『最高裁長官殺人事件』

第四章 処刑のタイムカプセル

 異例の《いずも》緊急臨時会議は、まことに密やかなシャンシャン総会に終わった。

 特に、Xデイ《すばる》発動のクーデター計画に陰で関与していたらしいメンバーが、しきりと事務局に気をつかう有様は、むしろ気の毒なくらいだった。終了後、《お庭番》チームの皆は一様に〈静か過ぎて、かえって気味が悪い〉という感想をもらした。絹川特捜検事は〈影森参謀総長の政戦略的分析が見事的中しましたね〉という短い講評を皆の耳元にささやいては、独り悦に入る様子であった。ただし、お得意のポーカーフェイス。周囲には決して気づかれないようにである。

 別口のアングラ情報として、興亜協和塾の新理事会構想が伝えられた。下浜安司元首相らの政治家グループは理事会から退き、道場寺満州男事務局長のほかは、すべて財界主導の人事になったという。山城総研の瀬高専務は会計監査に就任していた。

《お庭番》チームは、新たな極秘任務として道場寺の時限爆弾の処理を抱えており、一部の関係者から密かな注目を浴びていた。周囲の権力の場のバランスの揺れは一同の皮膚にもピリピリと感じられるほどだった。

 

 翌朝、智樹と華枝を乗せたエアバスが、北京に向かって成田国際空港を飛び立った。

 窓越しに日本海が見え始めた頃には、華枝の頭は智樹の肩に寄りかかったまま静かに揺れていた。安心し切った寝姿であった。

「ト・モ・キ……。トモキと一緒なら、飛行機が落ちて死んでも、私、怖くないわ」

 離陸を前にベルトを締めながら、華枝は甘え声を出していた。

「ハハハハッ……。ハナエは良くても、僕はまだまだ死にたくないよ」

「まあっ、幻滅! 全然ロマンチックな返事じゃないわね」

「ハハハハッ……」智樹は笑いながら、華枝のインド旅行計画とは別のことに心を半分奪われている自分に気づき、軽い罪悪感を覚えた。

 エアバスの荷物置場には智樹の旅行カバンが納まっていた。外見上はなんの変哲もないカバンだが、中身は知るものぞ知る、驚くべき内容のタイムカプセル通信であった。戦後40数年間、軍用行李の中で眠っていた書類は、蒙疆カイライ政権の8年間を中心とするアヘン謀略の当局資料であった。しかもその貴重な歴史的証拠資料は、危うく、そのまま地下の隠し部屋に眠り続け、やがては腐り果ててしまうところだったのである。

〈何者かが弓畠耕一の葬儀の当日に公邸に忍び込むとか、葬儀の翌日に最高裁事務総長が不可解な態度を示すという異常事態さえ起きなかったら、未亡人広江の記憶が呼び覚まされることもなかったのでは……。いや、今度の事件全体が起きなかったら……〉

 無意識にそんなことをまた思い返していることに気づいて、智樹は苦笑した。

 タイムカプセルの中身は、すでに20部のゼロックス・コピーを取り、分散確保してある。確かに、智樹が運んでいるのは原本だから、証拠価値は特別に高い。だが、今は電子情報時代だ。裁判でもコピーの証拠能力が認められるようになっている。それに、飛行便の安全性も高いから、荷物だけ送っても良かったのだ。しかし、智樹は華枝を口説いた。出発を数時間早めて北京回りでインドに行くことにした。そうしないと落ち着いて旅に出る気にならなかったのである。

 北京空港では、千歳弥輔がエアバスの到着を待つ手はずになっていた。国際電話が盗聴される可能性も考えて、荷物のことはなにも話してない。ただ、大事な用があると告げただけだ。空港でインドへ向かう飛行機に乗り換える間の待ち時間は短かった。千歳と長話はできない。智樹は、荷物の中身の重要性をどう上手に説明しようかと考えながら、達哉と一緒に書類を整理したときに覚えた興奮を再び味わっていた。

 

「こいつは凄いぞ!」達哉が興奮を押さえ切れずに、しきりと大声をあげていた。

「生アヘン窃盗事件そのものの関係資料だけじゃないぞ。蒙疆アヘンの生産状況についても極秘資料がそろっている。これは本格的だよ。……ほら、これを見ろよ」

 コピーを確保しておいて、原本は北京の千歳弥輔に渡す。そのご、千歳たちが中国の各地で資料を発掘したということにして、逐次世間に発表してもらう。そういう方針を智樹と達哉の2人で決め、専門の出版社に頼んで全部ゼロックスし、マイクロフィルムを撮った。そのとき、達哉がこういい出したのである。

「おれ、コピーが終わるまで泊まり込むよ」

 2人の最初の相談では、コピーをする前に項目別に整理しておこうということだった。だが、関係者の供述調書などは中身を少しは見ないと分類できない。どうしても何ページかは読んでしまう。そして、新しい問題が見つかる度に、達哉が二言も三言も注釈を加えるのだ。

 智樹にも達哉の気持ちは良く分かった。智樹自身も興奮しているのだ。しかし、時間の問題がある。いずれすべてをゆっくり検討できるのだ、と自分にいい聞かせていた。最少限しか字面を読まないように努力する。だが、そういう作業だけでも、この資料の内容の豊富さは驚嘆すべきものだということが充分に分かってきた。

「影森」と達哉。「これはただの軍法会議用の押収物件だけじゃないな。極秘文書がたくさんあるし、参考人の供述も必要以上に積極的だよ。どういうことかな」

「うん」と智樹。「これは一種の反乱だね。そんな気配があるよ。おれの想像だが、満蒙でケシ栽培の強制や関東軍の横暴に日頃から不満を抱いていた日系官吏や下級軍人が、この生アヘン窃盗事件に吐け口を見出だして、進んで極秘資料を提供したんじゃないかな。まさにウミが一杯の傷口を針でつついたような状態だね」

「これだけの審理を準備したのは、北園留吉だな。本来なら、北園文書の名で公表したいところだよ」

「うん。多分、状況を察知した上層部がスキャンダル暴露を恐れて北園抹殺の陰謀に走った。弓畠耕一は陰謀に荷担し、親友を裏切った。しかし、この極秘資料を捨てずに日本まで持ち帰った。それはなぜか」

「きっと証拠湮滅まではできなかったんだよ。やはりどこかで司法官の誇りを捨て切れなかったんじゃないかな」

「いや、もしかすると」智樹は謎めかす。「これが弓畠耕一の仲間に対する時限爆弾だったのかもしれないぞ」

「なにッ、……時限爆弾!」

「うん。時限爆弾でもあり、弓畠耕一自身にとっては、時間の流れを停止させるタイムカプセルでもあった……」

「タイムカプセルだって。おい、まだなにか隠しているのか。……タイムカプセル……あっ、もしかして、あれか」

「そうなんだ。弓畠耕一自身の言葉だよ」

 智樹は達哉に、広江がふくさで包んで寄越した書類のコピーを渡した。このコピーは3部しか作らなかった。すでに広江も内容を知っているわけだが、そのほかは智樹と達哉、そして千歳だけの胸に納めておき、しばらくは世間の様子を見ることにしたのだ。

 油紙にしっかりと包まれていた書類の表紙には、筆字でただ《審判書》とだけ書かれていた。末尾には〈審判長 陸軍法務中尉 弓畠耕一〉の署名捺印があった。

 弓畠耕一は自分自身に対して、死刑が相当であるという判決を下していた。内容は、北園に対しての虚偽の理由による判決と処刑命令の不当さに限られ、個人的な関係は省かれていた。北園を告発した憲兵隊についても、個人名は記されていなかった。しかし、北園の罪名がでっち上げであることは、明確に証拠をあげて指摘されていた。

「そうか」達哉は深い溜息をもらした。「あのアムネスティ・インタナショナルの質問に対する回答の真意は、これだったんだな。〈死刑判決は、いつ開くか分からないタイムカプセル。死刑囚にとって、この世は煉獄。執行が延期されていても、すでに罪は定められ、罪人は充分に罰せられている〉……あれは自分自身に対する審判のことだったんだ」

「戦後の40数年は、弓畠耕一にとって煉獄だった。しかし、弓畠耕一はその煉獄でも、さらに罪を重ねた。最早、地獄に堕ちるしかないんだよ。あの自殺は自分自身の手による処刑のつもりだろうが、問題はその瞬間に、地獄堕ちの自覚があったかどうかだ」

「それが問題か。どんな立派に見えた人間でも、自分のことになると突然、弁解だらけで、理性的な判断ができなくなるというけれど……」

「自殺を選んだことと、これだけの資料を世に残しただけでも、一応の評価をすべきだろうかな」

 

 エアバスは一路、黄海を北上していた。右手には朝鮮半島がかすんで見えた。行く手に遼東半島、渤海、そして北京、張家口。それぞれに想い出があった。敗戦、引き揚げ、智樹の少年期も傷だらけだった。

 智樹は華枝の寝顔に語りかけた。〈インドでまた煉獄の話をしようね〉

 

(最高裁長官殺人事件・終)