禁断の極秘文書・日本放送労働組合 放送系列
『原点からの告発 ~番組制作白書'66~』8

メルマガ Vol.8 (2008.02.20)

第2章 制作条件をめぐって

1 制作条件の悪さ

―― 予算というものはいくらあってもきりのないものだ。限りある財政のなかで全体をまかなうのだから一定の枠がでてくるのは仕方がないのではないか。

 予算はふやせばいいというものではない。簡素化することでかえってすっきりする番組だってある。

 要は工夫次第だ……

 〔ある団交メモから:協会側の発言〕

―― 『都民の時間』は、“(主として都内で)種々起った社会的な出来事のなかから、いちばん問題があり重要と思われるものをえらび、できるだけ早く、ナマの声を生かすために録音構成によって制作し、放送するものである”とある。つまり、ある出来事の単なる報道というのではなく、その出来事のもつ社会的な意味、その社会的なひろがり(社会性)をさぐって、聴視者に提示しようとするものである…と。そのための「録音構成」は非常な時間と手間がかかるものであることを忘れてはならない。

 また、“新しい話題をできるだけ早く”ということから、いわゆる「さしかえ」が尊ばれることになる。ちなみに、これまで「さしかえ」が月々どのくらい行われたかを記せば、4月には3本、5月2本、6月5本、7月4本、8月3本というような状態である。これでわかるように、6月、7月などは毎週1本は「さしかえ」があった勘定になり、労働条件はいきおいきつくならざるをえない。というのは、理想とされる「さしかえ」がスムーズに行われうる条件が現実にはないからである。「さしかえ」が行われれば行われるほど、そのしわよせが担当者たちの肩にかかってくるのである。いくら担当者が番組の中で「さまざまの事象の中から、できるだけ新しく身近な話題をえらび出し、その社会的なひろがりをさぐり、その矛盾や問題点を明らかにする」ことを意図したとしても、時間の面でも、人員の面でも、あるいは予算の面でも、それなりの条件が全くととのっていないからである。かくてたえず三六協定すれすれということになるのである。事実、基準外労働をしなければ放送は出ないのだ。

 さらにつけ加えるならば、テレビとはちがったラジオの“機動性”を現在の『都民の時間』は十分に生かしていないといえよう。人員の面でも、予算の面でも、多方面にわたる取材や、スピーディな取材が十分に行いえない状態にあるからである。

 こうした現実の条件の中から、「決められた時間と予算と人員なのだから、それに見合った番組を作ればいいのではないか」、「アナさえあけなければいいのではないか」といううしろ向きの考え方、いわば悪魔のささやきが担当者の頭をかすめるのである。現実にどのくらいかは測定しえないけれども、その質の低下は明らかに認められる。ここに、あまりにもきびしい現実の制作条件と、「こういう番組を作らなければならない」というジャーナリストとしての使命感との大きなギャップがあり、「3本に1本くらいいいものを出せばいいや」という自己欺瞞の言葉ではとうてい解決しえない大きな悩みがあるのである。

 一言でまとめるならば、担当者が希望する番組を作るだけの条件が現実には与えられていないということである。(報7)――

 「制作条件が悪い……」 こう訴えない報告はない。

 ではどう(太字は原文傍点)悪いのか。

 絶対的に悪い。これが現状である。放送制作ということの絶対条件をおびやかすほど、我々の放送制作者としてのレゾンデートルそのものが空洞化していくように悪い。「アナさえあかなければ…」、この“悪魔のささやき”が今や公然の声として発せられざるを得ない現状を全ての報告が雄弁に語っている。

―― 昨年度末、部予算の黒字化のため各番組に「番組の質を落としても止むを得ない」として予算の節減が要請されたことがあった。

 18万の予算を持つ番組を1万5千円程度で仕上げなくてはならないという言語に絶する非常識な事実などがあげられているが、番組担当者としては、このような事態が今年度末にもおこるのではないかという不安を持っている。(教4)――

 18万円のフィルム番組を“安ければ安いほどいい”ということでスタジオに籐製のスツール数個といった座談会にする…。これは某局長のいう“簡素化”でもなければ“工夫”でもない。「さまざまの職業、地域、環境のなかにあって、たくましく生きる人たちの生活と意見を紹介するフィルムドキュメンタリー」という番組の基本的な性格と、それにのっとっての日常の成果の積み上げ一切の無視である。視聴者に対する、商品への信用に対する一方的裏切りである。しかるにこの間、協会側からは帳簿上の赤字補填という管理技術上の苦衷が訴えられるのみで、番組の内容、質に関する責任についてはついに一言も聞かれなかったのである。

 これはもはや放送という文化の創造とは無縁の世界である。そこでは我々の考える放送制作というものの最低必要条件の放擲を迫られるのだ。

 つまり現在の制作条件の悪さは相対的なものではなく絶対的なものである。

―― 業務量に見合う配員という考え方を協会がとらない限り、このようなアンバランスは部内のどこかで常に生ずるものであり、制作条件は極度に低下し労働条件もギリギリの線まできり下げられる傾向がある。

 このような現状を固定した上で、EDPSに突入していったとすれば、そこには何の希望もない。ただ時間と労働量に追いまくられ神経だけはタカぶらせ、実質的に番組の内容を考えることのできないという放送番組制作とは何の縁もユカリもない状態となるであろうことは明白である。(教5)――

 報告にそって具体的に現状をみよう。