『煉獄のパスワード』(5-4)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第五章 アヘン窟の末裔 4

「異議ではないんですが」と絹川が口をはさんだ。

「その前にこの際、今回の長官失踪以来の事件の流れについてもですね、あくまで仮説的ですが、一応整理して置いた方が、お互い気が落着きませんか」

「それもありますね」と智樹もうなずいて賛意を示した。

「私もそれは気になっていました。まだ細かい点で伺っていないこともありますから」

「そうですわね」と冴子。「まだ鑑識の結果なども詳しくうかがっていませんでしたね。それでは、直接捜査に当たった小山田さんから細かい話だけでなく、お考えも含めてお願いしましょうか」

「はい、それでは」と応じたものの、小山田はいささか気が重そうである。ニヤリと笑ってみせるが、いつになく、いかにもわざとらしい。まだ無理をしている感じだった。

「ただし、警察官は往々にして真犯人検挙を急ぎ過ぎます。見込み捜査で無理やり証拠をこじつけたり、冤罪事件を起こすこともありますから、皆さんで充分にチェックして下さい」

「いやいや、小山田さんとしたことが、ご冗談を」と絹川は腑に落ちぬ顔。

「誠に謙虚なことですが、小山田さんに限って、誰もそんな心配はしませんよ」

「ええと、それでは、なにから始めましょうか」

 小山田は一同の顔を見渡し、二、三度、独りでうなずいてから始める。

「まず、死者が二名ですね。解剖所見はまだ報告してませんでしたが、西谷禄朗は他殺に間違いありません。

 西谷の死因は窒息だけです。手で絞めた跡が明瞭に残っていますから、原因は扼殺と断定して良いでしょう。

 弓畠耕一の死亡時刻は大体、西谷より二日後。他殺か自殺かは決定し切れません。死因は手首の切り傷からの大量出血だけでした。手首を切ること自体はよくある自殺のパターンですが、自殺を偽装した他殺の線もあります。現場に残されていた刃物は、そこらのスーパーでも売っているドイツ製の安全カミソリの刃だけを外したもので、付着していた指紋は弓畠耕一のものだけでした。しかし、死体の指紋をくっつけて自殺に見せ掛けるのは、当節、子供でも知っているトリックの一つです。

 他殺と仮定した場合、肺に水が入っていなかったので、浴槽に押しこんで溺死させてから手首を切ったのではない。薬は何も発見されませんでした。だから、睡眠薬などで眠らせてから浴槽に漬けて手首を切って自殺を偽装したという線もない。しかしまだ、他殺でないとは断定できません。残る線として、浴槽に押しこんで手首を切り、顔を水に漬けることなく、出血で弓畠耕一が失神するまで押え付けていたとも考えられます。浴槽の外には全く血の痕跡は残っていませんでした。ですから、暴れて血が飛び散ることのないように、しっかり押え付けていたことになりますが、その可能性はなきにしもあらずなんです。額に軽い引掻き傷がある以外にも、争った形跡が全身に何箇所か残っています。

 弓畠耕一は七十歳ですが非常に頑健で、日頃も毎日木刀の素振りを欠かさなかったそうです。殺されると思えば、かなり抵抗をした筈です。私らの実際の逮捕の経験でも、絶望的に暴れる犯人を押え付けるのには、こちらが一人や二人では大変でしてね。逮捕術を身に付けていても難しい仕事なんです。素早く手錠を掛けて手の動きを封じてしまえば楽なんですがね。……だから、素人が二、三人掛かったとしても、浴槽に押え込んで殺すまでには、打撲傷、打ち身の内出血、擦過傷、ガイシャが全身傷だらけになっていても不思議ではありません」

「つまり他殺の可能性を否定し切れずですか」と絹川。「しかし、西谷禄朗と弓畠耕一とが同じ犯人もしくは犯人グループに殺されたと考えると、おかしくはありませんか。解剖所見では西谷禄朗の方が二日前ぐらいに死んでいるわけでしょ。犯人らがすでに一人殺しているとすれば、もう一人殺すのにそんなに手のこんだ自殺の偽装をする必要があるでしょうか」

「犯人が別だということは考えにくいですね」と智樹。「偶然にしては時間的に接近し過ぎていますから」

「自殺の可能性も充分あるわけでしょ」と冴子。「全身の傷はそれ以前に付いていたものかもしれませんし」

「別の事件だという可能性も一応考えました」と小山田。「しかし、弓畠耕一は少なくとも最初は電話で呼び出されて、任意に犯人らに接触していると考えられます。北園和久の持ち家で死体が発見されていますから、電話の声の主は妻の北園亜登美の可能性が一番高いでしょう。犯人は誰かということになると、北園和久は無関係ではありえないでしょう。ところが、北園和久と弓畠耕一とは直接の血縁関係ではありません。北園和久の異父弟であり、弓畠耕一の血を引いた西谷禄朗が介在して初めて、つながりが生ずるわけです。弓畠耕一を呼び寄せることが出来たのは、禄朗に関係がある話をしたからでしょう。禄朗の存在は大きいんですよ。父親の北園留吉の名前を出すことも考えられますが、それではかえって警戒されてしまったでしょう。むしろ、北園という名前は隠したんじゃないでしょうか」

「では誰が西谷禄朗を殺したか」と絹川。「北園和久が異父弟の西谷禄朗を殺したとすると、動機は何でしょうか」

「やはり弓畠耕一との距離の違いを考えます」と小山田。「北園和久が千歳弥輔から話を聞いて、父親の最後に関して弓畠耕一が果たした役割に疑惑を覚えたとする。この仮定に立つと、北園和久にとって弓畠耕一は父親の仇です。ところが西谷禄朗にとっては、弓畠耕一は血のつながる父親です。息子が父親の味方をして助け出そうとする。そこで、母親を同じくする北園和久と西谷禄朗が相争う悲劇に、というのはどうでしょうか」

「うん、うん。しかし、まだ決め手に欠けますね」と絹川。「決め手なしに可能性を考えると限りがない。容疑者を逮捕して供述を取る。裏付けの物的証拠を捜す。この種の事件は、そうでもしないと解決しませんね」

「まだ重要な関係者が残っていますね」と冴子。「千歳弥輔さんの役割は一体何だったんでしょうか。ハルビンの西谷奈美と禄朗を日本にいた北園和久と結び付けたのは、千歳弥輔でしょ。それに、本来なら身元の判明している禄朗には調査団への参加資格がないのに、なぜ参加できたか。これも千歳弥輔の存在なしには説明できないと思います。この事件につながるなんらかの意図と持っていたと考えるべきでしょう。最初の生アヘン事件とも関係があるし、意外に、事件の鍵を握る人物なのではないでしょうか。もしかすると、まだまだ深い背後関係があるのかも……」

「うふんっ、ええっ」

 突然、智樹が咳払い混じりの大声を出したので、一同ハッとして注目した。

「そのことなんですがね。実は私が直接、千歳弥輔さんに会見を申入れてみようかと考えているんですが……」

「影森さんが直接……」と冴子が怪訝な顔。「というと、なにか心当りでも……」

「はい。それが、……私事にわたるもので今まで黙っていたんですが、私の父親の名前を出せば千歳弥輔さんから、なんらかの反応があるのではないかと……」

「えっ……」と一同口をアングリ。

「私の父親は千歳さんたちと一緒に蒙疆政権の首都に当る張家口にいたんです。この前、弓畠耕一の軍歴調査の報告をしましたが、その調査の時、ついでに確めてきました。法務将校の弓畠耕一と北園留吉、上等兵の千歳弥輔、皆同じく張家口の蒙疆駐屯軍司令部の所属ですが、その張家口の守備連隊の隊長が私の父親だったのです」

「それはまた奇縁ですね」と絹川。「影森さんがいやに蒙疆のことに詳しいなと思ってはいましたが、それが主な要因ではないですか」

「そうです」と智樹。「私も家族として、一緒に張家口にいたわけですから、やはり興味がありまして、……」

「分りました。早速、私が千歳さんと連絡を付けます。お父上のお名前と当時の階級を教えて下さい」 と冴子がメモ用紙を取出す。

「お願いします」と智樹。「影森繁樹。繁茂のハンに樹木のジュ。当時は大佐です。その後にポツダム宣言受託で退職前の名誉昇進、いわゆるポツダム小将になりましたが、千歳さんには守備隊長の影森大佐の方が思い出しやすいでしょう」

「それでは」と冴子。「最近の死亡事件二件の細かい経過については一応ここまでにして、新しい材料が出るのを待つことにしましょう。もうひとつ、この二件とアヘン問題とがどう絡むかという疑問も残っていますね。そこで角度を変えて、先程の影森さんのご提案に戻りましょう。アヘンに絡むハイレベルの危険な物語を検討してみたいと思います。今までにも何度か話題には上っていますが、影森さん、荒筋を整理していただけますか」

「はい。では、……

 まず第一の事件。張家口に滞っていた大量の蒙疆産生アヘンが関東軍の一部グループによって盗みだされた。事件の審理を担当した北園法務官が千歳弥輔の戦時逃亡と窃盗を助けたとして解任され、処刑された。その間に北園夫人だった西谷奈美と弓畠耕一の男女関係が生ずる。生アヘン盗難事件の担当法務官は弓畠耕一に代わり、うやむや終結となる。……

 続いて第二の事件。敗戦直後、当時の満州国首都新京にあった生アヘンが日本に運ばれた。生アヘン八万トンを乗せた船は和歌山近辺の海上で米軍に拿捕された。生アヘンはGHQ本部にトラックで輸送中に行方不明。関係者は全員有罪。特に満州からの同行者は三年の禁固刑。……

 第三は、第二の事件の判決文のマイクロフィッシュを最高裁の図書館で閲覧請求していた海老根高裁判事が、最高裁で墜落死した事件です。ところが当のコピーは全て貸し出し中だった。最高裁図書館のコピーは弓畠長官、検察庁のコピーは清倉幹事長、日弁連のコピーは陣谷弁護士、……」

「判決文に名前が出ていたのは、弓畠判事と清倉検事だけですが」

 と絹川が注釈を加える。

「そうですね」と智樹。「ともかく誰かが、判決文を見られるのを恐れて隠しているのではないか。そしてさらに、この事件の裏話を描いた雑誌『真相追及』の記事のページだけが図書館で切り取られていた。その記事には現在の大物政治家、江口克巳、下浜安司の名が出ていた。……

 さて、そこで、絹川さんに陣谷弁護士から〈慎重に〉の要請があり、ハイレベルの動きが見え始めました。陣谷弁護士はさらに秩父審議官に対してもビデオ・テープの重要性を強調した。……

 これらの事件のつながり方ですが、まず、第一事件で盗まれた蒙疆の生アヘンが、第二事件で奉天から日本に運ばれた生アヘンと同一のものではないか、という疑いがあります。関係者もほぼ同一なのではないでしょうか。この可能性は高いんです。というのは、もともと満州国ではアヘンの生産量より消費量の方が高かったんです。戦争末期には不足分を蒙疆からの配給に頼っていたわけですから、これだけの大量の備蓄は満州国内では困難です。私は第一事件と第二事件に直接のつながりがあると考えます」

「そして、第二事件の判決文が第三事件の原因になっている」と絹川特捜検事が身を乗り出す。「そうすると、影森さん、第一、第二、第三と、これらの全ての事件が見事につながっていて、そのどれにも弓畠耕一が関係しているということになりますね」

「そうです。しかも、今はまだはっきり目に見えないハイレベルのグループが関係しているに違いありません。第一と第二事件の関東軍関係者、第二事件の満州国、厚生省衛生局、特務機関やGHQなどの関係者。……

 すでに名前が出ているのは、元毎朝新聞記者の江口克巳現通産大臣、元厚生省衛生局かつ元内務官僚の下浜安司前首相、元検事総長の清倉誠吾現憲政党幹事長。ええと、……清倉誠吾の軍歴も調べました。関東軍司令部の法務官で弓畠耕一と同期、同じくポツダム大尉でした。いやいや、そうそうたるメンバーですね。

 他にもまだ名前が出てこない関係者がいるのではないでしょうか。元検事総局次長の陣谷弁護士も事件当時の記録には名前が出ていませんね。陣谷弁護士は、このグループの単なる代理人でしょうか、それとも現在では陰の中心人物になっているんでしょうか」

「陣谷さんが関係してくるのは第二事件の処理あたりからでしょうね」と絹川。「彼は隠退蔵事件捜査部にいた頃、GHQとの付合いが深かった。日本の法律家にしては珍しく英語ができたんだ」

「おや」と智樹が驚く。「法律家はエリートの最たるものと思っていましたが、横文字は駄目ですか」

「そうなんです」と冴子。「意外に皆さんお気付きでないんですけど、簡単な話なんですよ。今も司法試験には外国語がないんです。だから司法試験合格者のほとんどは、大学入試の英語まででストップ。法律というものは近代科学と違って、各国別の国内法として発達していますからね、国際的な比較は実務上必要ないんです。外事弁護士というのは全く別の勉強をするんです。私なんかも法務省にいながら、今では省令と行政指導の通達だけで頭が一杯ですよ。それだけでも日常の仕事に不便はありませんしね」

「そりゃ怖い」と智樹。「そういう旧式な頭で近代的な法治国家を運営されては困りますね。私らの野蛮な戦争商売の方が国際的ですよ。世界中の兵器を知っていないと仕事にはなりませんからね。今の情報商売の世界もそうですが」

「いやいや。法律家の世界は古めかしいんですよ」と絹川。「法律を伝説上の後ろに飛ぶ鳥にたとえた皮肉屋もいるくらいでしてね。法律は本来、統治の制度ですから、隙間さえあれば封建的支配に後戻りしようとするもんです。特に日本の司法制度は遅れているから、外国の法律や裁判制度に関する知識は全て業界タブー。下手すれば危険思想扱いです。

いやはや、話がそれましたが、司法関係だけのことじゃないでしょ。戦後は元イギリス大使の吉田首相に始まって、〈通弁まがい〉といわれた人があらゆる分野で三段跳びの出世をしたものですよ。なんといっても占領下のことですからね」

「大阪で弓畠耕一を訪ねたという白人はCIAでしょうか」と小山田が話を戻す。

「CIAの正規の要員か下請けのエイジェントか。果してアメリカ人かどうか。どれも断定できませんね」と智樹。「CIAでも特別の極秘プロジェクトになっていたのかもしれませんし、いわゆる不良外人の関係かもしれません。今となっては追跡不可能じゃないでしょうか」

「これ以上詳しい分析は現在では無理でしょうね」と冴子がまとめに入った。「それより、明日の弓畠長官の告別式には皆さんお出になるんでしょ。そこで少し目を光らせていただけませんこと。……意外な人脈が見えてくるかもしれませんわよ」


(5-5) 第五章 アヘン窟の末裔 5