本多勝一「南京大虐殺」/100人斬りの大嘘 3

忌まわしき過去の「ガセネタ」報道居直りの源流あり

その3:資格のない大嘘つき

1998.4.15「ガス室」裁判原告本人陳述書抜粋

南京大虐殺に関して、被告・本多勝一は
人前で発言する資格のない大嘘つき

 被告・本多勝一は、『噂の真相』(98・2)の連載個人名コラム「悪口雑言罵詈讒謗講座・第36回・論争について(その1)」(甲第34号証の2)において、次のように主張している。

「私は南京については自分で現地調査を4回やり、証人たち数百人を取材しました〈注1〉。その私に対して、文春を主舞台に南京大虐殺を否定する人々が“活躍”し、雑誌『諸君!』『文藝春秋』などで80回ちかく私を攻撃し、単行本をたくさん出しました。1人の記者の仕事を『大手出版社』が20年にもわたってここまで攻撃しつづけた例は、世界でも稀有なことではないかと思います。

 ……〈注1〉結果は最近刊行された『南京大虐殺』(朝日新聞社)に集大成されている」

 ところが、右のような「文春」による「攻撃」のきっかけとなったのは、被告・本多勝一の「南京」における「取材」による朝日新聞連載記事(甲第35号証)であるが、この記事(71・11・5夕刊)は、のちに詳述するように、日本刀による「百人斬り競争」などという技術的には全く不可能な話を、あたかも事実であるかのように得々として報じたものであり、その自称「取材」の驚くべき粗雑さもさることながら、「世界でも稀有なことではないかと思」われるほどの非論理的記事構成の典型的な見本だったのである。

 被告・本多勝一は、右記事でも衒学的に〈注1〉を付しているが、論争のきっかけとなった右の朝日新聞連載記事(甲第35号証)にも、〈注1〉〈注2〉がある。ところが、これを自慢の単行本(甲第36号証)に収録した際に、何の断りもなしに長い長い〈注4〉を加えているのである。〈注4〉は、『東京日日新聞』(現毎日新聞東京本社の前身)の「昭和12年12月13日付紙面」「記事」に関するものであるが、これこそが右の「朝日新聞の連載記事(甲第35号証)」の中の「日本でも当時一部で報道されたという有名な話」の記事の現物である。

 被告・本多勝一は、「この有名な話」の現物の確認すらせずに、かなりニュアンスの違う伝聞のみによる記事を発表し、それゆえに、その記事作りの粗雑さを、直後に「文春」が発行した1997年1月号の『諸君!』掲載記事「朝日新聞のゴメンナサイ」(甲第37号証)で指摘されたのであるが、以後、お得意の「悪口雑言罵詈讒謗講座」型レトリックによって居直りを策した。

 この居直りのキーワードとして被告・本多勝一が利用したのは、同じく『諸君!』(72・4)掲載の鈴木明による批判記事「『南京大虐殺』のまぼろし」(甲第38号証)の題名の字句の一部の「まぼろし」であった。被告・本多勝一は、この題名をねじ曲げて、「文春」が「南京大虐殺」の全体を「まぼろし」だと主張してキャンペーンを張ったかのように宣伝し始めたのであるが、私自身が、この件で多数の友人知人に問い質したところ、驚いたことに、そのほとんどすべてが「南京大虐殺まぼろし論」に関する論争の存在については、私自身と同様に薄ぼんやりと知ってはいたものの、鈴木明が執筆した右記事そのものを読んだものは誰一人としていなかった。

 ところが実は、鈴木自身は、その記事の冒頭で、右の「朝日新聞の連載記事(甲第35号証)」と、自分がマイクロフィルムから「発見」した右の『東京日日新聞』記事とを子細に比較し、被告・本多勝一の記事作りの粗雑さを徹底的に検証していたのである。鈴木は、私と同業種の東京放送で調査部に所属していた。被告・本多勝一による右朝日新聞連載記事のような「裏取りなし」記事作りを批判するのが、鈴木の中心的な執筆意図であったと見受けられる。右記事の題名中の「まぼろし」とは、決して「南京大虐殺」という事件そのものが「まぼろし」だという意味なのではなくて、むしろ、被告・本多勝一流の検証不足の「ガセネタ」の横行によって、歴史の実像が見え難くなっている現状への批判を基調とするものである。

 なお、鈴木明は、この他に『諸君!』(72・8)に「向井少尉はなぜ殺されたか」(甲第39号証)と題する記事をも発表しており、この記事によれば、鈴木の執筆動機には、戦後の中国における粗雑な戦犯裁判で死刑に処せられた向井敏明少尉(当時)の未亡人らの無念の想いを知ったが故に、右『東京日日新聞』記事をでっち上げた戦前の「親方日の丸」御用記者らに対して抱いた疑いと、強い批判とが加わっているようである。

 右の鈴木明による断続的な連載記事や、その後に発表された著書『「南京大虐殺」のまぼろし』(甲第40号証)などの批判的文章を、もっとも克明に読み、その主たる論点を一番詳しく知っていたのは、鈴木に批判された当人の被告・本多勝一その人に他ならない。

 ところが、被告・本多勝一は、自分が犯したお粗末至極な「裏取り」なしの「ガセネタ」「発表報道」「冤罪報道」の誤りを素直に認めるどころか、「文春」が世間的には「右寄り」と見なされているのを奇貨として、あたかも自分が正しい侵略戦争批判の記事をかいたのに対して、「右寄り」で体制派の反動的な「文春」が「虐殺全否定」のために攻撃を仕掛けてきたかのように装いを凝らし、いわゆる「左」の、しかし不勉強な自称「平和主義者」たちをだまし続けてきたのである。もちろん、被告・本多勝一にだまされて協力したアカデミー業者の教授たち、マスコミ業者の自称ジャーナリスト、司法業者の弁護士などにも、責任の一半を問う必要がある。

 被告・本多勝一は現在、「この『大論争』は大虐殺否定派の敗北に終り、いま彼らがしがみついているのは、『中国で言われるほど多数の虐殺ではない』とする『数』の問題だけ」(甲第34号証の2)と称している。私は決して「文春」に依拠するマスコミ業者の歴史観に同調するものではない。しかし、前出の朝日新聞連載記事(甲第35号証)で被告・本多勝一が〈注1〉に引用している洞富雄『近代史の謎』の「30万人、あるいは34万人説」に関しては、被告・本多勝一と一緒に「南京事件調査研究会」に加わっている笠原十九司(当時も現在も宇都宮大学教授)ですらが、『日本近代史の虚像と実像』3(89・11・17、大月書店)所収の論文「南京大虐殺の真相」(甲第41号証)の最後に、「狭義の南京大虐殺においてならば、30万人虐殺説も再検討する必要があろう」という慎重な表現で、数についての明言を避けて始めているのが現状である。

 被告・本多勝一がお得意のレトリックで、ひとまとめに「大虐殺否定派」と呼んで攻撃の対象にする人々の主張にも、かなりの違いがある。完全な「否定派」は、実の所、もともと、ごくごく少数の「政治屋」のみであった。敵をできるだけ「悪魔化」して自分を正義の化身に見せかける手法は、今の今、イラク爆撃を扇動して自分のセックス・スキャンダルを揉み消そうと苦心中の超々大国アメリカの大統領、クリントンによっても駆使されているのであるが、この種の下劣なキャンペーン・テクニックが、私自身にも向けられている現状に関しては、清々しかるべき登山の藪漕ぎで野糞を踏み付けてしまったような不愉快感を拭い得ない。

戦争を煽った悪質な「新聞記者」の嘘を
「事実」と言いくるめる「無資格」ポーター

 被告・本多勝一はさらに、自分の「ガセネタ」報道の居直り弁明として単行本(甲第42号証)の段階になってからの〈注4〉の中に、次のような新たな「情報」を付け加えた。

「月刊誌『丸』の1971年11号には、この第3報(右東京日日新聞記事を)送稿した鈴木二郎記者が、両少尉から取材したときの状況を『私はあの“南京の悲劇”を目撃した』として、報告している。さらに月刊誌『中国』(徳間書店)の1971年12月号では、野田少尉が故郷の小学校をたずねて、このときのことを語った自慢話が、直接聞いた志々目彰氏(中央労済組織推進部)によって紹介されている。それによると、野田少尉は次のように語っている。

『実際に突撃して白兵戦の中で斬ったのは4、5人しかいない。占領した敵の塹壕にむかって「ニーライライ」とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろ出てこちらにやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る。百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ』」

 もはや多言を要しない。被告・本多勝一はここでも、ただただひたすらに(多分、善意の支持者からの通報による)「情報」を、そのまま書き写し、意味ありげに連らねて見せているだけにすぎない。耳糞ほどの批判精神も見受けられない。行間から透けて見えるのは、ご都合主義、俗論便乗主義の「御用記者根性」のみである。

「送稿」しただけの鈴木の「目撃」という表現が、あたかも「百人斬り競争」の「目撃」であるかのようなニュアンスで書き写されている。「シナ兵はバカだから」などと語った傲慢な駆け出し軍人の「ヨタ話」を、まるで事実の証言であるかのように書き写している。科学的犯罪捜査などの実績を無視した検証無しの「ガセネタ」記事の典型である。もしも本当に「並ばせておいて片っぱしから斬る」といういわゆる「据え斬り」だったとしても、日本刀は、2、3人で刃こぼれし、血糊が付いて使いものにならなくなる。私は若い頃に、「荒木又衛門」とかいう名の剣客が「36人斬り」をしたという講談について、物理的に不可能だと論評した記事を読んだことがある。

 江戸川柳にいわく、「講釈師、見てきたような嘘を言い」

「百人斬り」などという講談風の「ヨタ話」を、日本刀に関する専門家に何も聞きもせずに、そのまま記事にすることからして、江戸落語長屋の金棒引き程度の仕業でしかないのに、それをさらに恥の上塗りしているのが、自称「新聞記者」こと被告・本多勝一の「仕事」なのである。

 自称「新聞記者」こと被告・本多勝一の先輩に当たる引用文中の「鈴木二郎」は、毎日新聞東京本社人事部の調査(甲第43号証)によると1907年生れ、1931年入社、当時は社会部所属、論争後の1996年に死去)も、右東京日日新聞記事を連名で執筆した浅海一男(同右によると1909年生れ、1932年入社、当時は社会部所属、論争後の1988年に死去)も、明らかに好戦的記事で戦争を煽った「戦争犯罪人」である。メディアの政治犯罪を追及し続けてきた私に言わせれば、自分の身を危険にさらすことなしに戦争を煽った連中の戦争犯罪人としての罪は、オッチョコチョイの軍人たちよりも重いのである。しかも、戦後になって、自分の過去の行状については口を拭ったまま、アッという間に「アメリカ民主主義」の提灯を持って走り回ったともなれば、これは「悪質」な累犯というほかない。被告・本多勝一は、以上の2人の先輩に関しての「証人としての信憑性」を何ら確かめようともせずに、ただただひたすらに都合の良い「情報」を、そのまま書き連らね、その「情報」によって読者を誘導し、自己の「ガセネタ」の正当化を図ろうとしたのである。

 しかもさらに被告・本多勝一は、浅海一男を、この論争の経過を我田引水型にまとめた共著『ペンの陰謀』(甲第44号証)に引き込み、「当の記者が証言しているのだから真実なのだ」という主旨の屁理屈をこねる材料に使っている。

 私に言わせれば、浅海一男は、当時もでっち上げ記事を書いておきながら、その記事のせいでオッチョコチョイの軍人が中国で処刑されそうになっているのに、「同記事に記載されてある事実は右の両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません」(甲第39号証)などという白々しい「証明書」の送付にしか協力しなかった人非人である。被告・本多勝一は、その人非人を白昼堂々、自分が犯した「ガセネタ」犯罪を覆い隠すための共犯者として引き入れているのである。

 この種の、被告・本多勝一やその2人の先輩のような、ただただひたすらに「情報」を書き写す「記者」のことを、業界では、「レポーター」(報告者)をもじって、「ポーター」(運び屋)と呼んで嘲る。しかも、その「運び」の目的が、「ガセネタ」報道の居直り作業ともなれば、これは「戦争犯罪人」の先輩記者たちに輪を掛けた「ワル」の所業と言うほかない。


その4:ガセネタの決定的証拠の間に進む