木村愛二の生活と意見 2001年1月 から分離

世論調査で極右シャロン51%の2.6.首相公選は20世紀の暴力後遺症の象徴か

(マルクス批判3)2001.1.27.(土)(2019.6.19分離)

 私が、初の英語演説の拙速作戦をアメリカ大使館前で決行してから、早くも2ヵ月が過ぎた。この拙速作戦の決行は、パレスチナ内戦の「子供虐殺」と、お涙頂戴の「偽の友」横行状況で怒り心頭に発したが故でもあり、偽イスラエル極右政治的シオニストへの批判を主たる目的としながらも、かねてより意識していたインターネットTV超辛口時事解説者の武者修行をも兼ねていた。その後、イスラエル国内でも政治変動が続いていたが、論評の暇が無かった。というよりも、実は、あえて論評する気になるような、決定的な事態の変化がなかったと言う方が、正確なのかもしれない。

極右のシャロンがパレスチナ側と接触の絵解き

 昨日、『日本経済新聞』(2001.1.26)朝刊の国際面には、3段の見出しで、「バラク氏再選厳しく/イスラエル首相公選/衝突長期化、支持失う」とあった。2月6日に迫ったイスラエルの首相公選についての現地の世論調査では、シャロン51%、バラク31%の支持率だという。ここに至る状況は、これまでにも何度か報道されているから、別に驚くことはない。私が興味を抱いたのは、その左の方の1段の見出しのベタ記事、「パレスチナ関係者とシャロン陣営が接触」の方であった。シャロンの息子と元外務次官が、「アラファト自治政府議長の政治顧問と会談したという」のだ。「和解」もやるぞ、との内外向けジェスチャーであろう。

 目前の事態についてのみ論評するのであれば、シャロンのパレスチナ人への挑発が、成功したということになる。シャロンは、力の政治の延長上で、今や54年目を迎えるパレスチナ分割決議の決着役をも買って出るぞ、と内外に誇示した。パレスチナ側、またはアラブ側の拒否反応は強まるであろう。

 しかし、現在の力関係を変えずに、和解交渉を進めるのであれば、アラブ側が公式に譲歩することによって、領土分割の屈服を承認する以外の解決法は、あり得ないのである。アメリカは、「和解案」と称して、「難民の帰還権」の放棄をも迫っている。この行為を歴史に照らせば、欧米の後押しを受けた偽イスラエルの侵略と占領を、承認すること以外の何物でもない。表面はどうあれ、力づくの押さえ込み以外の何物でもない。そう考えると、イスラエルの世論調査の結果が、非常に判りやすくなる。

 自動小銃を前に構えた武装警官隊を先頭にして、イスラム教徒の管理権限が認められている聖所に集団で押しかけたシャロンの挑発に応じて、パレスチナ側は石を投げ、イスラエルはミサイルを浴びせた。対等の力関係ではないのに、単に、「パレスチナ人とイスラエル人の間の暴力」(The violence between the Palestinians and the Israelis)、と報道されている。この「事件の意味の逆転」現象については、すでに何度も指摘した。

 だが、世間並以上に過度の集団防衛意識で思想武装しているイスラエル人の多数派は、パレスチナ側の死者の数の方が3桁以上多くても、自己防衛の意識を強める。だから、乱暴ではあるが「強い将軍」のイメージのシャロンの方が、有利になったのである。そして、侵略軍の総大将シャロンが、かつての日本の山下馬鹿将軍がイギリス軍の軍使を怒鳴りつけたように、「イエスかノーか」と、アラファトに向かって降伏を迫るのである。

 つまり、事実上は降伏でしかない和解の芝居が進行する可能性もあるのだが、アラブ側の民衆が、これで納得するはずがない。やがては、怒濤のようなアラブ・イスラム世界からの総反撃へと、歴史は、大きく動くであろう。また、血が流れる可能性が高い。

終止符を打てるか、目には目、歯には歯、テロにはテロ

 偽イスラエルの世論の動向は、実に単純な条件反射なのだが、人類史、または猿の種族の自然史的な視点から見れば、法則通りの反応なのである。「目には目を、歯には歯を」が、「テロにはテロを、ミサイルを」へと、より残虐になっただけのことである。

 この因果応報の歴史に終止符を打つことは、果たして可能なのだろうか。昔から、捻りの効いた空想科学小説には、犯罪が消滅した未来社会の閉鎖感への恐怖が綴られていた。要するに、暴力とか犯罪とかが存在しなくなると、かえって不気味な社会になるという状況設定である。いわゆる理想が実現すると、身の程知らずにも人類とか霊長類とか自称するようになった裸の猿にとっては、不自然な世の中になるのかもしれないのである。

 たとえば現在、アメリカかぶれの最近の若者言葉にも、「リヴェンジ」などがある。仇討ちは江戸時代に禁止されたが、雪の夜の赤穂藩士の吉良邸討ち入りは、今もなお、歌舞伎ばかりかテレヴィ・ドラマの定番である。英語圏では『ハムレット』である。

 私は、元旦から、とりあえず、この「日記風」の中で、20世紀の革命と、その思想的な原動力となったマルクスの暴力革命思想への批判を開始した。対置する思想の実例は、ガンディーの非暴力抵抗である。その筋を通すと、たとえ抑圧された側であっても、たとえ武器が小石だけであっても、暴力は否定することになる。私は、すでに、この「日記風」に記したが、某アラブ国の記者に対して、日本赤軍「英雄視」への批判を述べ、「日本人はテロを好まない」と告げた。しかし、これを現在の状況に憤激しているパレスチナ人に告げるのは、大変なことである。

 私がパリで知り合ったバジル・アブ=エイドは、パレスチナの地を踏んだ経験すらない。彼の父親は、現在の偽イスラエルに追い出されて、ヨルダンに逃れた難民だった。バジル自身は現在、フランス当局が「テロリスト」として逮捕・監禁しているパレスチナ支援者、の救援運動をしている。彼に「テロ反対!」と言うのは、私でさえ、ためらう。

 とつ、おいつ、考え続けざるを得ないのだが、基本的な状況認識は、いわゆる大衆基盤、思想・文化の水準にある。偽イスラエルは、あくまでも一応ではあるが、ユダヤ教、パレスチナはイスラム教、仲介役のアメリカは、キリスト教を掲げている。ブッシュとゴアの双方ともに、演説の締めは「ガッド・ブレス……」であった。日本も「神の国」だとのことで、それぞれ、「ガッダム!」(畜生!)の程度の思想・文化状況なのである。