『煉獄のパスワード』(2-4)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第二章 花崗岩の砦 4

「またこちらに舞い戻ってきたんですか」

 大男の深田泰治が、嬉しそうに鼻にしわを寄せて、達哉を迎えた。

「いや、先刻はどうも有難う。あの弁護士さん、なかなか面白いよ。それでね、向こうが聞かないもんだから、だれの紹介できたともいわなかったんだ。そうしたら最後に、あんた方のことを教えてくれたよ。ハッハッハッ……」、

「ハハハッ……」

「それでまた黙って戻ってきたんだ。今度は、あんた方に先に会ったとはいい出しにくくなってね」

「ハハハハッ……。お互いにどこか一本抜けてるんですね。ろくに身元を確めないなんて。鶴田弁護士は、いつも挨拶抜きでいきなり本題に入る癖があるんですよ。余程せっかちなんでしょうね。それで、……なんでまた戻ってきたんですか」

 深田はマンモス企業のNTKから解雇され、復職を求めて闘っていた。

 NTKの労組は典型的な企業別型の御用組合で、深田の解雇理由も振っていた。深田は有志とともに、会社の門前で組合員に闘争を呼掛けるビラをまいて、組合から統制違反の除名処分を受けた。ついで組合が、ユニオンショップ協定を盾に取り、組合員ではなくなった深田の解雇を会社に要求したというのである。当然、組合からは、支援されるどころか闘争を妨害されながら、十五年にも及ぶ闘いを続けていた。組合が支援をしないから、ナショナルセンターの総連合も支援をしない。反主流運動もいいところである。そこで足場を東京地区争議団連絡会議、略称〈東京争議連〉にもとめ、今では副議長となり、法対部を担当していた。

「組合の支援がないのは苦しいでしょうね」

 と達哉が聞くと、深田は苦笑しながらも明るく大声で、聞こえよがしに応じた。

「経済的には大変ですが、ダラ幹に頭を下げる必要がありませんからね、精神衛生上は最高ですよ。ハハハハッ……。どん底まで落ちると文字通りの〈底抜け〉で、かえって気楽なんですよ。ハハハハッ……」

 最後は本当に愉快そうに笑った。本人の言う通りに、〈底抜け〉の明るさがあった。

 東京争議連が事務局を置いているのは、日々新聞社のあるエンペラーパレスビルの二階、ダイジェスト・マガジン労組の事務所の一角である。労組の事務所とはいっても、ここは特別であった。広さも二百坪はある。窓の外は道路一本隔てて江戸城の内堀である。隣接フロアの日々新聞関連会社などと似た雰囲気で、看板さえ目に入らなければ、商社と間違える人がいても不思議ではない。

『ダイジェスト・マガジン』誌といえば、敗戦後の日本に進出して日本版を発行し、派手な宣伝と大規模なダイレクトメール方式で一時代を画したものである。

 だが戦後も四十年を過ぎ、アメリカ本社は、若干の業績不振を理由として日本支社の解散に踏み切った。

 ただし経営自体は決して赤字ではなかった。戦後のどさくさにタダ同然で手に入れたエンペラーパレスビルの敷地は、時価一千億円に相当していた。しかも解散騒ぎの最中に、この土地をわずか百二十億円で、大同銀行系列のビル会社に売り渡していることが分った。当然、裏の裏が考えられる。労組側は、〈非民主的な経営者〉による〈組合潰しの不当労働行為〉であり、〈資産持逃げの偽装閉鎖〉だとして、職場全体を占拠するステイ・インの争議に入った。企業再建を要求し、裁判にも訴えている。その過程で、すったもんだの挙句、労使とビル会社の暫定協定ができて、かってのフロアの四分の一程を労組が仮に確保することになった。

 東京争議連には、大小とりまぜて百数十の争議団体が加盟していた。

 労組として闘っている争議あれば、労組がなかったり労組の支援を得られずに、職場や近隣の有志による〈守る会〉などを結成して闘っている争議もあった。事務局は倒産企業の争議現場に置かれるのが慣例になっている。深田にいわせると〈いまの事務所が三十有余年の歴史上で最良の条件〉だという。ダイジェスト・マガジン労組は、事務所確保もさることながら、上部団体の支援決定を得ている。最大の人員を擁する中心争議でもあり、東京争議連の議長を出していた。

 達哉は、マスコミ文化情報労組連合会の役員をしている日々新聞の友人から紹介を受けて、ここを訪れたのである。マスコミ文化情報労組連合会は、この世界では〈争議御三家〉といいならわされる程、争議が多発していた。ダイジェスト・マガジン労組が上部団体である出版印刷労連も、その加盟組織であった。出迎えた委員長兼東京争議連議長の高野潔は、二言か三言、話を聞くや否や、隣に座っていた深田に声を掛けた。

「この人は、東京争議連の〈生き字引〉とも〈生き地獄〉といわれている深田さんです。何でもこの人に聞いて下さい」というのが紹介の文句だった。

 深田の机の正面の壁には、文庫本の二、三ぺージの拡大コピーが張付けてあった。コピーの紙は少し黄ばんで反り返っていた。

 ページの上に〈ファウスト第二部 第一幕〉とある。

〈宰相〉

〈 ……………

 この高い殿上から広い国内を見おろす人は、

 怪物が奇怪な姿で暴威をふるい、

 不法が合法らしく世を支配し、

 かくて間違いだらけの世界が展開しているのを見ては、

 まるで悪夢のような思いをいたしましょう。

 ある者は家畜をぬすみ、ある者は婦女をうばい、

 また祭壇から杯や十字架や燭台をくすねとっても、

 長の年月、無事息災で傷ひとつ負うことなく、

 かえって己が仕業を自慢の種にすらしております。

 いまや告訴人は法廷に押しよせ、

 裁判官が高い褥の上にいたずらに威儀をつくろっている間に、

 一揆の騒ぎは次第に大きくなり、

 瑤り狂いながら大波をよせてまいります。

 勢力のある同業者をうしろ楯にすれば、

 恥しらずの悪業を行っても大きな顔をしておられます。

 そして罪なきものでも孤立無援であれば、

 有罪の宣告をうけるのは、ごらんのとうりです。

 かくて世の中は秩序を失ってばらばらになり、

 秩序にしたがっている者は無価値となります。

 そうすると、われわれを正義に導く唯一の、

 分別というものがどうして発達しえられましょう。

 廉直な人間でも、おしまいには、

 おべっか者や賄賂をつかう者に款をつうじ、

 罪を罰する力のない裁判官は、

 結局犯罪者の仲間となるのです〉

 深田に聞くと、このコピーは、争議連の先輩で数年前に法対部を担当していた文学好きのテレビ局員が残していったものだという。深田自身は技術者だといっていたが、やはり文学趣味があるようだった。

「ゲーテは法学士で、弁護士もやったし、ヴァイマール公国の大臣になったこともあるんですってね。『ファウスト』第二部にはその経験が生かされているんじゃないですか。

 この前、テレビでナチスの戦犯追及のドキュメントをやってましたが、今の西ドイツでは裁判官の法衣を廃止して普通の背広姿で、しかも、同じ高さのフロアに座って裁判をやっているようです。きっと、ゲーテの皮肉が一世紀後に通じたんですよ。

 今では、ドイツの真似をした日本だけが時代遅れの権威を笠に着ているんです。どうです。この章句は今の日本の裁判所の現状とぴったりでしょ」

 という。達哉も相槌を打った。

「本当ですね。まさに〈芸術は永し〉の典型ですね」

「そうでしょ。〈芸術は永く、人生は短し〉……でも、風見さんならご存知なんじゃないですか。芸術と訳されているアルスは、本来、芸術よりも広い技術全体の意味だったとか」

「ええ」と達哉は自分の物好き知識だけに喜んで解説した。「アルスというラテン語自体は英語のアートと同じで広い意味なんですがね。あの格言のもとをただせば、医学の祖、ヒポクラテスが書いたとされている『エピデミア』の文章なんです。最初はギリシャ語で、医者と患者の心得に関するもっとずっと長い格言の出だしの部分です。だから、アルスを医術と意訳している例もあります。つまり、出典の文脈からいうと医術という狭い意味なんです。人生は短いが、医術を極めるのには時間が掛かる、というのが本来の意味ですね。この格言の順序をひっくり返して〈芸術は永く、人生は短し〉という意味で使い始めたのがゲーテあたりなんですよ」

「なるほど。それじゃ、ゲーテにピッタリなのも当然ですね。アハハハッ……」

 深田は愉快そうに笑って、意外な精神的余裕をのぞかせた。

 達哉は改めて深田に聞いた。

「ところで、鶴田弁護士には、弓畠耕一最高裁長官について個人的な情報がないだろうかと尋ねたんです。そうしたら彼は、あんたがたに聞いてみたら、というんです」

「アハハハッ……。なんだか僕らは裏情報の専門家と思われているみたいですね。でも、個人的……ねえ。……うん。弁護士達も陰では最高裁のことを〈最低〉裁と呼んでいますね。だから、そこの長官というのは、いくら頭が良くて世渡りがうまくても、人間としては〈最低〉のクズなんじゃないですか。アハハハハッ……」

「それはキツイ。〈最低〉裁判所なら、せめて、裁判官として〈最低〉ぐらいにして置かないと、ハッハハハッ……」

「ともかく私は、あのインチキな国民審査法で日本国民に信任されたという態度を取ってるだけでも、彼等を信頼するわけにはいきませんよ。そうでしょ。これだけ議論があるのに知らぬが仏を決めこんでいる連中が憲法の番人だというんですから、まるで泥棒に金庫番をさせているような滑稽至極な現象だと思いますね。彼等はみんな偽善者ですよ」

「こりゃまたきつい。ハハハハッ……」

「そういえば二、三年前に、東京高裁の判事が最高裁の正面ホールで飛下り自殺をしましたね。あの時に、どこかの雑誌が取り上げていましたよ。配置転換の不安だとか、弓畠耕一らの官僚支配を恨んでとか……

 かなりいい判決を書いたこともある学者裁判官だったらしいですがね。ああいう人は決して最高裁判事にはなれないでしょ。あの事件は、われわれが最高裁に向けて、〈裁判を労働者・国民の手に〉とか〈あの石の砦に憲法はあるか〉というスローガンで、千名を越えるデモ行進をやったりしていた時のことでした。

 ただしその雑誌の記事には、われわれの運動はこれっぽっちも載っていなかったんで、どこかに放り込んだままですがね。ここにファイルしてあれば、差上げられたんですが……」

「石の砦……か。なるほど。いや、雑誌の記事なら見付けますから、結構です」

「個人的ってのは、……あるんでしょうかね。それとも、隠されているんでしょうかね。……

 いつだったか、NHKがテレヴィで最高裁のシリーズをやってましたよ。判事については若干個人的な経歴が紹介されましたけど、長官については、官舎と家族の紹介だけで、経歴といえば裁判所の関係だけ。長官は、身体付きも顔付も目付きも、いかにも官僚的で権力指向型の典型でした。最後に誰も傍聴者がいない大法廷で、黒づくめの裁判官ばかりが全員並んで判決を読み上げるシーンがありました。不気味ですよね。でも、あれはテレヴィの演出じゃないんですよ。本当に、いつも行われていることなんですよ」

「えっ。傍聴者が誰もいない法廷。……それが、いつものことなんですか」

「ハハハハッ……。やはり知りませんでしたか。そうなんですよ。余程の裁判通でも、これは知らないんですよ。マスコミ関係でも、記者クラブには最高裁の広報課が判決文を渡す仕組みですし……」

「…………」達哉は、やはりギクリとした。

「もちろん憲法第八二条で裁判公開の原則が定められていますから、傍聴を禁じることは絶対にできませんよ。傍聴希望者がいれば、法廷には入れます。ところが、最高裁ではほとんどの事件で口頭弁論の法廷を開かずに、高裁の判決を追認します。書類を見るだけなんです。そして、そういう事件の判決の場合には、事件の当事者にさえ判決日を知らせないんですよ。労働事件には、そういうのが多いんです」

「日時を知らせないんじゃ、傍聴者どころか、当事者も来ないでしょ」

「来ないというよりも、来させない、というべきでしょうね。特に、労働者側が高裁で負け、最高裁でも負け、判決も直接言渡されないという場合には、裁判を受ける権利はどこに保障されているのか、という気分になりますね」

 深田自身は労働委員会で連勝している。

 だが会社は、中央労働委員会を相手に行政訴訟を起こした。

 深田はまず、会社にその命令を一応守らせるための緊急命令を地裁で勝ち取り、すでに職場に戻っている。そして地裁、高裁で行政訴訟にも連勝し、今は最高裁の判断を待っているところだった。交替勤務の職場だから、明け番の日には東京争議連の事務所に詰めて運動を続けているのである。

 つまり、争議は継続しているものの、司法関係の局面での闘いには常に勝利してきた立場である。

 しかし、それだからといって、日本の司法行政を許すわけにはいかないという。深田の闘いはすでに十六年目に入っている。法律的には当然直ちに勝利すべきものが長期に渡る理由は、司法行政の責任だというのである。これでは大部分の国民に対して〈合法的に泣寝入りを強要する制度〉でしかない、ともいう。その上に、一緒に闘ってきた先輩や仲間への想いがあるのだろう。語気鋭く続けるのだった。

「毎週定例で月曜と木曜の朝十時から、そういう事件の判決が、時には何十件も続けて言渡されるんです。しかも、その日の朝でないと、どの事件の判決が出されるかは分らないんです。最高裁でも負けを覚悟していた先輩が一人いまして、しつこく追及したんですよ。そうしたら、書記官が教えてくれたんです。あなたの事件は木曜の方だから、毎週木曜日の朝九時に電話をしろと。……彼は、それを三年間続けて、やっと自分の敗訴判決を直接聞くことができました。もちろん、我々からいわせれば大変な不当判決ですがね」

「ううむ」と達哉もうなってしまった。「つまり、……事件の当事者が、自分の事件の判決が読み上げられる法廷に出る機会をつかむためにさえ、毎週朝九時に待機して電話を掛け続けなければならない。これで裁判の公開といえるか、ということですね」

「しかも、判決文はちゃんとタイプされているんですから、ギリギリまで判決予定日が決まらないということではないんです。当事者に知らせる余裕がないという理屈は成立ちませんよ。そう、そう、……」と深田は躰全体を揺すって、右手の人差し指を振り立てた。「マスコミが注目している事件では、記者クラブに前の日に知らせたりしてるんですよ。ある記者が前の晩に当事者に電話をして、それで出廷できたって話もあるんです」

「うーん。最高裁お得意のレトリックにしても、これは一寸ひど過ぎるな」

「呆れた裁判所ですよ。でもねえ、テレビであの全然ひと気のない大法廷のシーンを見ていたら、なんか異様な、今にも呪文を唱え出しそうな、時代錯誤の秘密の黒魔術というか、オカルトの世界をのぞいたような気がしましたね。かえって怖さを忘れて、プッと吹き出してしまいましたよ」


(2-5) 第二章 花崗岩の砦 5