないか」。

受容・真実・和解委員会(CAVR)は、今後さらに5つの全国公聴会を予定している。

・飢餓と強制移送(2003年7月)
・内戦(2003年8月)
・虐殺(2003年11月)
・国際(2004年2月)
・子供と紛争(2004年4月)

  益岡賢 2003年5月8日

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