自治労音協通信

 3面  NO48号/2002.5.5発行

道楽道 交際交流の場づくり”役”人生

連載その1 スタートは『タイ・ソンクラーン祭』

白石 孝(荒川区職労書記長)

出会い★ソンクラーン祭り

4月21日の日曜日、東京の下町江戸川区にある都立葛西工業高校でタイ正月祭りが開催された。主催は「ソンクラーン祭りを祝う会」とタイ留学生協会。ソンクラーン祭りとは「タイ王国で毎年4月に盛大におこなわれる旧正月(仏暦)のお祭り。
この時期はタイで一番暑い時期にあたり、水をかけあって新年の無病息災、豊作などを祈願する。水かけ祭りとも呼ばれる」(タイ・ソンクラーン祭りのチラシから)1989年から始まり、今年13回目を迎えるこの祭りは、有志によるボランティアによって企画、運営されている。
とりわけ日本側のスタッフはすべてボランティア。実行委員長は都立高校教師、そして私以外に都庁職員、民間企業社員、学生、タイに関わる仕事をしている人などだ。といってもタイ側は留学生協会が正式に組織として参加し、タイ王国大使館も後援しているので、東京で行なわれている祭りとしては半ば公式なものとなっており、日本で発行されているタイ人向け新聞・雑誌などでも紹介される。
毎年の参加者は3〜4千人。昨年からタイ政府観光省・タイ大使館が代々木公園で開催している「タイフード・フェスティバル」は、数万人を集める日本でのタイ関係では一大イベントになっているが、私たちは人集めを目的化することなく、草の根の日タイ友好交流を目的に始めたという原点を貫き、それに沿った内容にしている。
タイは仏教国である。多くのタイ人は折りにつけ、お寺へお参りに行き、毎朝、托鉢に廻る僧侶に供物を差し出し、そしてお金を貯めて寄進(タイ語でタンブン、徳を積むという意味)する。生活にお寺とお坊さんが根付いている国だ。といっても、中にはイスラム教徒やキリスト教徒もいるし、宗教に関心の薄い人も少なからずいるし、首までどっぷり浸り切っているというものではない。日常の生活に習慣や慣習として定着していると理解した方がいいかもしれない。
ということで、東京でのソンクラーン祭りのメーン・イベントは仏教儀式からスタートする。タイからわざわざ僧侶を招き、タイ大使館からも大使や書記官が来賓としてあいさつに来られる。その儀式に出たり、お坊さんから聖水をかけられたり、相談ごとをしたりするために多くのタイ人がやってくるのだ。
つまり、このイベントは在日タイ人向けを基本としている。儀式の後は、ステージでのパフォーマンス。タイ舞踊、タイ映画紹介、タイ音楽演奏、そしてタイボクシング「ムエイタイ」や「セパタクロー」の実演などが次々と披露される。
屋外ではタイ料理屋台が10〜15店、その他、タイ古式マッサージやビデオ・CD販売、それにNGOの活動紹介やKDDなど通信各社による無料国際電話サービスなどがある。来場者の半分はタイ人が占めている。

私とタイの出会い

このイベントへの私の関わりは、第1回の発起人が大学時代の運動仲間だったことによるが、私自身のタイとの15年に及ぶ交流から、多くの知り合いが関わっていることにもよる。
では、タイとの出会いとはそもそも何だったのか。それはほんの偶然から始まった。1970年代から私は国民総背番号制反対の運動に関わっている。その運動を中心に進めていた労働運動や市民運動の仲間で1977年に「コンピュータ合理化研究会」というNPOを立ち上げた。月刊で『反コンピュータ通信』を発行し、それ以外に学習会や全国研究集会の開催、プライバシー権運動など息長く取り組んでいる。前記の通信はこの5月で273号を数え、ミニコミ界でも長期継続度ではかなりなニュースレターとなっている。
1987年、この研究会の設立10周年記念として、すでに物故者となった剣持一巳(清水澄子前参議院議員の政策秘書在任中に逝去)が、「マレーシアのベナン島にある多国籍企業経営の半導工場で公害が発生し、海を汚染している。コンピュータ問題をグローバルに考える意味からも、反対運動をしているメンバーと交流しよう」という提案があり、20名を超える参加者が集まった。
ところが、出発1ヵ月前、政府の弾圧によって中心活動家が逮捕・拘束されてしまい、ペナン行きを断念、そして急遽振り替えで訪問したのがタイである。タイでは、買売春観光や日本製品の侵略に反対する運動を担っていた学生活動家が「もうひとつのタイ=タイの本当の姿を知ってもらう」ために自前のタイ案内のNPOを設立していた。そのATT(オールタナティブ・ツァー・イン・タイランド)の受け入れで、大手企業労組、多国籍企業の工場で交替制勤務をしている地方出身の若年女性労働者、日本企業の現地法人、政府の労働安全衛生機関などを訪問、交流した。
私は以前から交流のあった日本人シンガーソングライター豊田勇造の紹介で、タイの社会派音楽集団の雄「カラワン・バンド」の自前ライブを、宿泊していたATTゲストハウスで主催した。これがタイとの出会いである。そして、タイの暑さ、辛い食べもの、音楽の心地よさにひき込まれた。
以来、カラワンをはじめ社会派のミュージシャンを日本に招いてのコンサート主催を主に交流を続けている。また、コンサート主催が縁でタイ・ラオス・カンボジアでの国際協力活動に取り組んでいる社団法人シャンティ国際ボランティア会=SVA(旧・曹洞宗国際ボランティア会)との関わりもできた。
SVAは自治労とともに「アジア子どもの家」をラオスとカンボジアで担っているNGOである。法人となったSVAをサポートする目的で私は代議員になり、そして自治労都職労(当時)を中心としたタイ・ラオス・カンボジア交流活動を始めた。その内容は、日本で出版されている絵本に翻訳文を貼りつけて贈るという読書推進活動であり、そのモニタリングも兼ねた交流ツァーを年1回のペースで続けている。図書館、保育園、児童館・学童クラブの職員を中心に、訪問先でセミナーを開催したり、実技交流をするといったツァーである。
日常の交流がベースとなって、ソンクラーン祭りの中心スタッフを勤めているというわけだ。イベントの主催は人知れぬ苦労ばかりといっていい。当日、楽しげに屋台料理を食べたり、水を無邪気にかけあったりするというわけにはいかない。
今年の開催日は4月21日(日)、天気予報が二転三転、とうとう開場前から雨が振り出した。3月から4月上旬にかけての好天とうって変わっての冷雨、テントや軒下に出店を並べたから雨がかかることはなかったが、来場者は予想の半分の2千人。この日をあてにしていた屋台出店の皆さんはガックリといったところだ。主催者が独占販売しているタイのシンハービールも輸入元から150ケース仕入れたのに、売れたのはわずか30ケースという有様。
去年は、目黒区の公園と区民センターのホールを借りたが、途中からの雨と水かけによって土のグランドがぐじゃぐじゃになり、その泥が屋内会場のじゅうたんにこびりつき、少年サッカーと野球に使用するグランドはデコボコの泥沼と化した。開催2日後がメーデーだったが、午後からタイ留学生協会の会長ら6〜7人と夜までトンボとスコップを使って整地作業と格闘した。おかげで、目黒区の公園使用は二度とできなくなってしまった。使用するテントをはじめ長机やイスも後援してもらっている武蔵大学から無料で借用するのだが、その搬入・搬出、設営・撤去に前日と翌日、のべ20人くらいでとっかかる。お金をかけられない、かけないイベントだから、ひたすら肉体作業のボランティアを求め続けている。
こうやって、やっとひとつのイベントが実現するのだ。役所主催イベントは業者丸投げ、職員には超勤手当や弁当支給、そんなわけにはいかない。しかし、草の根のイベントや交流活動には大きな力がある。     (つづく)


白石孝(シライシ・タカシ)
自治労荒川区職労書記長、ミュージック・エイジア、プライシー・アクション、コンピュータ合理化研究会、国勢調査の見直しを求める会代表、SVA代議員、シャプラニール評議員などNGO・NPO活動に取り組んでいる。
shiratlk@jcom.home.ne.jp


『ソンクラーン祭り』
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