『最高裁長官殺人事件』

第四章 処刑のタイムカプセル

「そうだ。おい」智樹は胸のポケットから封筒を取り出した。「おれに万一のことがあったら、これを頼む」

「なんだ、これは」

「銀行の貸し金庫の鍵と委任状だ。極秘資料、フロッピ、テープ。お前が知らない事件もたくさんある。全部公開しても構わん。やり方はお前にまかせる」智樹は低くうなった。「あの角村の息子の交信記録テープもある。……角村1等空尉。岩松。ジェット機がエアバスに空中衝突して乗客百数十名即死。編隊指揮官が事件調査中に自殺したとされている」

「やはり、なにかあったんだな」達哉も、うめくようにつぶやいた。

「そうだ。おれは当時、本庁の防衛局調査課にいた。おれの陰の仕事の中でも、あの事故の原因のもみ消し作業が一番犯罪的だったよ。……岩松の基地に急行すると、空幕の調査官が待ち構えていた。青い顔で小刻みに身体を震わせている。テープを渡された。自衛隊機にはヴォイス・コードなんてものはついてない。だが、管制に当たる基地では編隊の交信を録音しているんだ。基地からの指示もはいっている。……当然だよ。1機が何十億円もする最新式のジェット機を飛ばしてるんだよ。交信の録音なんて、一番お安い御用さ。あとで訓練の参考にもなる。事故の原因糾明にも役立つ。おれたちは当然の常識的な作業だと思っていたから、事件の捜査で交信記録テープが追及されるに違いないと信じた。だが、テープがそのまま公表されたら、一大スキャンダルに発展しただろう。だからおれたちは、ただちに1部を削った。うまくできたよ。それをまた、つなぎ目のないテープにダビングして、ヒヤヒヤしながら提出命令を待った」

「おれもあの事件には関心があったが、交信記録テープの話は読んだこともなかったし、思いつきもしなかった。ヴォイス・コードが義務づけされているのは民間の大型輸送機だけだというのが頭にあったんだね」

「うん」智樹は暗い目で静かに微笑む。「お前も1人合点の思い込みで、自分勝手にだまされていた口だな。……騒ぎといっても実際には、国会で野党の議員が質問するだけだからね。警察の捜査は防衛庁の警察OBとの談合みたいなものさ。防衛庁側の説明だけでパス。野党側は交信記録が録音されていることに気づかなかった。基地の管制室をのぞけば、素人でも一目で分かることだったんだがね。おれたちは気が抜けて、かえってガックリしたよ」

「削った部分ってのは」

「問題点そのものは国会でも追及されている。自衛隊機は民間機を標的にして訓練しているのではないか、という疑惑だ」

「やはり、あれか」

「そうだ。事件当時までの実例を集めただけでも有力な疑いがあった。防衛庁長官は責任を負って辞任したが、あれは、その点での国会の追及を逃れるためだ。標的訓練は当時でも、運輸省の航空局や民間を含めた航空業界の常識だったんだよ。空だけじゃない。海でもそうだ。訓練のために標的用の飛行機や船を動かしたら、それだけ費用がかさむからね。日本だけじゃない。どこの国の軍隊でも同じことをやっている。ただ、あまり露骨にやらないように気をつけているだけだ。事故を起こさず。証拠を残さず、だな」

「テープははっきりした証拠になるものだったのか」

「そのものズバリだ。英語と略語が多いけど、誰か専門家が解説すれば、かえってリアルに感じられただろう。普通の言葉に直すとね、……レーダー基地がまず〈エアバス接近。高度5000フィート〉と知らせる。すると編隊指揮官が〈こちら1号機。3号機、聞こえるか〉……〈はい。3号機〉……〈目標は左後方、高度5000フィートのエアバス。スクランブル急上昇。追尾し撃墜位置に捕捉せよ〉……〈了解。3号機、エアバスを追尾します〉……これが事故寸前の交信だ。最初は〈後方〉からくるエアバス頭上を飛ぶのを目視しながら上昇して追いつき、〈前方〉の攻撃目標として捕捉する。スクランブルの基礎訓練だ。指揮官の命令だというのがはっきりしている。これがそのままテレヴィやラディオで放送されたら、長官のクビだけでは済まなかった。自衛隊全体の命取りだったよ」

「貸し金庫のテープは削除前の本物か」

「本物のコピーだ。本物は消されたはずだ。本物を聞いたのは、おれのほかに何人もいない。防衛局長はおれに本物をすぐ消せと圧力をかけてきた。しかし、おれにはその前に、内部で始末をつけたいことがあった。この際、空幕に申し入れて民間機を標的にする訓練を根絶しようと思っていた。同じ訓練はソ連機を相手にすれば充分できるんだ。しょっちゅう侵入してくるんだからね。空幕との議論のときの切札として、テープが必要だった。ところが、なぜか、その極秘の話が角村の息子の耳にはいったんだ。情報ルートの証拠はない。だがおれは、元陸将で陸上幕僚長だった父親が介在していると直感した。今でもそう思っている。ともかく息子の角村1等空尉はおれの官舎に押しかけてきた。目が吊り上がっていて錯乱状態が明らかだった。ちょうど子供は2人とも、いとこの誕生日パーティーに出かけて留守だった。昭代とおれだけで夕食を始めようとして、ビールの栓を抜いたばかりだった。おれは角村に〈まあ、座れよ〉といってコップを差し出した。ところが角村はかえって逆上した。〈ふざけるな。おれを破滅させる気か。テープを寄越せ〉とわめいてピストルを取り出した。銃口を昭代の頭に押しつけた。昭代はガタガタ震えて悲鳴を上げた。角村は〈声を出すな〉といって、昭代の頭をこずいた。おれは仕方なしに本棚の引き出しからテープがはいった茶封筒を取り出した。左手で封筒を持って角村に示した。だが悪いことに同じ引き出しには、おれのピストルもはいっていた。まったく無意識だった。頭の中は空白だった。右手がサッと動いてピストルを握る。角村を胸のあたりを狙って撃つ。そのとき、ほとんど同時に角村のピストルは昭代の頭を撃ち抜いていた」

「そうか」達哉の喉には重い塊が詰まっていたが、なにかしゃべり続けていないと落ち着かない感じで、無理に言葉を押し出した。「日頃の訓練がとっさの場面で出てくるんだな。……で、事故として処理したのは、防衛庁の指示か」

「うん。おれはまず本物のテープのコピーを隠した。まさかのときを考えて準備しておいたんだ。それから調査部長に電話をして来てもらった。部長には本物のテープを渡した。医者が来て、おれに沈静剤を注射した。おれは抵抗しなかった。そのまま眠らされた。その間に、昭代はうちの車に乗せられて、崖から落とされたんだ。車は炎上した。警察とは調査部が話を付けたのだろう。新聞に小さな記事が載っただけで、1件落着だ。それきり誰も騒がなかった」

「そうか。でも、おれはきっとなにかあると感じていたよ」

「そうだろうな。お前はあの頃、そんな目つきでおれを見ていたよ。ハハハハッ……」智樹の笑い声は乾いていた。「ただ、当事者の気持ちの中では事件が続いている。角村の親爺にとっては、おれが息子の仇として残っている。おれの方は、昭代を撃った角村の息子をその場で射ち殺している。しかし、角村の親爺が余計な情報を息子に流したのが原因だと考えているから、やはりあの角村丙助はおれにとって昭代の仇の片割れだ。つまりね、これから興亜協和塾で出会う角村とおれとは、いわば10年越しの仇同士なんだよ。ハハハハッ……」智樹は再び乾いた声で笑った。「今日はお前をすっかり従軍僧にしてしまったようだな。人間やはり、命がかかった勝負の前には、洗いざらいザンゲをしたくなるのかもしれないよ」

 ヒミコの画面の道路地図で確認しながら、興亜協和塾を左に見て走り過ぎると、3階建てのビルの裏側の塀に沿って細い横道があった。次の角を左に折れて車を止める。

「小山田さん」智樹はスクランブル無線で小山田警視を呼び出す。「こちら影森。塾に到着。聞こえますか。どうぞ」

「はい。こちら小山田。あと10分ぐらいで着きます。どうぞ」

「先に突入して、華枝を救出します。以上」智樹は返事を待たずにスイッチを素早く切った。

「風見。おれが車を出たら、このスイッチをまた入れて、連絡係りをやってくれ。華枝にも、直ぐ行くと伝えてくれ」

「分かった。気をつけてな」

「うん。死に際のザンゲはしたけど、決して無駄に死ぬつもりはない」智樹はダッシュボードを開けた。消音装置つきの自動拳銃を左胸のケースに収める。手榴弾がギッシリ詰まったベルトを腰に締める。「殺されるのもごめんだが、殺すのも嫌いだ。自動拳銃の弾は麻酔弾。手榴弾からは催涙ガスと煙幕が吹き出る。どちらも毒性はない」水泳用のゴーグルをはめてニヤリと笑う。「これだけで勝負をつけてくるよ」ゴーグルをはずして額に上げる。ヘルメットをかぶり、顎ひもを締める。手袋をはめる。肩には引っかけ爪がついた縄梯子を担ぐ。ジャングル・シューズの横にはナイフも仕込んである。「レンジャー訓練もしたし、ジャングル・ナイフの使い方も一応は習ってるんだよ。道場寺満州男とまともに当たれば負けるかもしれないが、そこは頭の使い方でカバーするさ。ハハハハッ……」

 智樹が車を出ると、達哉はまず華枝に文字通信を送った。

「こちら風見。今、影森が塾にはいる。催涙ガスと煙幕が流れ込むかもしれないが、心配はいらない。警察も直ぐに着く。どうぞ」

〈了解。でも、風見さん、いつから一緒だったの。どうぞ〉

「最初からでした。済みません。詳しい事情はあとで。以上」

 無線のスイッチを入れるといきなり、

〈影森さん。影森さん。応答願います〉田浦の金切り声がはいってきた。

 達哉はちょっと間をおき、努めて落ち着いた声を出した。

「ええ……こちら影森の車。風見です。影森は塾に向かいました。どうぞ」

〈こちら小山田。仕方ありませんね。無事を祈るだけです〉

 無線のスイッチを切ったあと、達哉は電話の拡声ボタンを押した。グッド・アイデアがひらめいたのである。たたいた番号は119。

「はい。こちら消防署です」

「火事です。興亜協和塾から煙が吹き出しています。すぐ来てください」

「はい。了解。興亜協和塾ですね。ただちに出動します。以上」

 

 智樹はまず塾の正面まで走ってもどった。

 大声で呼ぶと、鉄門の内側の小屋から自衛隊の戦闘服に似た制服の見張りが出てきた。素早く自動拳銃を抜き出して、麻酔弾を射ち込む。ブスッ、と消音銃の鈍い音。見張りは驚き顔でパッタリ倒れる。智樹は、その間に手榴弾の安全ピンをはずし、見張り小屋の窓を目がけて投げる。ガチャンとガラスが割れ、煙がモクモク吹き出る。

 智樹は再び道を引き返し、塾の裏の塀沿いに左に回った。

 ビルの背後に当たる位置だ。表の方からは、何人かの騒ぐ声が聞こえてきた。縄梯子を放り上げた。爪がしっかり引っかかるのを確かめて、一気に昇る。塀の中をのぞくと、誰の姿も見えない。正面の騒ぎに気を取られているのだろう。陽動作戦は成功だ。縄梯子を先に投げ下ろしてから、内側に飛び降りる。背中を丸めてビルの窓の下に走り寄る。図面どおりに、ビルの裏側は廊下になっている。右手外側に3階までの非常階段と非常出口がついている。

 ビルの1階の廊下に、左、真ん中、右、と3ヵ所、ガラス窓を破って手榴弾を投げ込む。 モクモクと煙が上がる。いったんビルを離れて、2階の窓の同じ位置に投げ込む。煙が上がる。ゴーグルをはめて、非常階段を昇る。2階のドアのノブを握って回わすが、開かない。全体が鉄製のドアである。揺すっても無駄だ。隣のガラス窓が手榴弾で破れている。非常階段の手摺りにぶら下がって、靴底でガラスの破片を片づける。男が1人、煙にむせながら顔を出し、智樹の足をつかまえようとする。その手をけとばし、いったん非常階段にもどってから麻酔弾を射ち込む。

 窓からはいって、倒れた男のズボンのポケットを探ると、白いプラスチックの札つきのカギがあった。札には黒字で209号と刻んである。煙の流れを潜り、すぐそばの209号室のドアを軽くノックする。

「こちらヴァルナ。無事かい」

「はい。こちらミトゥナ。大丈夫よ。ちょっと泣いてるけど、それは煙いからよ」

「今開けるよ」智樹はカギを開ける。

「ト・モ・キ」華枝が両腕を広げて飛びついてくる。両目は涙でクシャクシャ。「ありがとう。怖かったわ」

 智樹は華枝をしっかり抱き締めた。だが、それも一瞬。

「華枝。部屋の中は安全だ。待っててくれ」

「いや! もう、1人にしないで」華枝は智樹の左胸の拳銃に触る。「危ないことはしないで。人を殺すのも嫌よ」

「大丈夫だよ。この拳銃の弾は麻酔弾だ。当たっても死なない。僕はこのとおり。ヘルメットに防弾チョッキ。ゴーグルまでしている」

「ウフフフッ……。おかしな格好」

 そのとき、サイレンの音が近づいてきた。

「来たか」智樹は窓からのぞく。

 小山田警視らのパトカーが到着したと思ったのだが、消防車であった。ウー、ウーというサイレンの音に。カーン、カーンの鐘の音も加わっていた。

「早く門を開けてください!」スピーカーで叫ぶ声が聞こえる。中庭には戦闘服姿と黒のダブルと、5,6人が右往左往している。

「火事ではない。帰ってくれ」などと大声を上げている。混乱の極みである。そこへ、

「バン! バン!」2発の銃声が響いた。智樹の足下から聞こえてきたようだった。1階の図面を思い浮かべる。真下は塾長の部屋だ。智樹はもう1度、華枝を抱いて耳元に、

「華枝。もう直ぐだ。ここで待っててくれ」

「うん」今度は華枝もあきらめ顔だった。

 智樹は自動拳銃を右手に構えて、1階の塾長室に急いだ。階段を降り切ったとき、1階の正面入口から黒ダブルの男が2人続いて駆け込んできた。2人とも拳銃を振りかざしている。階段の手摺に身を隠して、麻酔弾を射ち込む。1発。2発。両方とも命中した。2人がドサ、ドサ、と倒れるのを見向きもせずに走り、塾長室のドアを開ける。